南京事件

松岡 環氏の聞き取り調査 3
記事専用プリント対応ページ

最終更新日:2018/11/03 10:20

「境昌平

1916年11月生まれ 第16師団歩兵第33連隊第3大隊 2000年7月取材

◎まず物を取る 火をつける    

まぁ言われるがままに戦争をしてきたわけ。

当時私らが思ったのは、敗残兵を処分するのは当たり前だだと、そういう観念でいたね。

今思うとあんなことは非道だと思うけどね。

私らは捕虜を人道的に処遇することを定めた国際法なんか教えてもらったことがないんでな。・・・・

食べていくのにみな略奪ばかりですわ。みな現地調達だったんでね。

指揮班も何かあったら物探しに行ってたわな。・・・・

朝の出発時、今まであたっていた焚き火にその辺の机とか椅子とか家財を積み上げて出て来るわけ。

すると我々が集合してる後ろで燃え上がった。

これは点け火ですわな。

つまり自分らが世話になった家を焼いて出てくるわけ。

無錫の手前で、「後続部隊が困るからやるな」と命令が出ました。   

◎支那人は人間ではなく、品物ですな    

・・・・日記に書いてるように、捕虜になったら処分するのは当たり前やと思ってたね。

だから下関で見たように、海軍の仕官が日本刀で支那人の首を切るのを希望すると、

歩兵が「どうぞ」と言って「今やってますから」と、支那人の捕虜を差し出すんだが、差し出す方も無神経や。

その時の支那人は人間ではなく、品物だね。   

◎ガス弾の使用    

中山陵の手前でガス弾を使った。私らは催涙弾ばかり使ってた。

南京では常熟の手前でも催涙弾を使ったね。

河に飛び込んだ裸の6~7人いたので、その時は発炎筒を使った。

ト-チカが落ちないので川上から催涙ガスを投げてト-チカから追い出したことがある。

向こうでは訓練で使ったようなイペリットとかルイサイトは使ってない。催涙弾だけ。

催涙弾は緑色ですわ。

大別山では赤筒(くしゃみ性)を使いましたけどね。

 

「上西義雄

1914年11月生まれ第16師団歩兵第33連隊第2大隊 2000年9月取材

◎中隊長が「捕虜にした者は全部殺せ」と指令    

・・・・中隊で南京城内を20日間ぐらい毎日掃蕩しました。・・・・

民間人と便衣兵との差は、手のマメなどでで見分けました。あとはだいたい若いとか。

とにかく男ならひっぱりました。連行したあとに査問などはしていません。

後ろ手で数珠つなぎにして、中隊で配られた紐を持っていって、つなぎました。

それでも始末がつきませんで、手漕ぎの舟に乗せて転覆させて沈めました。

1回にだいたい54~55人ぐらい乗せました。翌日もしました。

他にも、こうやって河辺に並ばせといて、計機関銃でバババッと撃っていました。

それで死体が山のようになっていました。・・・・

捕虜の処分は師団命令です。

実際に私ら兵隊に命令を下したのは中隊長で「捕虜にした者は全部殺せ」と言って指令されました

◎実際に死体に油をかけて焼いた

私らも、実際に死体に油をかけて焼いたということもありました。

南京城外のクリ-クではそうしていました。

中国の民間の人を使ってしていました。

その辺にころがっている死体にそのまま油をかけて焼きました。

12月20日ごろ、掃蕩をやっているときに、別の部隊が死体を焼いていたりしたのも毎日見ました。

沖に死体を運ぶ船も30ぐらいあり、2週間ぐらい毎日見ました。

私たちは陸上で処理していましたが、船を動かしたていたのは工兵隊でした。

鉄舟で死体をひいていました。木造船もありました。

紐で結んで、ひっぱっている死体もたくさん見えました。

死体を焼いていた理由は、死体が大体1週間で腐ってきて、腹が膨れてきまして、臭くなるからです。

マスクもせずにそのまま、燃やしていました。脂がのっていますから、燃えますよ。

分隊でやりました。かなりの数でした。

まず掃蕩をしました。

剔出して、処分もしました。死体処理もしました。

中国人を使って死体を河に流したり、油をかけて焼くというのもしました。

それは中隊長からじきじきに「死体の処理をせよ」という命令でした。

各小隊は全部出ました。

掃蕩も中退で3個小隊の6個分隊が交代で出ました。・・・・

 

