南京安全区国際委員会のメンバ-と日本人牧師


国際委員会は当初15名で組織され、

ドイツ人のラーベを委員長にしました。

社命で帰国する委員もあり、

後から参加する人たちもいて

人数は22名とも言われますが流動的です。

分かる範囲でメンバ-を書きます。

委員にはなっていなくても活躍したメンバ-は含めます。

 

 

上記外国人の一覧の中段より少し下に

「S.安村」と言う名前があります。

安村三郎で日本のYMCA(日本基督教青年会同盟)から

南京に派遣されていました。

日中戦争が始まると

日本基督教連盟は日本政府の立場を支持し

「事態の推移に応じ、

我が国基督教会の立場を有利に導く為に善処すべく、

各種の事業に専念する事」になりました。

 

各種の事業とは、

1. 精神報国運動 

2. 皇軍慰問事業 

3. 文化工作並びに宣撫事業 

 

戦争の拡大に伴って日本軍に対する

批判が高まってきたため、

日本の基督教会では、

中国の宣教師に日本の立場を説得し

「善処」することや、日本軍と外国宣教師の

仲介者になることに使命感を抱きました。

 

● 奈良伝(つたえ) 神戸基督教青年会総主事 

         奈良伝「千里の道」から      

 当時日本派遣軍、殊に現地軍隊と、

 在中国の米国宣教師との間に

 起こったトラブルは、

 外交路線を通じて次々に抗議せられ、

 その件数だけでも350余にのぼり、

 軍部のほうでも実際には

 手を焼いていたらしい。

 外務省アメリカ局や

 参謀本部第二部アメリカ班の幹部らも、

 アメリカとの開戦は絶対に避けたい

 本気で考えていた・・・・

 その流れで安村が派遣されたのです。

 安村は1938年12月から39年2月まで

 派遣され南京国際救済委員会の委員になりました。

 外務省に提出された報告書では

 「南京特務機関出仕/軍嘱託」になっています。

 国際委員会では

 安村が日本の外務省や特務機関と

 関係があることは知らず、

 YMCAから派遣されたと信じて

 委員にくわえたと思われます。

 

安村の南京での行動はよく分かりませんが、

同じ安全区委員の僅かな記録から見てみます。

 

● スチュワ-ド 日記 12月14日 

 日本のYMCAから来た1人の日本人牧師が、

 国際救済委員会問題が解決するようにと

 連絡をつけるのに役立ってくれている。

 適切な政治的でない市民が見つかるなら、

 日本人と中国人を委員に加えるという

 委員会の前向きな姿勢、

 この空気を一掃するだろう。

 ・・・・現在の委員は

 全て米国人あるいはドイツ人だ。

 

● ヴォ-トリン 日記 12月16日     

 国際救済委員会の困難が現

 在逐次解決されつつあり、

 非常に多くの誤解もまた現在解消しつつある

 ・・・・安村牧師は、

 国際救済委員会が困ったとき、

 その解決を非常によく助けてくれた。   

 

● ヴォ-トリン 日記 1939年1月24日     

 (安村は)軍と公式な関係はないが、

 事を進めるには必ず彼らの許可を

 得なければならない          

  注:安村が軍と深い関係にあったことを

    感じとっています。 

 

安村と偶然首都飯店で会った

麻生徹男(南京第14兵站病院勤務)の記録があります。

 

● 麻生徹男  「上海から上海へ」より     

 聞く所によると、その御来訪の目的は

 広田外相の特別な要請に基く

 極めて重大な一件であるとのこと・・・

 それは南京陥落に際して発生したという、

 日本軍人の中国民衆に対して行なった、

 所謂、南京暴行事件に際し、

 当時現地の南京安全区国際委員会

 ルイス博士やマギ-牧師との懇談であった。

 このことは南京暴行事件の一つとして

 挙げられている投降中国兵の

 無差別大量殺戮事件とは別個の、

 中国良民婦女子に対する

 日本兵の暴行事件であり、

 これらの暴行は国際的衆人環視の中にて

 行なわれたるもの

 これらの被害者は被害者としても、

 これを目撃した子供達への影響は

 誠に重大なものがある、

 と云うのがルイス博士や

 マギ-牧師の意見であった。

 当時アメリカ国旗のもと

 金陵大学は難民の保護収容所であったので、

 日本政府としても、

 安村牧師に日本YMCAの肩書きを被せて、

 米国、ひいては中国に開けた窓として、

 何かの償いの道を講ぜんとしたのである・・・

 

南京事件の少し後になりますが、

日本のキリスト教関係の動きを書きます。

1941年に入ると日本基督教連盟の

諸教派合同運動が始まり

「皇紀2600年奉祝全国基督教信徒大会」が開かれ、

6月には日本基督教団が合同教会として生まれました。

 

● 日本基督教団の規則第一章「本教団の生活綱領一」(原文カナ)      

 皇国の道に従いて信仰に徹し

 各その分を尽くして皇運を扶翼し奉るべし・・・・

 

1944年には「大東亜共栄圏に在る

基督教者に送る書簡」が発表されました。

 

● 書簡

 日本は大東亜諸民族一大解放の

 戦いを行なっている・・・・ 

 サタンの狂暴(米英の不正・不義)を

 滅ぼす進軍の角笛は高らかに吹き鳴らされた。 

 大東亜の基督教徒は、互いに扶け、

 互いに尊重し、互いに愛し 

 正義と共栄の美しい国土を

 東亜の天地に建設することによって 

 神の国をさながら地上に

 出現せしむることは、 

 われら基督者にして

 この東亜に生を享けし者の

 衷心の祈念であり、

 最高の義務であると信ずる。