防疫給水部(細菌戦部隊)

栄1644部隊
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最終更新日:2014/11/15 10:06

1939年4月、中支那派遣軍防疫給水部が南京東方、中山門近くの南京中央病院を接収して編成され、

東部隊、多摩部隊、スホ7、或いは栄1644部隊とも呼ばれました。
人員は1200名、支部も入れると1500人を超えると言われています。

この部隊の作戦任務の第1は細菌戦研究で、防疫業務は2番目だったと言われています。
部隊は陸軍第9技術研究所(通称 登戸研究所)第2課と協力して1941年は本部で、

1943年には上海で毒薬の人体実験をしています。

また731部隊と協力して寧波、常徳、等に細菌戦を行なっています。

部隊の概要図です。

 

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「部隊の組織」

部隊長

初代  石井四郎

2代  増田知貞    京大卒 軍医大佐

3代  大田澄     岡山医専卒 軍医中佐

4代  佐藤俊二    京大卒 (第5軍軍医部長) 軍医大佐

5代  近野寿男    熊本医専卒 軍医大佐

6代  山崎新     慶応卒 軍医大佐

下記の各部署で所属がわからない名前

岡本啓(増田の義弟)
黒川正身   慶応卒業
山内忠重   薬剤将校 金沢薬専卒業

第1科    病理研究   特別作業(病原菌の効果試験つまり人体実験)
      7号棟の最上階にマルタな収容所があった

課長  近喰秀大中佐

人数  120-130名 軍属約15名(軍画兵として1科に勤務した石田甚太郎証言)

科員

山中太木 恩師戸田京大教授の勧めで入隊、佐官待遇の軍属

   チフス・コレラ等腸管系伝染病の専門家で、山中式鞭毛染色法の考案で博士号を取得。

   浙?戦で細菌入り饅頭散布の指揮をとる

村田良介大尉 東大卒業

1科建物2階の「P室(ペスト)」でペスト研究をした

村上仁男
山下喜明 軍医大尉
佐藤大雄
岩崎敏雄
木村直正 事務室長
東清士  衛生兵

第2科防疫課  伝染病の予防

課長  大河内雅夫   軍医大佐

第3科    病原菌の検索と研究   予防ワクチンの製造

    コレラ室、赤痢室、チフス室、菌種室等の研究室があり、

  流行性脳髄膜炎球菌、結核菌の研究がされていた。

  作り付けの棚の中にはチフス、コレラ、A型・B型パラチフス、

  食中毒菌、破傷風菌、等人間と動物の何百という菌が保存されていた。

科員 小川透

第4科    野戦における給水と検水

浜田稔  軍属 少佐待遇
福井三七夫
江本軍医中尉 水中菌の検索

総務科

課長   小野寺義男 中佐

課員   粟屋一歩  軍医少佐


財務科
経理科
教育隊  須田軍医大尉

支部

第1支部 上海支部 秘匿名 富士部隊

支部長 渡辺中佐 羽山良雄
部員 福井三七夫

分遣隊 寧波 秘匿名 立山隊

第2支部 蘇州支部 秘匿名 黒部部隊

第3支部 杭州支部 秘匿名 原1644部隊千曲部隊(後に上海支部の分遣隊になり縮小)

支部長 吉岡軍医少佐、太田軍医少佐 山下嘉明軍医大尉 山本軍医大尉
支部員 岩佐軍医中尉

  肥塚喜一

給水班、病理班、庶務室、理化学試験室

分遣隊 1940年当時 湖州、嘉興

第3支部 金華支部 秘匿名 千曲部隊

注:1942年、上部第22師団の移動のため杭州支部が移動した。

支部長 山下嘉明

給水班 病理班 修理班 庶務室 経理室 理化学試験室 内務班(2班、軍属班)