「内村和郎

1915年10月生まれ 中部第38部隊第2碇泊所 2000年11月取材

◎橋の下一面の死体   

南京陥落の翌年、昭和13年、支那事変の後始末に行きました。・・・・   

南京はすごかった。臭いやもん。

人間が腐っとんや。臭いの臭くないの、その場にいられないくらいやった。

南京城外付近のクリ-クに橋がかかっとって、水がなくなってカラカラになっている。

その下一面に死体が放ってあった。腐っているのもあったが、まだ生々しい死体がようけあった。

目を光らしたのもあった。まだ骨もでてなくて、殺して1ケ月くらいたった程度やないのかな。

「しっかり見とれよ」と言われたよ。でも死体は見ない方がいい。

びっくりして卒倒した人もいたわ。百メ-タ-くらいの橋だったから何百人という死体の数や。

中隊くらいの人数ですわ。ほとんど支那人や。

日本人の死体は戦場処理しますからな。

命令以外では自由に出歩いたらいかんと言われているので、

その後その死体がどうなったかは知らんな。

戦いはもう市民も女も子どもも考えていないもん。もうめちゃくちゃやもん。

「男であろうが女であろうが生かしておくな、みんな銃殺や」と、

隊長が言うたとその時、南京にいた歩兵から聞いた。

 

「鬼頭久二

1926年8月生まれ 第16師団歩兵第33連隊第1大隊 1999年、2000年取材

◎生きている者は全部殺せ   

無錫は結構大きな町だった。

戦争中は言ったら悪いけど、我々、大きな町に入ると、徴発できるから皆楽しみにしていました。

砂糖もあり、食糧もあり、女もいるから徴発するのが兵隊の楽しみやった。

町に入ったら自由で、掃蕩と命令される。

中国という国は、親が生きている間に大きな棺桶を買って、

家の入り口の角に置いとくのが親孝行だそうで、

掃蕩に入ったらまず入り口に置いてある棺桶の蓋を開き、中の物を持っていくことでした。

詳しくは覚えていないけど、中にはよそ行きの着物とか、

長く置ける大事な物とか宝石などの宝物もあった。・・・・

町に入って掃蕩の一番の目的は女の人を探すことで、

女を徴発するのが一番楽しかった。

例えば、南京でも暇があったら女を捕まえて強姦してたな。・・・・

南京戦の時、当時の宮さん(注:朝香宮)から命令があって、

その命令は小隊長から聞いたけど、

「犬も猫も含め生きているものは全部殺せ」ちゅう命令やった。天皇陛下の命令やと言ったな。

当時のことを書いた日記帳は終戦の時に全部焼いた。

12月28日の上海軍の発表では、8万4千人の中国兵を殺したとのことや。・・・・

◎女を見つけるとその場で強姦   

掃蕩する時、家を一軒一軒まわり女の子を見つけるとその場で強姦した。

女の子はだいたい床の下かカ-テンの後ろとかに隠れていたな。

見つかった時、怖いかどうか分からないけど、反抗しなかったな。

憲兵から止められたりしなかったので、やり放題やった。女たちは皆顔に墨などを塗っていた。

何人ぐらいしたか覚えていないけど、・・・・

南京城内ではなく郊外では、憲兵に見つかったらうるさいから女の人を殺したりした。

自分は掃蕩戦の時だけ城内に入り人を殺したことがある。そんなことから南京大虐殺はあったとおもう。

悪いことをしたと思っている。

 

