盧溝橋事件

1937年7月7日に

北京郊外の盧溝橋で偶発的に

日中両軍が衝突しました。

その時の戦闘詳報です。

 

● 盧溝橋付近戦闘詳報 (原文カナ)

 中隊は午後10時40分まで

 龍王廟付近の支那軍の既設陣地より

 突然数発の射撃を受く、

 之に於て中隊長は直に演習を中止し

 集合喇叭を吹奏す、

 然るに再び盧溝橋城壁方面より

 10数発の射撃を受く

 この間中隊長は大瓦窟西方

 「トウチカ」付近に中隊を集結せしむ、

 然るに兵1名不在なるを知り断然膺懲するに決し

 応戦の準備をなしつつ

 伝令を派して在豊台大隊長に急報す

 

その後北京の特務機関では

双方の調査委員会の努力で

一旦は戦闘停止の合意に至りました。

しかし、現地支那駐屯軍参謀長橋本少将は

参謀本部に「不法射撃を受けたので謝罪の交渉をしているが、

応じなければ実力で撃壌する」との電報を打っています。

 

東京の陸軍中央や外務省や海軍は相談し

事態不拡大現地交渉により解決を図る」方針を決定しました。

 

● 参謀総長から現地への電報 原文カナ

 7月8日 午後6時42分

 参謀総長指示「臨命第400号」

 事件の拡大を防止する為、

 更に進んで武力を行使することを避くべし

  昭和12年7月8日  参謀総長 戴仁親王

  支那駐屯軍司令官香月清司殿

 

その時点の中国側の電報です。

● 第29軍長宋哲元から蒋介石への電報 8日午前8時頃

 日本豊台駐屯部隊は昨夜12時より

 夜間演習にかこつけ我が方を射撃、

 宛平県城占領を企図し、同城を包囲攻撃、砲撃熾烈なり

 我が同城駐在1個大隊は正当防衛の為め

 これと対抗せざるを得ず目下対峙中なり、

 いかに処置するか的確なご指示を乞う

 

蒋介石は「宛平県城はあくまでも固守せよ、

全兵力を動員して事態の拡大に備えよ」と返電しています。

日本政府は7月9日の閣議と五相会議で

再び不拡大方針を確認し、

夕刻通達を現地に出しました

 

●次長からの通達電報  原文カナ

盧溝橋事件解決の為対支折衝方針に関する件

昭和12年7月9日   次長より天津軍参謀宛

盧溝橋事件解決の為、

政治問題に触るることを避け

概ね左記事項を提議し、

冀察側をして至短期間に承認実行せしむる様、

処置あり度

 1. 支那軍の盧溝橋付近永定側左岸駐屯の停止

 2. 将来に関する所要の保証

 3. 直接責任者の処罰

 4. 謝罪

 

臨時閣議で戦局拡大を主張していた

杉山陸軍大臣の案は見送られました

 ◎杉山陸軍大臣 

   内地3個師団を派兵するように主張

 ◎米内海軍大臣 

   事件を拡大せず、

   すみやかに局地内に解決を図るべきと主張

  ☆米内の主張

   平和交渉と兵力の行使を同時に

   おこなうごときはこの際取るべき途ではなく、

   要は平和交渉を促進することを

   第一としなければならない。

   陸軍大臣は出兵の声明のみで

   問題はただちに解決すると考えているようだが

   諸般の情勢を観察すると

   陸軍の出兵は全面的対支作戦の

   動機となる恐れがある・・・・

 ◎他の閣僚   

   内地からの派兵の時期ではない

 

当時陸軍内部では拡大派と不拡大派の対立がありました。

◎拡大派  

  陸軍大臣 杉山元   

  参謀本部作戦課長 武藤章   

  軍事課長 田中新一

◎不拡大派 

  参謀本部作戦部長 石原莞爾   

  戦争指導課長 川辺虎四郎   

  軍務課長 柴山謙四郎

 

7月10日に東京の北多摩にあった

海軍の無線電話傍受所では

アメリカの暗号電報をキャッチしました。

内容は「情報によれば中国の第29軍が

夕方5時に日本側に攻撃を仕掛ける」するものでした。

 

