軍による性暴力

地域別・マレ-シア、シンガポ-ル、インドネシア
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最終更新日:2014/05/05 11:06

1992年10月、カトマンズで「日本の戦争犯罪国際調査委員会」が開かれ、

そこに出席したマレ-シア与党「マレ-国民組織」のムスタファ・ヤ-コブは、

帰国後新聞などを通じて情報提供を呼びかけました。

その結果3,500人から回答が寄せられ、

その多くは日本軍による虐殺、虐待や強制連行だったといわれています。

その中から慰安婦にさせられたと5人の女性が訴え出ました。

同じころやはり与党の「マレ-シア華人協会」も調査を開始し、

3人が名乗り出、12人の存在が明らかになりました。

しかしマレ-シアの日本大使館やマレ-シア政府からの圧力(?)で調査は中断されました。

ですからマレ-シアにおいては調査が進んでいないのですが、

 

訴えた女性からの手紙を入手した早稲田大学の中原道子教授の聞き取り調査から2人の証言を書きます。

* Pさん  当時15歳 スランゴ-ル州のスルダンに住んでいた。

1942年4月、昼食の支度中に押し入った日本兵によってつかまった。

家族は抵抗して怪我をした。

弟はトラックで連行され2度と戻らなかった。

Pさんは、台所で両親の目の前で次々と強姦された。

まだ初潮前だった。

それからトラックで連行され、クアラルンプ-ルのアンパンにあった大きな家に連れ込まれた。

怪我と強姦で頭から性器からも出血していた。

そこで1ケ月ほど毎日何人もの兵隊に強姦された。

その後ジャラン・プ-ドゥのタイ・セン・ホテルに移され毎日強姦された。

さらにゴ・カンと言う、日本人は六軒屋と呼んでいた慰安所で日本の敗戦まで強姦され続けた。

戦後村に帰ると「汚らしい裏切り者」と唾をかけられた。

戦後は何も語らずにそっと養女と暮らしていたが、呼びかけで手紙を書いた。

字を書けないために、始めて養女に打ち明けて代筆してもらった。

* ロザ・リン・ソウさん 1994年11月、マレ-シアで初めて実名で名乗り出た。

離婚していて、2人の子どもがいた。

1人はまだ乳飲み子だった。

1943年、夜中に日本兵の手で引きずり出された。

子どもはもぎ取られた。

トラックでビルマ街のトンロック・ホテルに連行された。

ホテルには日本軍慰安所の看板がかかっていた。

その慰安所には30人ほどの女性が閉じ込められていた。

女性たちは1日昼と夜の2回食事を与えられた。

忙しい時は1日30人もの兵隊に強姦された。

ベッドに横たわったまま、服を着る暇もなかった。

妊娠した女性はいつの間にか姿が見えなくなるので、殺されるらしいという噂だった。

ロザ・リンさんは妊娠したが必死に頼み込んで病院に行った。

女の子を出産した後、慰安所には戻らずに終戦を迎えた。

 

マレ-半島で慰安所の開設、管理、募集を担当したのは兵站部でした。

第25軍兵站に勤務していた「B」氏からの聞き取りでは・・・・

(B氏の証言)

1942年1月2日、マレ-半島の上陸地点シンゴラにいた兵站の将校以下3名からバンコク出張を命じられた。

任務の一つは慰安婦募集だった。

バンコクで日本企業の駐在員に頼んで23人の娼婦を集め、性病検査で合格した3人を連れて帰り、

2月始めにハジャイとシンゴラに慰安所を開設した。

3月31日にペラ州タイピンに入ると、先行していた兵站支部が将校用と兵士用の慰安所を開設していた。

5月23日、クアラルンプ-ルに入った。

「六軒屋(華僑の家6件)」と「つたのや」をはじめてとして16軒の慰安所を開設した。

 

[地域別・シンガポ-ル]

   シンガポ-ルでは日本軍による華人虐殺が一段落した後、

            (注:大東亜共栄圏の泰緬鉄道・マレ-半島シンガポ-ルに詳しく書いてあります)

1942年3月5日の「昭南日報」に慰安婦募集の広告が出ました。

昭南日報は日本軍が現地新聞を接収して1942年2月21日に刊行を始めた中国語の新聞で、

完全に日本軍の宣伝用新聞です。

*  広告「各民族(各種)の接待婦数百名を募集する。

年齢17歳から28歳ごろまでの者は皆応募してよい。

採用された者は、毎月の報酬少なくとも150ドル(毎月休息1日)。

このほか応募の時に本人に3ドル、その紹介者には2ドルを与える。

応募受付はビ-チ・ロ-ドのラッフルズ・ホテルに設ける。

娼婦(暗業)の経験者も応募してよい。

     注: 広告主は不明ですが、ラッスルズホテルは軍が管理する将校用のホテルで、

  しかも新聞が軍の宣伝用ですか ら、軍直接の計画と見て良いとおもいます

 

 シンガポ-ルの慰安所については、パン・ミンイエン氏のレポ-トが1993年に発表されました。

(Straits Times 1993.8.30)