分遣隊  義烏分遣隊 隊長 高山中尉

湖州、嘉興 秘匿名 妻女隊

第4支部 南京支部 秘匿名 祭り1644部隊隅田部隊

分遣隊蕪湖、無錫、金壇 秘匿名 赤城隊

第5支部 安慶支部 、武昌、 秘匿名 長良部隊

隊員 衛生兵 小野進

第11支部 漢口支部 秘匿名 利根部隊

第12支部 九江支部 秘匿名 桧1644部隊矢作部隊

支部長  軍医少佐大隈、
防疫課長 軍医中佐斉藤七郎

分遣隊 南昌 足柄隊

第13支部 岳州、蒲圻支部
第14支部 当陽支部
第15支部 宣昌、沙市支部 秘匿名 十勝部隊

 

1644部隊は戦後元大阪医科大学学長の山中太木が中心になって

色々な名称の戦友会を開いています。

清風会    部隊全体 
南京みどり会 本部診療部 
南友会    本部経理部 
矢作会    九江支部 
利根会    漢口支部 
墨田会    南京支部


その他、他の部隊のことは不明ですが、この1644部隊にはレコ-ドにも吹き込まれた部隊歌がありました。

731部隊を始めとした防疫給水部隊の現実が

細菌戦や生体実験などの非人道的行為を繰り返していた事を考えると、

部隊歌があることは信じられない気もします。
珍しいので歌の一部を記します。

* 防疫給水部の歌  (水谷尚子論文)から転用

作曲 支那派遣軍軍楽隊 
作詞 佐藤克彦 
演奏陸軍軍楽隊(6番まである内の一部)

3.捧げた生命は惜しまねど 
    病に倒れてなるものか 
    野戦噴霧機肩に負い 
    汚染のちまたを駆け巡り 
    病原菌の殲滅だ  
5.仁慈の皇威いくところ 
    きのうは敵地のこの村だ 
    予防注射に検疫に 
     明朗東亜の建設だ 
    民家の屋根も日の丸だ 
6.ああ謀略も何ものぞ 
    科学の武器を振りかざす 
    われら防疫給水部 
    みよ堂々の進軍に 
    東亜の空は黎明だ

 

2代目部隊長の増田はコレラ、チフス、ペストの研究に重点を置きましたが、

ヘビ毒、フグ毒、青酸、砒素も研究していました。

部隊には建物本館と別館があり、主として別館が使われていました。

1階では大量のコレラ、ペスト、チフス培養生産され、

2階ではシラミ、ノミ、マウス、ラット、ネズミ等小型の実験動物が飼育、繁殖されていました。

3階は実験室と研究室で4階は100名収容できる監獄があり、

いつもだいたい30人くらいが収容されていました。
細菌生産能力は、2つの自閉缶、約200の石井式培養間、約50のコッホ式釜があり、

支部を含めて全設備を稼動させると10Kgの細菌を生産できました。

 

ここでは細菌戦を実行するための専門家が多く育ちました。(ハバロフスクの裁判記録より)

* 部隊長 佐藤俊二の証言・・・・

(1941-43年に)私の指導下に、

細菌戦の遂行に任ずべき細菌専門家を毎年約300人養成したのであります・・・・

 

また1644部隊では陸軍第九技術研究所(通称登戸研究所)と協力して

細菌や毒物の人体実験を南京で行いました。
ペスト用のネズミやノミの生産も行っていました。

*1943年4月参謀本部で開かれた「ホ号打合」から・・・・金原業務日誌による

中支 イ、粟の生産、毒化を研究中。現在量5Kg(餅を2万匹補給すれば2ケ月后15Kgになる)。

   期日を3ケ月前に予告された度。AT1機4,000、暑気には弱

 ロ、餅に3週間后なしにする法が最も良し。人血では減少。低音保存は不適。
 ハ、米に対する攻撃(さんかめは虫)。使用前1ケ年を要す。人工増殖は困難なり
 ニ、粟の生産関係者を他に出さぬ様に配慮せられ度。
 ホ、輸送10日以上に亘る時は不可

