南京事件

国際委員会が日本・米国大使館に提出した報告書 2
記事専用プリント対応ページ

最終更新日:2019/01/05 10:26

1938年1月2日にまとめ、日本大使館に提出

168)12月27日午後3時、

手に銃剣を持ち黄色の襟章をつけた3人の日本兵が、華僑路5号の我が家に押し入り、

私の18歳になる妻を強姦しようとしたが、数人の日本憲兵に制止された。

憲兵が彼らを連れ去った。(堵培英)

173)1938年1月1日午後、

3人の日本兵が金陵女子文理学院の建物に押し入り、

その内の一人は竹園の中まで一人の女性を追い回した。

この女性はミス・ヴォ-トリンに助けを求めた。

ミス・ヴォ-トリンはすぐその場に駆けつけ、強姦事件を一つ阻止した。

ミス・ヴォ-トリンは更に2人の日本兵を見つけたが、彼らは憲兵隊の者だと自称していた。(ヴォートリン)

175)1月1日午後4時、

3人の日本兵が漢口路11号にある大学付属の建物(アメリカの管轄)の中で、14歳の少女を強姦した。

同じ部屋にいた一人の女性が大学の門へ走って行って憲兵を大声で呼んだが、

憲兵の行動は緩慢で、現場に着いたときは手遅れだった。(ベイツ)

1938年1月4日にまとめ、日本大使館に提出

177)1月2日15時、

シュペ-リングとフィッチ先生が呼ばれて寧海路13号の家へ向った。

4人の日本兵がそこへ押し入って略奪と強姦を行おうとしていた。

日本兵たちはシュペ-リング先生が黒い卍の腕章を着けているのを見ると

“ドイツ人だ、ドイツ人だ”と叫びながら逃げ去った(シュペ-リング) 

178)1月3日、

現在大学病院に入院している一人の女性が次のように報告している。

1937年12月30日、彼女は他の5人の女性と一緒に銅銀巷6号の家から、

日本の軍官の衣服を洗って欲しいと騙されて連れ出された。

日本兵は彼女たちを西の郊外の建物に連れて行った。

彼女らは状況からみて日本軍の病院だろうと判断した。

ここで、確かに昼間は衣服の洗濯をさせられたが、夜は毎晩彼女たち全てに強姦が繰り返された。

年令の高い女性では一晩に10回~20回、若くてきれいな女性は40回の多きにのぼった。

1月2日、2人の日本兵がこの女性患者(この報告者)をへんぴな校舎のところへ連れ出し、

銃剣で10回彼女を突き刺した。

4回は彼女の頚で頚肉は刺されて脊髄に達するほどに切れている。

1回は手の関節を、1回は顔を、4回は背中を突き刺している。

この女性はおそらく回復できるであろうが、しかし頚は曲がらなくなってしまった。

2人の日本兵は彼女が死んだものと思って彼女を放置した。

別の日本人が見つけ、あまりにひどい彼女の様子をみて中国の友人たちのもとへ送り届けた。

これらの中国人たちがその後病院へ送り届けられたのである   (ウイルソン医師) 

1938年1月10日にまとめ、日本大使館に提出 

180)1月8日夜、

5~6人の日本兵が沈挙人巷22号の家屋に押し入り、女性を強姦し、

ピストルで数人の中国人を射殺した。  (報告人:李女史、32才)

185)1月9日朝、

クレ-ガ-とハ-ツは、一人の中国平民が1人の日本軍将校と1人の日本兵に引き立てられて、

安全区の中にある山西路のそばの池で処刑される情景を見た。クレ-ガ-とハ-ツがそこへ着いたとき、

この男性は薄氷を割った池の中に腰まで浸かってよろよろと立っていたが、

軍官の命令に従って、日本兵は1つの砂袋の後ろに腹ばいになって射撃を開始した。

第1発は男性の肩に当たり、第2発は外れ、第3発で彼は射殺された。(報告人:クレ-ガ-、ハイツ)

我々は日本軍隊の合法的な処刑に対して抗議する権利は当然持っていない。

しかし上で見たような処刑方式は疑いもなく不当であり、残酷である。

またこの機会にもう一度、日本大使館の先生方と個人的な談話で

いつも取り上げている問題について述べておきたい。

死体によって池が汚染されるため、安全区内の水源は大々的に減少した。

或いは破壊されたと言える。

長期にわたって水が不足する時期には、こういう状態がきわめて危険であることをとりわけ指摘しておきたい。

特に市の水道管はほとんど回復していないのだから。

1938年1月17日にまとめ、日本大使館に提出

189)1月14日、

日本兵は氾文女子学校の外国人教師の住宅からベッド2つとベッド用品を盗んでいった (ベイツ)  

