極東国際軍事裁判 3

作家・石川達三氏の思い出 読売新聞1946年5月9日「語る石川達三氏」 東京裁判に向けて           

石川達三は昭和13年3月号の中央公論に小説「生きてゐる兵隊」を発表したが

雑誌は発禁になり、石川氏は禁固4年執行猶予3年の刑を受けた。

・・・・かうして女をはずかしめ、殺害し、民家そのものを掠奪し、等々の暴行はいたるところで行われた。

入城式におくれて正月私が南京に着いたとき、街上は死体累々大変なものだった。         

大きな建物へ一般の中国人数千をおしこめて床へ手榴弾をおき、油を流して火をつけ焦熱地獄中で悶死させた。

また武装解除した捕虜を連兵場へあつめて実弾の一斉射撃で葬った。

しまいには弾丸を使うのはもったいないとあって、揚子江へ長い桟橋を作り、

河中へいくほど低くなるやうにしておいて、この上へ中国人を行列させ、

先頭から順々に日本刀で首を切って河中につきおとしたり、

逃げ口をふさがれた黒山のような捕虜が戸板や机へつかまって川を流れていくのを

下流で待ちかまえた駆逐艦がいっせい射撃で片ッぱしから殺害した。  

戦争中の興奮から兵隊が無軌道の行動に逸脱するのはありがちのことではあるが、

南京の場合はいくら何でも無茶だと思った。

三重県からきた片山某という従軍僧は読経なんかそっちのけで殺人をして歩いた。

左手に数珠を持って民家にとびこみ、にげまどう武器なき支那兵をたたき殺してあるいた。

その数は20名を下らない。

彼の良心はそのことで少しも痛まず、部隊長や師団長のところで自慢話していた。

支那へさへ行けば簡単に人も殺せるし女も勝手に出来るという考えが、

日本人全体の中に永年培われてきたのではあるまいか

ただしこれらの虐殺や愚行を松井司令官が知っていたかどうかは知らぬ。

「一般住民でも抵抗するものは容赦なく殺してもよろしい」という命令が首脳部からきたという話を

聞いたことがあるが、それが師団長からきたものか部隊長からきたものなのかそれを知らなかった。

何れにせよ南京の大量殺害というものは実にむごたらしいものだった。

私たちの同胞によってこのことがおこなわれたことをよく反省し、

その根絶のためにこんどの裁判を意義あらしめたいと思う

 

1946年7月26日、目撃者としてロバ-ト・ウイルソン医師が法廷証言をしました。

そのことについて読売新聞の社説です。

●1946年7月31日 読売新聞社説 (若干読みやすく直しました)      

南京暴行事件は、当時従軍したものならば多かれ少なかれその事実を知っているであろう。

「聖戦」といいながら侵略戦争を強行し、

一時的な「勝利」ののちに行なわれた数々の蛮行を目撃しながら、

しかもなお「皇軍」と言い、そのような蛮行が戦争には不可欠なものとして、

高いヒュ-マニティにみづから目隠しをし、

敢えて直面し得なかったわれわれ報道陣の罪は決して軽いものではない。

あのような蛮行を敢えてしながら「中国民衆を敵とするものにあらず」という声明を

押しつけようとした無理は、その後のあらゆる対華施策の矛盾となってあらわれているのだが、

何よりも中国民衆に対日敵意を植え付け、

その敵意が十数世紀にわたる日華国交史にいまだかってみなかったほどの深刻無残なものとして尾を曳いた

われわれは南京暴行事件を中心とする軍閥蛮行の拭うことの出来ない歴史的罪悪を認めずにはおられない。