「井戸直次郎

1914年7月生まれ 第16師団歩兵第33連隊第3大隊 2000年5月取材

◎死体の山じゃ   

・・・・南京陥落の日じゃった。城内に入る時、城壁の外側が死体の山じゃった。

足下がフワフワするんで、マッチをつけて見たら、筵を敷いたように一面に死体がぎっしりじゃった。

ず-と死んどったんじゃ。どの部隊がやったか知らんが、突き殺したんやな。

兵隊やなしに、女も子どももおった。爺さんも婆さんもおった。兵隊やないもんばっかりじゃ。・・・・

新聞でよう言う”南京の虐殺”って全く本当のことじゃが、

そんなこと言えんもんで、「嘘」や言うとるんじゃ。

16師団が一番悪いことしよったようやと新聞にも書いとったが、

わしら京都の師団のそこら中の連中が悪いことしよったんじゃ。・・・・ 

◎掃蕩して強姦、徴発して強姦   

(強姦は)そこら中でやっとった。つきものじゃ。

そこら中で女担いどるのや、女を強姦しとるのを見たで。

婆さんも見境なしじゃ。

強姦して殺すんじゃ。

もう無茶苦茶じゃ。

陥落して2日ばかりたったころじゃ。下関あたりに徴発に出たときじゃ。

民家のあるとこに米や食べ物を徴発にでたときじゃ。そんな時に女も徴発するんじゃ。

家の長持ちの蓋を開けると中に若い嫁さんが隠れとったんじゃ。

纏足で速く逃げられんで、そいつを捕まえて、その場で服を脱がして強姦したんじゃ。

ズボン1つでパンツ見たいな物は穿いておらんで、すぐにできた。

やった後、「やめたれ」て言うたんやけどな、銃で胸を撃って殺した。

暗黙の了解やな。

後で憲兵隊が来て、ばれると罪になるから殺したんじゃ。

それを知っとるさかい、やった後、殺すんじゃ。・・・・

ほとんど女ばっかりの難民区にも行って、部屋に入ったらこれとこれ、指差して、女は選び放題やった。

その場でやってしまうんや。

わしの部隊でだれやったか、やってる最中に中国の敗残兵に頭を殴られたもんがあったので、

見張りをつけて強姦やった。

昼夜お構いなしじゃ。だいたい1個分隊で行った。

十数回は行ったやろうかな。各分隊がみんなそんなもんじゃった。  

◎死体は何千と見たな   

川の方ではあまり見なかったけど、城壁ではぎょうさん見たな。ほとんど突き刺した死体やった。

死体を焼くのは川の辺りで見たわな。陥落してしばらくしてからやな。

夜、飯盒で飯焚こうとしたとき、クリ-クの水が真っ赤になっとった。

死体を放り込んだからやろな。そのまま炊いたらご飯が赤こうなったんじゃ。

それを食ったんじゃ。

朝見たらクリ-クは死体だらけで、水が真っ赤になっとった。

倉庫のような部屋に中国人を詰め込んで機関銃で殺しよった。

部屋の中やさかいどれかに当るわな。

何百人も入れてやったんじゃ。

小さいところで300人くらいやった。わしらが捕まえた奴をこうして殺したんじゃ。

男という男は捕まえて倉庫に放り込んだ。兵隊も何も関係なかった。

処分した後はどうしたかは知らんわ。30分かかるかかからんかじゃ。

中から凄まじい叫び声聞こえて来た。

こんなこと、部隊がそこらじゅうでやっておった。

手榴弾はあまり使わんかった。

投げ損ねると破片が飛んでくるよって。

南京大虐殺はあったんじゃ。

むちゃくちゃやったんや。・・・・

 

「田所耕太

1916年3月生まれ 第16師団歩兵第38連隊第1大隊 2000年6月取材

◎33連隊が撃った死体が揚子江を流れてきた   

・・・・12月13日かなあ、城内へ入って逃げた敵を追って翌日には揚子江まで行った。

ず-と死体が流れていて30メ-トル以上むこうまで河の水が見えんかった。

ごつかったんやで。

いっしょに流れてくる中には生きてる人もいたから、

わしら小銃やったから、軽機関銃でみな打ちましたよ。

部隊の重機関銃はその時分までまだ南京に着いてなかった。

33連隊が撃った死体が流れてきてた。昼ごろから2~3時間撃ってた。

河岸は38連隊の兵隊でいっぱいやった。

下関ではクリ-クの中に入り込んで逃げていた人たちも撃った。

土民みたいな黒い綿入りの服装の人で、もう正規兵みたいな服装はしてなかったな。

女の人は見んかったな。男ばっかりやった。・・・・

 