*「自決した二人の医学者」から再転用

1941年のこと、九研第二科長の大佐以下7人(技術将校5人、技手2人)が船で南京に渡った。

彼らは来たるべき人体実験で使用される多種多様な毒物を持参した。

その中には、青酸ニトロ-ルの一種、アセトン・シアン・ヒドリン、亜砒酸、

台湾から取り寄せたハブ、コブラ、アマガサヘビの毒、

フグ毒の結晶、トリカブトの毒を精製したアコニチンが含まれていた。

さらにまた、各種細菌類も持参した。
南京で九研は栄1644部隊に合流し、

部隊の施設を利用すると共に、部隊の軍医2名と通訳1名を実験に参加させた。

1か月余りの間、厳重な監視下で捕虜たちは毎日、4階から3階の実験室へ移された。

3階の実験室に入れられると、まずベッドに寝かされ、通訳から心配しないようにと告げられる。

白衣を着た者たちは医師だといって、通訳は捕虜を安心させ、

「薬でお前たちの身体を治してやる為に来た」説明した。

その後、捕虜にすばやくヘビの猛毒や青酸が注射されその反応が観察された。・・・・

九研が来てまもなくガス室での実験が行われた。

戦車に有効な化学兵器・青酸ガスの効果だった。理論を証明するために、

捕虜をガス室に連れてきて椅子に縛り付けた。

その後、防毒マスクを装着した医師がガス室に入り青酸ガスの入った容器の封を剥がした上で、

被験者が苦悶し、死んでいく様子を克明に記録した。

*「中国側の調査報告」     1942年に行われた生体実験を見た台湾人謝金龍の証言をもとに

          中国が1952年に調査した報告書です。(南京市中級人民裁判所・書類)

(1) 日本ファシストは病原菌で人民を殺害した

犯罪人の氏名      集団

所属組織名称      敵日本軍 「登(栄)」1644部隊、多摩部隊

責任者氏名       山崎彰 官職・部隊長

被害者被害時職業    国軍捕虜

被害時住所       中山門内中央医院内
期日          1938年-1945年
場所          中山門内中央病院内
犯罪の種類       第一類 組織的な恐怖行為
被害の詳細       この部隊の野戦病院が受け継がれ、中支那防疫給水部として改められ、

            中山門内の中央病院跡地に設置された。

            この部隊の第一部は、特種研究と実験など秘密工作を主管した。

            すなわち、国軍の捕虜を選んで各種の病原菌薬品をその体に注射し、

            実験・研究した。前後の死者は非常に多かったが、

            それは厳重に秘密にされ一部分の者を除いて

            詳しい状況を知りようがない。


備考          犯罪人は、第一部長の小野寺秀雄(現在は既に日本に帰っている)、

            後任の部長岩崎少佐、山下少佐、部員の近少佐、

            黒川中尉、村山中尉、山中技師、後藤少尉、木村准尉、秋之曹長、

            ならびに夫野、小松両雇員

調査者         蘇復生40歳、南京人住所:登府巷15号の1

1945年12月1日


犯罪人の氏名      広本、及び森田
官職          大尉課長、及び中尉所長
所属組織名称 敵    日本支那派遣軍総司令官
責任者氏名       畑俊六 官職 派遣軍総司令
被害者職業       国軍捕虜
被害者住所       老虎橋収容所
期日          1942年10月
場所          中山門内中央病院跡地
犯罪の種類       組織的な恐怖行為
被害状況        敵日本軍は、老虎橋江蘇第一監獄跡地に捕虜収容所を設置し、

