南京での麻薬の問題

大量の虐殺や強姦事件の悲惨さの陰に隠れて

あまり目立ちませんが、南

京では麻薬の問題も起きました。

国民党政府の麻薬撲滅政策で

市内の麻薬の問題は一時無くなっていました。

しかし日本軍の占領後

再び麻薬が蔓延し始めたのです。

アヘンの蔓延については

早くも南京陥落の翌年3月、

ドイツ大使館南京分館の外交官ロ-ゼンが

本国の外務省に送った報告書に見られます

 

● ドイツ外務省宛 発信者 ロ-ゼン

   1938年3月4付南京分館第22号 

   文書番号2722/1896/38

 ・・・・あるデンマ-ク人の情報提供者は、

 「地方都市の竜潭ではすでに最初のアヘンが

 姿を現した」と私に報告した。

 これは、日本の「平和的浸透」という

 華北時代から聞きなれている

 イメ-ジにぴったりだ。

 治外法権に名を借りた

 麻薬の生産と販売の促進は、

 周知のごとく日本軍の中国政策の

 主要な柱のひとつである。・・・・

 

● ドイツ外務省宛 発信者 ロ-ゼン

   1938年3月24付南京分館第36号 

   文書番号2718/2404/38

 ・・・・懸念されるのは、

 かって国民党政権が麻薬撲滅のための

 根拠とした南京に、

 アヘンが流入していることである。

 米国伝道団がアヘンの売人を調査したところ、

 アヘンは日本人の浪人から流れてきたもので、

 かれらは日本軍の特務機関と

 かかわりのある建物に

 事務所を構えていることが判明した。

 民衆を破滅させる闇の世界の邪悪な商人と

 日本軍との相身互いの協力関係は、

 華北と満洲の実状をわきまえる者にとって

 特段目新しいことではない。

 

ロ-ゼンの報告書にある

「米国伝道団がアヘンの売人を調査」は

下記のベイツの報告書と思われます。

国際安全区の委員だったアメリカ人のベイツ

(M.S.Bates金陵大学歴史学教授)が克明に調査し、

1938年11月22日、新聞に発表しました。

その報告書をなるべく詳しく転載します。

 

「報告書」

Ⅰ.形勢の急激な悪化    

 いまの世代の人は、

 アヘンが南京で大量に供給され

 消費されるとはついぞ知らなかったし、

 それが臣民と浮浪者を惹きつける方式で

 大っぴらに売り出されるとも知らなかった。

 とりわけこれまで5年間

 政府が長期にわたって真剣に

 この種の貿易を禁止し続けたのと

 加うるに過去30年教育に努力したのとで

 アヘンは使用量がごく僅かであり、

 ヘロインは全く知られていなかった。

 ・・・・今や市政当局ないしは

 庇護を受けた人々が、

 誰はばかることなくアヘンを販売している。

 万をもって数えられる民衆が病みつきとなり、

 児童と多くの青年男女も含まれている。

 数千人がこの種の商売に従事している。

 統治者当局の圧力の下で、

 麻薬吸引に耽溺する

 新しい世代の人たちが出現した。

 ・・・・公然たる吸引家庭の登録が、

 街に広告として貼り出され、

 彼らの産物が吸引者に健康と活力とを

 増進させる、ホラを吹き;