「三木本一平

1913年9月生まれ 第16師団歩兵第33連隊第2大隊 2001年11月取材

◎朝香宮を護衛の最中に部隊でク-ニャンの徴発    

南京の手前の句容というところに朝香宮さんが来られたので、

わした1個小隊は、中隊長とともに夜中に護衛についたで。

南京~句容は、何十キロも離れていて大砲の音もせん所や。

戦線の後ろで隠れていても、「朝香宮さんは第一線を視察 大本営発表」と新聞に書く。

中隊長の天野郷三中尉は、野田連隊長より成績が上で陸軍大学を首席で出た人やったらしいで、

そのため、中尉であっても野田大佐の言うことを聞かんのや。

宮さんの警護というこんな時でも女の子を抱いて寝ていたんやから。

ここにいる時、天野はわしら兵隊に「強盗、強姦、放火、殺人、何でもやれ」と言ったんやで。・・・・

16師団が南京を離れる時、分隊全員が足止めをくって調べられたそうや。

天野はそれで軍法会議に問われたと思う。

南京を離れる時、中隊長であった天野の姿は見なかったもん。・・・・         

注:天野中尉のあまりにも非道な戦争犯罪は

   軍の内部や南京在住の外国人にも知れ渡り、軍法会議にかけられた。

◎クジ引きで女の子を輪姦    

・・・・ク-ニャン捜しは分隊で数人で行くことが多いな。

見つけるとな、分隊の何人もで押さえつけたんや。それで女の子を強姦する順番をくじで決めた。

1番のくじを引いた者が、墨を塗っている女の子の顔をきれいに拭いてからやった。

交代で5人も6人も押さえつけてやったら、そらもう、泡を吹いているで。・・・・

わしもしたけど、こんなんしても何もええことなかった。

日本中の兵隊がこんなことをいっぱいしてきた。

言うか言わんだけのことや。

男やもの、分隊10人のうちみんなやっとる。

戦争が長引くから女の子が恋しくて、他の部隊でも同じことをやっていたんや。

人間だったらみんな同じことをやる。

現役の兵隊は、あまり経験ないからおとなしいけどな。

召集兵ほどひどかった。妻帯して女を知っとるから、寝たいんや。

赤紙1枚で天皇陛下の御ために、騙されてみな戦争に行ったわけや。   

◎揚子江の河岸で集団虐殺を見た    

南京陥落後、2日たって、宮さんといっしょに城内へ入った。

護衛の任務を解かれて部隊復帰で、本隊を追求して、南京に入ってまた悪いことをたくさんしたわ。

南京を守っていた中国の兵隊は一杯おってな、捕虜になった兵隊は、みんないなくなったんや。

そりゃそうやで、中国の兵隊は捕虜になって殺すのは当たり前やんか。

捕虜に飯食わすのは、もったいないさかい。

「南京を守っておった兵隊はどこへいったんや」と嘘を言ったって、

実際いたのを全部殺してしまったんやから

南京大虐殺はあった。ワシはこの目で見たんや。

わしらはどういうわけで戦争してるんかわからんで、

一銭五厘で召集されて「チャンコなんて殺してしまえ」と言っていたんやから、

あの時は、中国人をなめてかかっていたな。

揚子江の港、下関に行った時やった。港とは名ばかりでな、河に桟橋がつき出ていた。

捕虜を収容している倉庫のような建物から、50人くらいの捕虜を引っ張り出し、

幅があまりない桟橋に並ばせてた。

そこを重機関銃でドルルル-と水平になでていた。

やられた中国人はみんなそのまま河に落ちよった。

河のそば、桟橋があるところにわしは行ってのぞいて見たんや。

河底からすぐ足下の岸まで人間が積み重なっていた。

大きな船の着く桟橋や、そうとう深いのと違うやろか。

ちょうど河に浮いているボラの死体のようにぷかぷか浮いて流れて行った。

始末することはないわな。

南京大虐殺はあった。自分がこの目で見てきたことや。

 

[

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

ご意見・ご感想はこちらへ ※個人情報の取り扱いについて

お名前 (必須)

メールアドレス ※返信をご希望の方はご記入ください

メッセージ本文