            森田中尉を所長に任命、敵軍総司令部第3課の指揮下においた。

            そこで、第3課長広本大尉は捕虜の人数が多く、
            支出が大変多いと考え、1942年10月、捕虜100人を選んで

            多摩部隊に送り、特別に残酷な研究に提供し、

            病原菌・薬品の実験に使用した。

            その結果全員が死亡し、生存者は一人もいない。

            しかも、この前後になお何度もこうした行為が行われているが、

            しかし備考(犯罪実行者)について証言できる人はいない。
調査官         蘇復生 1945年12月1日


(2) 結び

私は、慎重に、敵の犯罪行為の事実を自分の目で確かめ、以下のように陳述する。

1942年10月に、敵軍捕虜収容所所長の森田中尉が、

敵日本軍総司令部第3課課長の広本大尉の命令を受けて、捕虜100人余りを選び、

中山門内中央病院跡地の多摩本部に引渡し、残忍な特種実験に提供した。

そして彼らは、秘密研究の犠牲にされたのである。

その結果100人全員が死亡し1人も生存者はいなかった。

宣誓者 謝金龍 男36歳 台湾人

永久住所 台湾省 嘉義

調査人 蘇復生 男40歳 南京人

住所登府巷15号の1

1945年12月1日宣誓


「証言」

*榛葉修

1644部隊九江支部を脱走して国民党に投稿した部隊員の自筆供述書です。

東京裁判の国際検察局の文書でしたが,

裁判では使われず、アメリカ国際公文書館に保存されていたものを、

立教大学の粟屋憲太郎教授が発見しました。

原文はカナです。

読みやすくしてあります。

この部隊において伝染病黴菌を製造せることは確実なれども、

部隊内にても一般兵士には秘密とされており、直接関係せる将校のみこれを知れり。

しかしながら昭和17年6月中に、左記種類の黴菌を製造せることは事実なり。

1、コレラ 2、チブス 3、ペスト 4、赤痢
製造責任者は防疫科員全員なり。
撒布せる時期は昭和17年6月より7月までの間なりて、

回数、数量等は不明なり。撒布地域は浙江省金華を中心とせる地域なり。

この結果は中国軍の撤退急なりし為、進軍せる日本軍が撒布地域に進出し、

小休止、または宿泊せる結果、飲料水、炊事等に付近の水を使用し、

もって多数の伝染病患者を出したり。

又中国住民中にも多数の患者を出し倒れたり。(中略)

   (注;秦葉の別の証言では日本軍の患者1万、死者1700人以上とあり、

  第13軍司令部の記録には戦病11812名とあります)

この目的は、悪性猛烈なる病原菌を敵軍陣地後方に撒布して、人工的に伝染病を流行させ、

敵軍を倒し、士気を失わせるを目的としているもので、

一般住民に対してもすこぶる悪結果を及ぼす非人道的行為である。
昭和18年9月中旬に自分は杭州陸軍病院に赴いたが、

当時においても、同病院は伝染病患者(日軍兵士)で充満しており、

毎日5-3名の死亡があった。

同年の8月頃は同病院の営庭にムシロを敷いて、数千人の患者を収容したと言っていた。
又栄1644部隊の衛生兵長立澤忠夫(東京出身)の言によれば

飛行機によりて前線に病原菌撒布に出動したと話した。(中略)
自分は昭和17年5月より18年3月まで防疫給水部防疫科に勤務していたが、

聖戦などと言う美名の下に、右の如き非人道的行為を行うを知りて、

部隊を脱走せる者である。(以下略)

元 栄1644部隊防疫科員 
民国35年(注:西暦1946年)4月17日   榛葉 修

 