190)1月14日、

難民一家が大学付属中学から自分の家に戻った。

途中で登録証を貰い、自分の家の門に貼った。これがあれば日本兵の騒動を受けなくてすむと言われている。

しかし家に戻って1時間もしないうちに、5人の兵隊が彼らの住居に、男を追い出し数名の女子を強姦した。

1月15日この家の人は再び中学に戻って住むようになった。 (ベイツ)

1938年1月28日にまとめ、日本大使館に提出

204)事態報告1月25日、

難民収容所の魏の報告:ここで強姦された事件リストと日本兵が残したベルトを提出する。

      時間        年齢     注

     1月13日14時  16歳  2名の兵士が少女を強姦した

     1月13日17時  37歳  女性が1名の兵士に強姦された

     1月13日21時  27歳  女性が1人の兵隊に拉致され、翌日になってから釈放された

     1月19日20時  37歳  女性が1人の兵士に強姦された

     1月20日夜    13歳  女性が1人の兵士に強姦された

     1月20日夜    48歳  同じ兵士がまたこの女性を強姦した

     1月20日夜    36歳  この兵隊は再び女性を強姦した。午後から翌朝まで3名の女性を強姦した。

 彼は5時に離れるときにバルトを落としていった。

                    署名捺印:李瑞亭、鼓楼西難民収容所責任者

205)1月25日16時ごろ、

羅という中国少女(彼女は母親や兄弟と安全区のある難民収容所に住んでいる)は、

日本兵の撃った弾を頭に受けて、死亡した。

少女は14歳である。

この事件は、古林寺(安全区わきの有名な寺)近くで起きた。

彼女が兄弟について野草を採りに来て畑で忙しく働いていた時、1人の日本兵が現れ、

彼女に襲い掛かろうとした。

彼女がびっくりして逃げ出したら、日本兵に撃ち殺された。

弾は少女の後頭部から入り、額から飛び出した。  (オーナストH・フォスタ-)

1938年1月31日にまとめ、日本大使館に提出    

210)1月21日の夜間、

高家酒館44号で2名の日本軍兵士が、女性を探し求めていたが、

幸いにもこの家の女性たちは一昨日金陵大学付属中学に行ってしまっていた。

この2名の兵士は人から煙草と金銭をゆすった。

この家の人は大変貧しかったので、彼らは隣の家に入った。

そこで、彼らは2名の女性を見つけ、なんと夫の目の前で彼女たちを強姦した。

1月22日、この2名の兵士は更に2名の仲間を連れてこの家の前でにやにやしながら立っていた。(ゾ-ン)

211)1月25日の午後、

鼓楼病院は一人の女性を収容した。

彼女は夫と安全区の宣教師訓練学校付近の藁葺き小屋に住んでいた。

12月13日、日本兵は彼女の夫を拉致して行った。

彼女も城南の某所に連れて行かれ、そこで拘禁されて、毎日7~10回も強姦された。

夜になって少しばかり休ませるだけであった。

彼女は既に病気に罹り、状態が非常に悪くなっていたので、5日前になってようやく釈放された。

彼女は既に3つの性病:梅毒、淋病、下疳に罹っている。

非常に悪質で、すぐに伝染する病気である。

彼女は短期間にこの病気に罹ってしまった。

彼女は解放されるとすぐに安全区に戻ってきた。 (ウイルソン)    

この若い女性は、安全区の茅葺小屋から日本兵に拉致され、

城南に38日間も閉じ込められました。

その間、毎日7~10回も輪姦された。

そのため、彼女は3種類のもっとも悪質な性病にかかってしまっただけではなく、

陰部の大部分がひどくただれてしまったので、日本兵はようやく彼女を釈放した。

というのは、彼女はもはや彼らの性欲のはけ口としては役に立たなくなったからである。

彼女は1938年1月26日に教会病院(鼓楼病院)に送られてきた。

この写真はそれから数週間後に撮ったものである。(注:原書には写真があります)

彼女が日本兵に拉致されたその日に、彼女の夫(警察官である)も日本軍に連れて行かれたが、

その後は行方が知れない。その他に連れて行かれた数千人と同じようにすでに殺されたと断定できる。

 

このような報告書が延々と2月5日の426番目のまで続きますが、省略します。

繰り返しますが、この報告書はアメリカ政府と日本政府に送られています

 

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

ご意見・ご感想はこちらへ ※個人情報の取り扱いについて

お名前 (必須)

メールアドレス ※返信をご希望の方はご記入ください

メッセージ本文