山砲兵第19連隊の記録

次は前項目と同じ山田支隊に所属した、

山砲兵第19連隊第3大隊兵士の記録です。

やはり「小野賢二」氏の調査です。

 

「近藤栄四郎」 出征日誌  

   山砲兵第19連隊第8中隊  伍長  編成

12月14日      

 午前4時半起床、

 鞍を置き直ちに出発する、

 道路暗くてしかも寒い、

 前進して午前8時頃

 敵の降伏兵の一団にあい

 敗残者の悲哀、

 武装解除に珍しき目を見張る、

 更に数団、全部にて3000名に達せん、

 揚子江を船で逃げる兵を

 小銃軽機にて射撃するのも面白し

 南京も目の前に南京城を見て

 降伏兵の一団を馬上より

 見下ろすのも気持ちが悪くない、

 南京牧場宿営、女を混じへた敵兵の姿。    

12月15日      

 午后、米徴発に行く、

 幸に南京米が沢山あったので

 六本駄馬を持って取って来る、

 支那の工兵の材料集積場らしい。    

12月16日      

 午後南京城見学の許しが出たので

 勇躍して行馬で行く、

 そして食料店で洋酒各種を徴発して帰る、

 丁度見本展の様だ、おかげで随分酩酊した。

 夕方2万の捕虜が火災を起こし

 警戒に行った中隊の交代に行く、

 遂に2万の内1/3、7千人を

 今日揚子江畔にて銃殺と決し護衛に行く、

 そして全部処刑を終わる、

 生き残りを銃剣にて刺殺する。

 月は14日、山の端にかかり

 煌々として青き影の処、

 断末魔の苦しみの声は

 全く惨しさこのうえなし、

 戦ならざれば見るを得ざるところなり、

 9時半頃帰る、

 一生忘るる事の出来ざる光景であった。

 

「黒須忠信」 陣中日記 

   山砲兵第19連隊第3大隊大隊段列  上等兵

11月16日      

 食糧の補給は全然なく

 支那人家庭より南京米其の他の物を

 徴発して一命をつなぎ前進す・・・・    

11月17日      ・

 ニャ-を一人連れて来た処

 我等の目をぬすんで逃げたので

 直に小銃を発射し射殺してしまう。    

11月23日      

 陳家陳の支那家屋では

 日の丸を掲げて日本に好意を表し

 我が軍の行軍道路には藁等をしきて

 援助をする処さえあった

11月25日      

 我等5分隊24名は宿舎に着く毎

 大きな豚2頭位宛殺して喰って居る、

 実に戦争なんて面白い

11月27日      

 午后5時泗河郷に到着宿営す、

 学生軍2人を逮捕し斬殺す    

12月14日      

 午前3時半出発して前線に進む。

 敵弾は前進するに従って頭上をかすめて来る、

 敵の真中を打破りぐんぐん前進する途中

 敗残兵を1千8百名以上捕虜にし

 其の他沢山の正規兵で

 合計5千人の敗残兵を13師団にて捕虜にした、

 全部武装解除したのも見事なものである、

 捕虜兵は両手をしばられ歩兵に

 警戒せられて或る広場に集められて居た、

12月16日 晴      

 午後1時我が段列より20名は

 残兵掃蕩の目的にて幕府山方面に向かう、

 2,3日前捕虜せし支那兵の一部5千名を

 揚子江の沿岸に連れ出し機関銃を以て射殺す、

 其の后銃剣にて思う存分に突き刺す、

 自分もこの時ばかりと憎き支那兵を

 30人も突き刺した事であろう。

 山となって居る死人の上をあがって

 突刺す気持は鬼をもひしがん

 勇気が出て力いっぱいに突き刺したり、

 ウ-ンウ-ンとうめく支那兵の声、

 年寄りも居れば子供も居る

 1人残らず殺す、

 刀を借りて首を切ってみた、

 こんな事は今まで中にない珍しい出来事であった、

 帰りし時は午後8時となり腕は相当疲れていた。

 

「目黒福治」 陣中日記  

   山砲兵第19連隊第3大隊大隊段列  伍長

11月22日 晴天      

 今日漸く師団よりの給養を受く、

 大部分は依然として徴発にて満す、

 数万の大部隊が皆徴発するから

 食糧等たちまち食尽してしまう。

11月27日 晴天      

 途中各部落は火災のため盛んに燃える様、

 支那土民も戦争の脅威を

 深く感じたことだろう、

 午後4時老劉玉村に宿営す、

 午後7時頃敗残兵3名発見、

 内1名逃走2名を成敗す、

 内1名を小生銃剣にて刺殺す、

 計本日まで6名の支那軍を殺す

11月28日 晴天  

 午前6時起床、敗残兵5名発見銃殺す

12月5日 晴天      

 休養、午後より徴発に行く、

 支那人家屋17戸を焼払い、

 土民を銃殺す

 哀れなるもの敗戦国人

12月9日 晴天      

 行軍途中、

 中央軍敗残兵十数名

 一刀両断に首打ちたるゝ者を見る

12月13日 晴天      

 午前3時起床、4時出発、

 南京幕府山砲台攻撃の為前進す、

 途中敵捕虜各所に集結、

 其の数約1万3千名とのこと、

 12~3才の子供より50才位迄

 雑兵にて中に婦人2名有り

 残兵尚続々と投降す、

 各隊にて捕えたる総数約十万との事

 午後5時南京城を眺めて城外に宿営す。

12月16日 晴天      

 休養、市内に徴発に行く、

 至る処支那兵日本兵の徴発せる跡のみ、

 午後4時山田部隊にて捕えたる

 敵兵約7千人を銃殺す、

 揚子江岸壁も一時死人の山となる、

 実に惨たる様なりき

12月17日 晴天 南京城外      

 午前9時宿営地出発、

 軍司令官の南京入城式、

 歴史的盛儀に参列す、

 午後5時敵兵約1万3千人を銃殺の使役に行く、

 2日間にて山田部隊2万人近く銃殺す、

 各部隊の捕虜は全部銃殺するものの如し

12月18日 晴天 南京城外    

 午前3時頃より風あり雨となる、

 朝起床して見ると各山々は

 白く雪を抱き初雪となる、

 南京城内外に集結せる部隊数

 約10ケ師団との事なり、

 休養、午後5時残敵1万3千程銃殺す。

 (注:前日との重複か?)

12月19日 晴天 南京城外      

 休養の筈なる処午前6時起床、

 昨日銃殺せる敵死体1万数千名を

 揚子江に捨てる、

 午後1時まで、午後出発準備、

 衛生司令服む