* 松本 博  1926年生れ 1995年聞き取り

昭和18年11月末、17歳の時に志願して中国に行きました。

6ケ月の衛生兵教育を受けてから、中支那派遣軍防疫給水部(栄1644部隊)に配属されました。

私の仕事は“マルタ”の監視でした。

部隊の4階には中国人捕虜を監禁している部屋がいくつか並んでいました。

私が担当したのは“松”と呼ばれていた部屋でした。
他にも梅とか竹の部屋がありました。

部屋はちょうど学校の教室ぐらいの広さで、部屋の周囲には溝が作られていて、

その中にはホルマリン液が満たされていました。

部屋の中には“ロツ”と呼んでいた檻が5、6個置かれていて、

その中に全裸の中国人の男性が1人ずつ入れられていました。

“ロツ”はまるで鳥籠のようで高さが約1メートルで、縦約1メートル、幅約1メートル20センチぐらい、

大人が座っているのがやっとの広さしかありません。

鉄棒で囲われ、床板だけが5寸角の角材をボルトで締めて敷かれていました。

彼等は、憲兵隊から連れてこられた捕虜たちです。

トラックに積んだ捕虜の上にシートをかぶせて偽装して連れてこられました。

トラックのナンバ-プレ-トは外してあったように思います。

1度に5、6人の捕虜が連れてこられたのではないでしょうか。

ほかの部屋のことはわかりませんが、常時20人以上のマルタが監禁されていたと思います。

マルタは軍医により、さまざまな細菌実験をされていました。

ペスト、コレラ、、破傷風、腸チフス、ガス壊疽・・・・注射で細菌を感染させたり、

シャ-レに入っているペストノミをそのまま腹部に当ててノミに血を吸わせたりしていました。

入浴させませんでしたからマルタはものすごい体臭です・・・・

いちばんいやだったのは、細菌感染させた数日後、マルタの体から血を全部抜き取る全採血でした。

採血には軍医のほかには私ら担当の監視と監視所の者と軍医が連れてきた兵隊が立ち会いました。

私は採血されるマルタをロツから出して目隠しをしました。

黒い頭巾のような袋を頭からッスッポリとかぶせるのです。

服は着せません。

それまでにもこのようにして連れ出されたマルタは1人として部屋には戻りませんでした。

処置室で袋をかぶせたままのマルタを仰向けに寝かせ、暴れないように手足と胴をベルトで固定しました。

固定されたマルタの顔は袋をかぶせたままです。

白衣をまとった軍医は袋の上から鼻のあたりにクロロホルムを垂らしました。

麻酔にかかったマルタの大腿部を消毒し、そこを軍医がメスで10センチほど切り開くのです。

そして鼠蹊動脈の血管を鉗子で引っ張り出して血管を切る。

その血管の中に管を通すのです。そうすると心臓からものすごい勢いで血が流れてくる。

まるで滝のように・・・・その血をコッフェル瓶に集めるのです。

1瓶ほど採血した頃、マルタはものすごい痙攣を起こしました。

もちろんマルタは眠ったままです。

その痙攣がおそらく死の瞬間だったのではないでしょうか。

採血も終りごろになると、ガクッ、ガクッといって気泡が出るんですね。

そうすると軍医といっしょに来た兵隊が靴のままマルタの心臓の上に乗り踏みつけるんです。

つまり気泡が出なくなる最後の一滴まで血を絞り取ったわけです。

全身から血を抜き取られたマルタの顔から袋を外すと、その顔は青黒く臘のような感じでした・・・・

思い出したくない・・・・

私はそのマルタの死体を焼却炉に運ばなければなりませんでした。

電気焼却炉に死体を投げ込むのです。

人間を焼くと油が出るのですが,焼却炉の外の廊下まで油が流れていました。

こうした全採血は多いときで1日に2回、通常は1ケ月に2、3回のペースだったと思います。

そういうことが終戦まで続いたのです・・・・

ロシアが参戦したという報を得てから、部隊は証拠隠滅で大変な騒ぎになりました。

ロツが置いてある部屋は一目見ただけでもおかしいとわかってしまう。

室内の周囲に作ってあったコンクリ-トの10センチ幅のクレゾ-ルの溝を壊さなければなりません。

そして生きていたマルタは全員、麻酔をかけて殺しました。

毒ガスは使っていません。

最後に処理したマルタは私の部屋だけでも6人いましたから、

他の部屋と合わせると30人ぐらいいたのではないでしょうか。そ

れまで実験して殺したマルタの骨は兵舎の横に穴を掘って埋めていました。

それを掘り返して他の器材などと一緒にトラックに乗せて、揚子江に捨てにいきました。

(参考)1998年10月に松本と被害者の家族が対面し、

  それをイギリスのBBCテレビが取材しました。

  被害者の家族敬蘭芝さんは途中で泣き出し、

  話が全採血に及ぶとスタッフ全体に動揺が広がり、

  ついにBBCのサウンドマンが「もう止めよう、

  これは残酷すぎる!」と、ヘッドホ-ンを外しながら叫び、

  撮影は中止になったエピソ-ドがあります。

 