 そのレポ-トには下記の5ケ所に慰安所があったと書かれています。

   ブクム島  インドネシア人慰安婦がいて、汚れた身体で故郷に帰るよりは外国で死んだほうが良いと言っていた。

       注: ここはシンガポ-ル島から南方約5Kmにある島で、

   海軍が使用していた可能性があります。

   セント-サ島  現在は島全体がリゾ-トアイランドになっている。

   ケーンヒル・ロード  現在ケーンヒルホテルが建っている一角に

 有刺鉄線で囲まれた慰安所があった。

 ここは多くが朝鮮人で、日本人のような服を着ていた。

   タンジョン・カトン・ロ-ド

   ブキャット・パソ-  現在の晋江会館が慰安所として使われていた。

 

[地域別・インドネシア]

   インドネシアでも慰安所、強姦所・・・・等色々なタイプの性暴力が報告されています。

他の例と同じで、慰安婦だった女性がなかなか名乗り出ないため長い間はっきりしませんでした。

1992年7月、地元日刊紙「スワラ・ムルデカ」が、元慰安婦「トウミナ」さんの悲惨な経験を発表したのが初めてです。

その後調査研究が進みました。

1995年8月にマルディエムさんが日本の民間団体のフォ-ラムで初めて証言しました。

地元のインドネシア兵補協会(現、ジョグジャカルタ法律扶助協会LBH)が

全国134支部を通じて慰安婦被害者の登録作業をしていましたが、

1996年3月に終了し、22,234人の登録を発表しました。

もう亡くなった人もいるでしょうし、恥ずかしくて名乗り出ない人もいるでしょうから、

実際には数倍の女性が被害にあったかもしれません。

英国の都南アジア司令官のBC級裁判の犯罪捜査ファイルから少し見てみます。

* 1943年7月にジャワのカリジャティ飛行場近くに慰安所が開設され、

   常時15人の少女が日本兵の相手をさせられ、

   毎週性病検査を受けていたが、病気になると新しい少女と入れ替えた。

* ジャリのマランで1943年11月に17歳から30歳までの沢山の

    ユ-ラシアン、メナド、ジャワの女性たちが家から連行され、

  医師の検査を受けてからスプレンディッドホテル、プレイスホテルやサマ-ンウェグのヨ-ロッパ人の家に

  設けられた慰安所に入れられた。

* 1944年1月25日、マゲラン近くの民間人抑留所から16歳から20歳までの少女6人と、既婚女性7人が連行され

   マゲランの慰安所に入れられた。

最近発見された資料もあります。

吉見義明氏と内海愛子氏がアメリカ公文書館やオ-ストラリア戦争記念館で収集したものです。

その資料はオランダ軍情報機関・NEFIS(本部、オ-ストラリアのブリスベン)が作成した「NEFIS訊問報告」です。

その中から日本軍慰安婦に関する部分を少し転用します。

   * 業者に地元女性の選別を認める許可証を憲兵隊が発行していた例

NEFIS訊問報告  1944年10月29日

・・・・1943年に、ソロ(中ジャワ)で、徴募された多くの村娘たちが、

日本軍将校用として、ルッシェホテルにいるのが目撃された。

ソロのある華人は、村長たちAssistant Wedanasを通じて村々から

少女達を選別することを保証する許可証を憲兵隊から交付されていたと述べた。

少女たちはゾロで1日1ギルダ-の仕事ダと言われて、

誘われたが、彼女たちは一旦そこに行くと2度と帰ってこなかった。・・・・

 (情報源:1944年5月から8月の間に。ビアク島、ヌムフォル島、他で

  米軍により解放された20名のジャワ人で、全員兵補だった)

* 日本軍が慰安所に直接関与していた例

NEFIS訊問報告  1944年12月31日

・・・・50名の日本人女性が日本海軍の軍人、軍属専用慰安婦として、スバラヤ(東ジャワ)から船で運ばれてきた。

彼女たちはチュン橋付近の長い低層の建物に住まわされていたが、この建物は民間人が入るのを阻止し、

女性たちが逃げるのを防ぐため、鉄条網で囲まれ、海軍の警備兵がいた。

        (情報源:ニビシから マレ-人、15歳男性、沈没した日本船から生還)

* 拉致された例                 NEFIS訊問報告  1945年5月5日

1944年11月、テルナタ島占領後間もなく、

日本人は売春を目的とする若い女性たちの集積・配分センタ-を作った。

2つの大きな売春宿が作られ、メナド人、ジャワ人、華人、ユ-ラシアンを含む様々な人種の女性たちが、

ハルマヘラ、アンポンやその他の地域へ送られた。地元の若い女性は強制的に徴集された。

独身の女性だけがふさわしいとされた。

 

川田文子氏はインドネシアにおける慰安所の形態を次の6つに分類しています。

1 人口の過密なジャワ島から他の島々に連行された女性が監禁された慰安所

2 日本軍駐屯地近くに住む女性たちが軍人に拉致されるなどして作られた慰安所

3 営外居住の将校らが女性を自分の宿舎に囲い、その将校官舎を慰安所として兼用した

4 日本の植民地であった朝鮮、台湾の女性が連行され監禁された慰安所

5 オランダ人抑留所から若い女性が連行され監禁された慰安所

6 インドネシア女性がフィリピン、ビルマ、シンガポ-ルなど他の国に連行され、監禁された慰安所

 

アンポンに配属された将校、坂部康正の記録では、

戦後インドネシアに残された日本人混血児は、30,000人と称せらると書かれています。

 

インドネシアでは珍しくヨ-ロッパ人女性が慰安婦にされていますので、次の項目で単独に書きます。

 

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