南京事件

南京への渡洋空爆 3
記事専用プリント対応ページ

最終更新日:2017/05/20 10:27

日本の外務省は、一度は堀内健介外務次官が南京空爆の中止を表明しましたが

海軍の圧力を受け、態度を変更し海軍に追従していくようになりました。

広田弘毅外務大臣は10月9日次のような声明を発表しました。

●広田外務大臣の声明

国際連盟は現に帝国が支那に於いて執りつつある行動をもって、

9ケ国条約及不戦条約違反なりと断定し、

米国務省また同趣旨の声明を発したるが、

右は今次事変の実体および帝国の真意を理解せざるより来れるものにして、

帝国政府の甚だ遺憾をするところなり。・・・・

帝国の対支行動は、如何なる現存条約にも違反せず、

却って赤色勢力に操られ、国策として執拗悪性なる排日抗日を実行し、

武力行使に依り自国内に於ける日本の権益を排除し去らんとして

今次事変を招来せる支那政府こそ不戦条約の精神に背戻し、

世界の平和を脅威するものと言うべきなり。

 

日本軍の空襲に恐怖を感じたラ-ベが本国ドイツにだした報告書です。

●ジョン・ラ-ベの報告書から

南京の人口は、私が7月に出発した時には、約135万人でした。

その後、8月中旬の爆撃の後で、そのうち数10万人が街を離れました。

注:南京の人口が135万人と言うことが書かれていることに注目してください。

 

当初陸軍はあまり拡大しない方針を採っていましたから、

海軍の方が先行して南京戦へと拡大したことになります。

 

9月22日の爆撃では難民収容所に爆弾を投下し100人以上の死者が出たと言われます。

●L・Cスミス  ロイタ-通信社 「日中戦争南京大虐殺事件資料集・英文資料編」

爆撃後に下関の難民収容所に行ってみたところ、

その光景は目をおおうばかりで、

現場には犠牲者のばらばらになった遺体がからみあったままかなり広範囲にわたって散乱していた。

多数の難民の住んでいたむしろがけの小屋は爆撃で火がつき、なお炎焼中である。

その炎から出る煙は大きな柱となって空に立ちのぼり、

そのあたりの何マイルも離れたところからも目にすることできた。

 

爆撃は9月19日の第1次から25日の第11次まで行われ、延べ291機(289機という資料もある)が参加し、

爆弾は355発(32.3トン)が使用されたといわれています。

●南京市長 馬超俊の国民政府への報告書 11月4日付から

8月15日から10月15日までの2ケ月間に65回の空襲があり、

被害は南京城区の全区域におよび、

市民(軍人を含まない)392人が死亡、438人が負傷、

破壊された家屋は1949間(約7~800戸)に達した。

 

南京陥直後、第13航空隊指揮官だった奥宮正武大尉が戦死した搭乗員の消息を調査しました。

その時に書かれた記録です。

●・・・・この一連の調査中、私は、市の内外を合わせて、20数柱の遺体を発見することができた。

 そのさい私の胸を打ったのは、中華門の南方にある農村の墓地で、

 立派な木製の棺に収められた九柱の遺体であった

 七柱は中攻の、二柱は艦爆の搭乗員たちであった。

 首都の被爆で混乱を極めていたであろう時に、

 人道的な見地から、敵兵を丁重に葬ってくれた紅卍会の人々に感謝せずにはいられなかった

 その頃城外で行き合った多くの農民からは、敵意をまったく感じなかった。

 また、城内の中心に近いところでは、

 墜落した日本機が民家とその住民を道連れにしたという悲劇も聞いた。

 繁華街の人々も、親切に私の調査に協力してくれた・・・・

 25日の爆撃目標になった国立中央病院には

 以前に墜落した日本軍機から救出された日本人飛行士も入院治療中だった

注:逆の場合だったら日本人はどのように敵の兵士を扱ったでしょうか

 

南京だけではなく海軍航空隊による都市無差別攻撃は、

中国の60ケ所以上に及んだため外国の新聞記者や映画カメラマンなどにより世界中に知れ渡って行きました。

日本の新聞だけが「戦果」として誇大に報道していたのです。

その結果、世界中から非難を浴び、日本の外務省は困っていました。

●外務省東亜局長 石射猪太郎の日記から

10月4日  日本の新聞はもう駄目だ

7日  世界は今や日本に向ってあらゆる言葉をもって非難をあびせている。

  それは決して驚くことではないが、憂うべきは日本自体の無反省

注:マスコミや国民の無自覚は当時だけではなく、現在でも同じです。

 

日本の海軍省の記録では、8月15日の渡洋爆撃から始まって、

12月13日の南京占領にいたるまで海軍の南京爆撃は50数回におよび、

延べ参加機は900余機、投下爆弾は160余トンにおよんだとされています。

この空襲で上海を始めとした周辺地区から貧困な層が南京に流入し、

逆に裕福な階層は遠隔地に避難をしたため南京の都市機能は混乱し、

11月20日国民政府は首都を重慶に遷都する事に決めました

その結果南京の人口は南京防衛軍と40~50万の市民や難民だけが残りました。

 

その後日本軍による無差別都市爆撃は有名な重慶大爆撃になり、

そしてアメリカ軍による日本各地への無差別爆撃へと続くのです。

 

余談ですがアメリカの日本への無差別絨毯爆撃は1945年3月10日の東京下町大空襲が有名ですが、

その司令官はルメイ少将です。

戦後ルメイ少将が航空自衛隊の育成に貢献したとして

政府(皇室)は勲一等旭日大綬章を与えています。

割り切れないものがあります。

 

当時は航空戦力は爆撃中心で戦闘機による掩護や戦闘はあまり考えられていませんでした。

そのため海軍の渡洋爆撃も戦闘機の掩護なしに行われたので、

中国空軍のアメリカ製戦闘機による攻撃で爆撃機は被害を受けています。

そこで海軍では戦闘機の必要性を感じ、緊急に戦闘機開発に着手し、

96式及び0式(ゼロ戦)と呼ばれる世界最高性能の戦闘機が完成したのです。

   注:ゼロ戦は紀元2600年、つまり昭和14年の完成です。

 

 

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

ご意見・ご感想はこちらへ ※個人情報の取り扱いについて

お名前 (必須)

メールアドレス ※返信をご希望の方はご記入ください

メッセージ本文