*小沢武夫 大正7年5月10日生まれ   1996年庄和高校生徒の聞き取り

作戦に行った人数は1班4~5人で、2班ありました。

ペストノミはサイダ-の空き瓶のようなものに入っていました。

コルクでふたがしてありました。

輸送は飛行機2機で行ったが、もう1機は離陸に失敗しました。

瓶は腰にぶら下げたりして、とにかく持てるだけ持ちました。

恐らく15本くらい持っていったと思います。・・・
作戦は中国軍の陣地だったので非常に危険でした。

まず日本軍の後方部隊が中国軍の陣地に大砲を打ち込んで、敵が退却した時に実行しました。

その時にペストノミをばらまくのです。・・・・日が暮れるのを待ってから行動を開始しました。

家や建物の床下などにペストノミをまいていきます。

瓶のふたを開け、ノミを素早く、多くの村にまいて帰りは歩いて帰っていった。

作業は一晩中かかるものでした。・・・・しばらくして再び秘密作戦を命じられました。

それは焼酎がめにチフスの液体を入れて、井戸に注ぐというものです。

ふたをしたつぼをトラックに10本ほど積んで、10分くらいの所で作戦を実行しました。

小隊長を含めて4人で出掛けました。

集落内の井戸につぼの中の液体を注ぎました。

1つの井戸に1本のかめの液体を注ぎました。

そのときまだ4歳ぐらいの男の子が近づいて来ました。

小隊長はその子を殺せと命令しました。

困ったのですが、その子を2階から突き落としました。

子どもは助かって泣き声が聞こえたのでホッとしましたが、小隊長が銃殺しました。

これは私の体験の中で一番辛い思い出です。

今でもこの事は忘れられません。

子どもの泣き声が夢の中に出てきて目を覚まします。・・・・・

 

* 匿名

私は東京の陸軍軍医学校で軍属として働いていたが、

昭和17年7月に中国に渡って南京の1644部隊に配属され、昭和19年には衛生隊に配属された・・・・

施設は大規模でプールまであった。

構内と建物は日本では見られないほどすばらしいものだった。

この病院は蒋介石政権時代には国民病院だった。

病院は、正面の塀ば200メートルぐらいあって、中に営門があり、

屋上に大きい赤十字がよく見えた・・・・

私たちの仕事は予防ワクチンの開発、動物の飼育、

ワクチンの研究と開発を目的とする動物の血液採取などだった・・・・

班の人員は120人、部隊の合計人員のおよそ10%を占めた・・・・

マルタの入ったロツ(檻)のサンカイ(檻の置場所)は、部隊施設中央の警急集合所の北にある3階建てで、

中央玄関正面を入ると事務室があり、ロツのある3階に上がる場合には、

たとえ1科の軍医でもまた石井部隊長でも、1度は事務室を通って階段を登のである。

病菌が外に漏れないよう靴底を消毒するため、入口ドアの下に1メートル四方のマットが置いてあった。

15メートル×10メートルの部屋にロツが数個並んで置いてあり、中にマルタが入って寝ているのが多い。

四角い部屋の端にある約30センチ幅の溝を水が流れ、

部屋を一周して2階の外に流れ出し、消毒後クリ-クへ流れる。

ロツのあるこの部屋には石油缶がいくつも置いてあり、

なかにペスト菌を注射した白いマウスが動いている。

マウスの血を吸わせて飼育されたノミは野性のノミのように赤くなく、半透明である・・・・

3階には生体解剖室の隣に人体標本室があった・・・・

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