極東国際軍事裁判 5

前回の続きです。

判決文の続き

南京から避難していた一般人のうちで、5万7千人以上が追いつかれて収容された。

収容中に、かれらは飢餓と拷問に遇って、遂には多数の者が死亡した。

生き残った者のうちの多くは、機関銃と銃剣で殺された。

中国兵の大きな幾団かが城外で武器を捨てて降伏した。

かれらが降伏してから72時間のうちに、揚子江の江岸で、機関銃掃射によって、かれらは集団的に射殺された。

このようにして、右のような捕虜3万人以上が殺された。

こうして虐殺されたところの、これらの捕虜について、裁判の真似事さえ行われなかった。

後日の見積もりによれば、日本軍が占領してから最初の6週間に、

南京とその周辺で殺害された一般人と捕虜の総数は、20万以上であったことが示されている。

これらの見積もりが誇張でないことは、埋葬隊とその他の団体が埋葬した死骸が

15万5000人に及んだ事実によって証明されている。

これらの団体はまた死体の大多数が後ろ手に縛られていたことを報じている。

これらの数字は、日本軍によって、死体を焼き棄てられたり、揚子江に投げ込まれたり、

またはその他の方法で処分されたりした人々を計算に入れていないのである。

日本の大使館員は、陸軍の戦闘部隊とともに、南京へ入城した。

12月14日に、一大使館員は、

「陸軍は南京を手痛く攻撃する決心をなし居れるが、大使館員は其の行動を緩和せしめんとしつつあり」と

南京国際安全地帯委員会に通告した。

大使館員はまた委員に対して、同市を占領した当時、市内の秩序を維持するために、

陸軍の指揮官によって配置された憲兵の数は、17名にすぎなかったことを知らせた。

軍当局への抗議が少しも効果のないことがわかったときに、これらの大使館員は外国の宣教師たちに対して、

宣教師たちの方で日本内地に実情を知れわたらせるように試み、それによって、

日本政府が世論によって陸軍を抑制しないわけには行かなくなるようにしてはどうかといった。     

後略     

判定  

第十章  松井石根  昭和23年11月12日 朗読

中支那方面軍松井石根と外務大臣広田弘毅が南京事件として死刑の判決を受けました。

                  (分かりづらいので要点のみ箇条書きに整理しました)

 ●南京事件を実行した者と共同謀議であったかどうかについては裁判所は認定しない

 ●南京が落ちる前に、中国軍は撤退し、占領されたのは無抵抗の都市であった。

  それに続いて起こったのは、無力の市民に対して、

  日本の陸軍が犯した最も恐ろしい残虐行為の長期にわたる連続であった。

  日本軍人によって大量の虐殺・個人に対する殺害・強姦・掠奪及び放火が行われた。

 ●残虐行為が広く行われたことは、日本人証人によって否定されたが、いろいろな国籍の、また疑いのない、

  信憑性のある中立的証人の反対の証言は、圧倒的に有力である。

 ●この犯罪の修羅の騒ぎは、1937年12月13日に、この都市が占領されたときに始まり、

  1938年2月お初めまでやまなかった。

  この6~7週間の期間において、何千という婦人が強姦され、10万人以上の人々が殺害され、

  無数の財産が盗まれたり、焼かれたりした。

 ●この恐ろしい出来事が最高潮にあったとき、すなわち12月17日に、松井は同市に入城し、

  5日ないし7日の間滞在した。

  自分自身の観察と幕僚の報告とによって、かれはどのようなことが起っていたか知っていたはずである。

 ●本裁判所は、何が起こっていたかを松井が知っていたという充分な証拠があると認める。

  これらの恐ろしい出来事を緩和するために、かれは何もしなかったし、

  何かしたとしても、効果のあることを何もしなかった。

 ●同市の占領の前に、かれは自分の軍隊に対して、行動を厳正にせよという命令を確かに出し、

  その後さらに同じ趣旨の命令を出した。

  現在わかっているように、またかれが知っていたはずであるように、

  これらの命令はなんの効果もなかった。

 ●これらの出来事に対して責任を有する軍隊を、かれは指揮していた。

  これらの出来事をかれは知っていた。

  かれは自分の軍隊を統制し、南京の不幸な市民を保護することに義務を持っていたとともに、

  その権限も持っていた。

  この義務の履行を怠ったことについて、かれは犯罪的責任があると認めなければならない。

 

判決文が言い渡された日の翌12日に判決文の要旨が新聞に発表されましたが、その時の新聞記事です。

●朝日新聞 11月12日      

占領後の約一ヶ月の間に約二万の強姦事件が発生し、

男子に対する大量殺人は、中国兵が軍服を脱ぎ捨てて住民の中に混りこんでいるという口実で行われ、

兵役年令にあった中国人男子二万人がこうして死んだほか捕虜3万人以上が殺された。

後日の見積もりによれば、日本軍が占領してから最初の六週間に

南京とその周辺で殺害された一般人と捕虜の総数は20万以上であった。

武藤は、南京進撃の期間中松井とともにおり、この市の入城式と占領に参加した。

世界で巻き起こされた世論の圧迫の結果として、日本政府は松井とその部下の将校約80名を召還したが、

かれらは遂に処罰されなかった。

●朝日新聞 13日から 松井石根大将の判決「南京の残虐行為/この1因で絞首刑」      

中支那方面軍を率いて、かれは1937年12月13日に南京市を攻略した。

修羅の騒ぎは、1937年12月13日に、この都市が占領されたときに始まり、

1938年2月の初めまでやまなかった。

この6,7週間の期間において、何千人という婦人が強姦され、10万以上の人々が殺害され、

無数の財産が盗まれたり、焼かれたりした。

これらの恐ろしい出来事が最高潮にあったときに、すなわち12月17日に、松井は同市に入城し、

5日または7日の間滞在した。(中略)

本裁判所は、何がおこっていたかを松井は知っていたという十分な証拠があると認める。

これらの恐ろしい出来事を緩和するために効果のあることは何もしなかった。

かれは自分の軍隊を統制し、南京の不幸な市民を保護する義務をもっていたとともに、

その権限をもっていた。

この義務の遂行を怠ったことについて、かれは犯罪的責任があると認めねばならぬ。