 政府側のある新聞が、

 市民を吸引所へと誘いをかけている。

Ⅱ貿易の性質                

A.アヘン

 1. 公然たる組織系列

  行政上(下関を含む)南京市全体が

  5区に分かれている。

  どの区にも内地産アヘン店(土膏行)が

  一つあると推定され、

  毎日750オンスの売り出しが認められている。

  実際にはアヘン管理局がアヘンを

  直接下請けの代理商に卸してよい。

  規定によると市区には小売店が5つある。

  これらの店は大体において営業の額により、

  納税ランクが3つに分かれ、

  四半期ごとにそれぞれが

  4,000元、2,840元、1,420元納める。

  区ごとに吸引所が10軒設けられる予定で、

  その内40軒あまりが11月15日に開業した。

  それらの店は使用している吸引用ランプの

  数によって納税し、ランプ9つで150元、

  6つで100元、3つで50元納める。

  けれどもこのレポ-トを

  下書きしているときに、

  政府の規定はすでにこの5行政区毎に、

  土膏行10軒と吸引所30軒設けるのを

  認めると、改まっている。・・・・

 2. 公然たる組織系列を調査

  アヘン管理局は督辯公署の

  市財政局に所属している。

  最近は警察の圧力と罰金とが、

  麻酔剤に対しての方が

  アヘンより少し重くなっている。

  管理局の規則と細則とは私的な交易と

  消費の全てを税収網に組み入れるのを意図している。

  あいまいで善良な言い方によれば、

  アヘンを禁じ断つ機構が一つあるらしい。

  けれどもせいぜいが組織系列内の

  軌道からはずれた行為を制約する措置で、

  それによりこの「公然たる」企業に

  必要な秘密を守るのである。

  社会ではアヘン管理局が上からの命令で

  旅館と妓楼に営業許可を発行し、

  私的な免許証(7日に限り、気前よく出している)

  を出していると見なされている。

 3. 私的な交易、アヘン供給の出どころ。価格、営業量。

  ◎アヘン

   政府の保存資料で調べたならば、

   南京では土膏行75軒だけ(今では200軒)が

   アヘンを販売していると

   人々は見なすかもしれない。

   けれども忘れてならないのは、

   まだ数としては非常に多くの、

   色々な名称の様々な規模の旅館や妓楼があり、

   加うるに個人の家庭に置かれている

   吸引用ランプで、免許証のあるのもないのも、

   いずれもが売買の仕事をしている。

   私の家に近い小さな地区には、

   市区の人口稠密な所ではないのに、

   あからさまな交易と販売のセンタ-が14ケ所ある。

   過去何日かの間に、

   日本人慰安婦と朝鮮人慰安婦がいる

   ある一軒がアヘンを80箱買い込んだ。

   組織系列の販売人が言うには、

   2週間前に日本の代理店が  

   イランのアヘンを200箱余り運んできたが、

   その船荷はアヘン管理局と何らかの

   関係があったらしく、

   そのため留め置かれずに済んだ。

   アヘンは主として大連から上海を経て

   南京に供給されていて、

   それを示す証拠が充分にある。

   つながりある官吏が抑えている下での

   毎日の販売は原則として

   6,000オンスに制限されている。

   少なからざる販売が付近の村で行われていて、

   実際の販売総額は必然的に原則を上回っている。

   それでも6,000オンスとしても、

   毎日の卸価格は6.6万元、毎月220万元となる。

  ◎ヘロイン

   アヘンの取引と同様にヘロインにも

   恐るべき破壊性がある。

   ヘロインの営業総額の新たな伸びも、

   邪悪の世界に立ち込めていて、

   アヘンの金額と大体同じであろうし、

   それと関わっていいる人数もそれ以上かも知れなし。

   ヘロインは吸引がずっと簡便で、

   しかもごく少量で効き目が生じる。

   時価で言うと、麻薬中毒患者一人で

   廉価なアヘンなら毎日5角から1元

   吸わなければ駄目だが、

   ヘロインなら3~4角で済むと思われている。

   ある推定では、

   大体5万人がヘロインを吸っていて、

   南京の人口の1/8に相当するが、

   それよりずっと高い推定もされている。

   ヘロインの取引は全くの私営で、

   小売商、露天商、行商人と広汎に分散し、

   代理店の親友関係とおして掌握している。

   ある友人は販売するところを72ケ所知っている。

   一般的に言われているのでは、

   日本軍の情報部門がヘロインの

   半ば組織的な取引に密接に関係していて

   保護を与えている。

   かなりの地位のある代理店が言うには

   情報部門に記録があり、

   南京を中心にした取引額は毎月300万元という。

   この手の取引の殆どが日本の会社の経営に帰し、

   それらの会社が表面では

   缶詰などの食料品や医薬品をやっていて、

   背後でヘロインを売りさばいている

   資料が充分にある。

 

              

阿片は当時イランのアヘン専売公社を相手として、

三井物産と三菱商事が激しい

輸入競争をしていました。

勿論日本政府が絡んでの事です。

両商社は1937年3月26日に

浅田俊介駐イラン代理公使を間にして、

一年間は三菱の独占を認め、

それ以降は改めて協議する協定を結びました。

 

● 中山詳一郎駐イラン公使から

   広田弘毅外相にあてた電報 第六号(機密)

   1938年1月25日発(原文カナ)

