李秀英さんの証言

このシリ-ズでは、南京事件が

実際にあった事だということを書くために、

客観的に、出来るだけ加害者である

日本側の資料や第三者の欧米人の資料を

中心にして書いています。

しかし客観的資料を中心にするだけでは、

自分を蚊帳の外において

傍観者的に見ているに過ぎません。

悲惨な事件が現在でも世界中

いや私たちの身の回りに絶えず起きています。

一人ひとりの人生をいかに考えるか、

被害者の苦悩にどのように耳と心を傾けるか、

気持ちを共有できるか・・・・

そのためにあえて被害者の証言も書きます。

 

国際安全区のアメリカ人、

マギ-牧師が日本軍に隠れて

趣味の16ミリカメラで撮影したフィルムが

残って言います。

時間は24分くらいです。

このフィルムはアメリカに持ち込まれ、

全米の講演会で上映され、

ドイツのヒットラ-にも送られています。

(ヒットラー実際が見ていたかどうかは分かりません)

このフィルムはその後行方が分からなくなりましたが、

1991年7月にマギ-牧師の次男の

デヴィッド・マギ-氏の自宅から発見されました。

この映像には「李秀英」と「夏淑琴」の

二人の女性が映っています。

ここでは李秀英さんの証言を書きます。

松村俊夫氏をはじめとした

心無い日本人が、李秀英は偽者である、と

「南京虐殺への大疑問」という本で主張しましたが、

東京地裁で松村氏は敗訴しました。

李秀英さんは2004年12月、86歳で亡くなりました

 

● 李秀英 東京での証言 1997年2月14日       

 私たちは五台山のアメリカの小学校の

 地下室に隠れていました。

 そこには2つの部屋があって、

 5~60人が避難していた。

 入り口に近い部屋が男性で、

 奥の部屋が女性だった。

 12月18日に日本兵が来て

 多くの男性を連行して行った。

 捕まったら男は撃ち殺されて

 女は輪姦されるのだと言って、

 みんなとても怖がっていました。

 1937年12月19日、

 私はこの日を一生忘れません。

 朝ごはんをすぎたばかりのころ、

 また沢山の日本兵がやって来ました。

 この日は直接女性の部屋にやって来ました。

 そして女性を連れ出そうとするのです。

 私は妊娠していたので、

 このまま日本兵に凌辱されるなら、

 自殺した方がいいと思い、

 壁に頭をぶつけて自殺しようとしました。

 そして頭を壁にぶつけて気を失ってしまいました。

 その時、残っていた方々は私をベットに運びました。

 逃げたら、外でまた日本兵につかまる、

 しかし、ここにいても日本兵がやって来る、

 どうしようという気持ちでした。

 私は中国の女性の尊厳を守ろうと覚悟しました。

 どうせ死ぬなら、

 その前に戦って死のうと思ったです。      

 時計もないので、

 どのくらいの時間がたったかわかりません。

 しばらくしてまた日本兵が3人やって来ました。

 この部屋はそんなに広くなかったのですが、

 入り口の方には年寄りの女性と子ども、

 奥の方に若い女性というふうに

 配置して隠れていました。

 日本兵は入り口の方はそのままにして、

 年寄りの女性たちをかきわけて、

 奥の若い女性の方にやってきました。

 私を見たのですが、まわりの人たちは、

 私のことをさして「この人は病気です」

 と言ってくれましたが、

 日本兵はかまわず、

 まわりの人たちを追い出しました。

 私は低いベットに寝かされ、

 薄い布団をかけていました。

 日本兵は腰をかがめて、布団をはがそうとしました。

 目の前に日本兵の剣が見えました。

 私は夢中でその剣を奪い取りました。

 日本兵は驚いて、

 私の両手をもって押さえ込もうとしました。

 私も全身の力をこめて、

 日本兵の手にかみついていきました。

 その日本兵はギャ-と叫びました。       

 私は手に剣を持っていました。

 日本兵の声を聞いて

 他の2人の日本兵もやって来ました。

 その2人の日本兵は銃剣で

 私の足の方を刺し始めました。

 私は必死に抵抗しました。

 私はたちあがって壁を背にしていました。

 彼らは私の身体に滅茶苦茶に

 銃剣を刺してきました。

 左を向いたら左の頬を、右

 を向いたら右の頬をという具合でした。

 私の顔にはたくさんの傷が残っています。

 私は顔から血を噴き出していました。

 相手の日本兵の服の上に血が飛びました。

 もう1人の日本兵は私のお腹を刺してきました。

 妊娠7ケ月になっていましたが、

 そこで私は気を失ってしまいました。       

 同じ部屋にいた年寄りの女性や

 子どもたちは逃げていましたが、

 戻ってきた私の父は「あなたの娘、今、

 下で日本兵と闘っている」と言われたそうです。

 父は早足で地下室に行くと

 そこは壁も床も血だらけでした。

 私の顔を見て、もうだめだ、と思いました。

 私の名前を呼んでも返事もしない。

 息もしていない、という状態なので、

 死んでしまったと思ったのでした。

 そこで、木の板を持ってきて私の身体を乗せ、

 埋葬しようと外へ運び出したのです。

 南京の12月はとても寒く、

 冷たい空気にふれたので、

 鼻から血の泡がふきだしました。

 ある老人は私が生きていることに気がついて

 「埋めてはいけない。早く鼓楼病院に

 連れて行こう」と言ったのです。       

 私は鼓楼病院に連れていかれて、

 アメリカの医者に診てもらいました。

 身体を37ケ所も刺されていました。

 医者は「お腹の傷が炎症を

 起こさなかったらもつが、

 お腹の傷が炎症を起こしたら

 駄目だ」と父に言いました。

 翌日お腹の赤ちゃんは死んでしまいました。

 牧師さんがやってきました。(マギ-牧師のこと) 

 一週間後にまたやってきて撮影しました。