7月11日になると

閣議で現地解決を確認するものの、

関東軍・朝鮮軍・内地軍の増派を決め予算も決定しました。

そして盧溝橋事件を「北支事変」と呼ぶことが決定されました。

 

しかし同じ11日に現地交渉で

中国側は日本の要求を受入れ

停戦の協定が調印していました。

そして現地から「停戦の為の協定が調印されたので

派兵の必要はない」との電報が入りましたが

拡大派の情報操作もあって結局はこの日の内に、

政府は近衛文麿首相、広田弘毅外相、杉山元陸相、

米内光正海相、賀屋興宣蔵相の五相会議で

「居留民保護」の名目で内地部隊の派兵を決め、

首相は各界に挙国一致の協力を要請しました。

中国側でも国民政府、共産党軍、軍閥、

便衣兵、扇動者等が入り乱れていた為、

日本側との協定に統一した行動をとることが出来ずに

その後各地で日本軍や居留民に対する攻撃が続きました。

 

主な攻撃

◎ 7月13日、大紅門事件

   日本軍のトラックが中国軍第38師に爆破され

   4名死亡

◎ 7月25日、廟坊事件 

   北京郊外で日中両軍の衝突

◎ 7月26日、公安門事件 

   国民革命軍第29軍が日本軍を攻撃

◎ 7月29日、通州事件

   親日の冀東防共政権が寝返って日本軍を攻撃

 

それらの事件が続く為

日本軍としては中国側が反省していないと判断し、

7月28日には華北で日本軍の攻撃が始まりました。

その1ケ月後に上海で大山中尉の殺害事件が起き、

それをきっかけにして

第2次上海事件~南京事件へと続きます

この流れは自然に起きたことではなく、

盧溝橋事件後の総攻撃あたりまでは

陸軍主導ですすめられ、

それ以降は海軍が意図的に計画を進めて

第2次上海事件を引き起こした可能性が指摘されています。

盧溝橋事件の陸軍による

一斉攻撃の時点でも陸軍では

「戦争拡大派」と「不拡大」派の対立がありましたが

基本的には局地戦で終結させる方針を立てていました。

 

 7月30日、参謀総長は

「対支作戦計画の大綱」を奏上し、

天皇は「どこまでいくつもりか?」と下問し

参謀総長は「作戦上の見地から保

定の線まで前進するつもり」と答えています。

● 対支作戦計画の大綱

 作戦計画

  平津地方(注:北京、天津)の

  支那軍を撃破して同地方の安定をはかる

  作戦地域はおおむね保定、

  独流鎮の線以北に限定す。

  状況により一部の兵力をもって

  青島および上海付近に作戦することもあり

 

陸軍も天皇もこの作戦を

「北支事変」の名前通り

局地で収めるつもりでいたのです。

同日、天皇は上奏した近衛首相に対し

「永定河東北地区を平定すれば、

軍事をやめてもよろしいのではないか」

「もうこの辺で外交交渉により

問題を解決してはどうか」下問しました。

それに対し近衛首相は

「速やかに時局収拾を図ります」と答えています。

そのような天皇の意向を受け

和平工作が検討されました。

 

連日の協議の結果、

8月4日に和平案が決定されました。

通称船津和平工作といわれます。

 

● 8月4日 

 和平工作の使者として

 元上海総領事である「在華日本紡績同業会

 専務理事・船津達一郎」が上海に派遣され、 

 国民政府外交部高宗武との会見が計画されました。

 1. 塘沽停戦協定、梅津・何応欽協定、

  土肥原・秦徳純協定の解消

 2. 盧溝橋付近の非武装地帯の設定

 3. 冀察・冀東両政府の解消と国府の任意行政

 4. 増派日本軍の引揚げ

 

● 8月6日、「日支国交全般的調整案要綱」作成

 1.満州国の事実上の承認

 2.日中防共協定の締結

 3.排日の停止

 4.特殊貿易・自由飛行の停止

 

●8月7日 

  外務省作成の「日華停戦条件」を決定

● 同日 

  船津達一郎が上海到着

●8月9日 

  船津達一郎は     

  中国側・高宗武及び川越茂大使と会談

● 同日  

  夕方上海で大山事件発生

 

次回は盧溝橋事件以降の海軍の動きを整理します。