 本邦向阿片の輸出に関する

 当地三井、三菱出張員間の協定は

 本年3月日迄の事態を協定したるものにて、

 その後に付き三菱側は交渉に応ずる義務を

 認るに過ぎざるところ

 三井側は右期日以降は自由競争を出張し

 当地出張員の言うところよれば、

 本社は三菱と対等たることを要求し

 三菱が独占的に買い入れる場合は

 その1/2の分譲を得べきことを命じ来れる趣なり、

 他方三菱側は当国における

 阿片取引開始の沿革、阿片専売公社との間の

 「プレフェレンス」条項を理由として

 完全なる独占を主張し居り、

 従って右期日到来せば、両者の間に激烈なる

 競争行わるべきは予想せらるるところ、

 しかもその相手方は一個の専売公社なるがゆえ、

 容易に先方のために操らるべく、

 かくの如きは・・・・

 我方に不利なる事は両社とも理解しおるらしきも、

 阿片取引は年600万円にのぼる大取引なる上、

 これをおいて他に相当なる商売なきため、

 両社とも出先にて本社にたいし

 自己の成績に執着し、

 大局的利害を顧みる余裕と権限なきが如し、

 尚最近三菱は3月6日以降の

 輸出独占権獲得に努め居れりという・・・・

 

その後、三菱は勝手に独占契約を結んだため、

三井物産は日本公使館に三菱の協定違反を訴えると一方、

日本陸軍からの発注の阿片428箱、

68,480ポンド(2,808,000円)を

シンガポ-ル丸で積み出しました。

困った中山公使は

日本の外務大臣に打電しています。

このように政府・軍・商社は一体になって

阿片の輸入をしていたのです。

 

● 中山詳一郎駐イラン公使から

   広田弘毅外相にあてた電報 第二五号(機密)

   1938年4月7日発(原文カナ)

 ・・・・右の如く三菱は公使館の

 厳命を無視して独占契約をなし

 三井は独占契約に付き三菱をなじりながらも、

 右契約以外にて阿片輸出を

 なし居れる次第にて利益のためには

 いかなる仕打ちに出ずるやも

 測りがたき事態なるに付き、

 この際速やかに往電第六号両社の協定を

 促進せしめられ帝国貿易の

 国際的品位をある程度維持せしめらるること

 切望にたえず

 

4月12日シンガポ-ル丸は上海に到着し、

全阿片は中国人名義で陸揚げされました。

 注:中国人名義とは日本陸軍の特務部と里見甫です

日本の傀儡政権である南京の維新政府は

財源に窮したため、

里見からこのイラン阿片5箱を購入しています。

その販売で南京維新政府の財政は

軌道に乗ったとされています。

気を良くした維新政府は

1938年10月20日付けで三井物産に対して

972箱の注文をし、

1939年1月に赤城丸で上海に到着しました。

小林元裕氏の研究によれば

1938年末の時点で南京市の収入の

約20%は阿片販売によるとのことです。

このことを考えると、

上記アメリカ人のベイツの報告にもある

南京での阿片の蔓延は

日本が行ったことと考えて間違いないでしょう。

 参考:里見甫が一切を取り仕切った

    宏済善堂という阿片販売組織は、

    陸軍参謀本部第8課の影佐禎昭大佐(当時)が

    1937年頃里見に作らせたものです。

    諜報機関が必要とする裏工作資金を

    捻出する目的でした。

    販売利益は主として軍を通じて工作資金、

    満州国の維持経費、

    南京の傀儡政権、

    重慶の国民党政府、中国共産党・・・・

    ありとあらゆるところに

    流れたといわれています。

    日本の軍・政治を裏から支えた里見は

    日本にも中国にも影で大きな

    影響力を持っていました。

    あまりに影響が大きいため

    極東裁判ではアメリカは

    里見を裁くことが出来ず、

    逆に里見の依頼で岸信介を始めとした

    多くの戦犯を釈放したと思われています。

    ちなみに1939年に里見が扱ったペルシャ阿片は

    1月7日    972箱  15,520ポンド  三井物産・赤城丸

    4月26日  1000箱  16,000ポンド   同上

    10月1日  1000箱  16,000ポンド  三井物産・多摩川丸

この一年間で、里見の手元には

当時のお金で4,000万円の

利益が残ったといわれています。