連行方法

供出方法に

色々な名前が使われたとしても単に名目上で、

侵略している相手国から連れてくるので、

まともな手段では労働者は集まるはずがありません。

強制的な連行しかないのです。

有名なうさぎ狩り作戦といわれる

連行について証言を載せます。

(全て少し読みやすくしています)

 

●矢崎新二 証言

 昭和18年9月、

 北支の各師団では労工狩りの実習がありました。

 野っ原に円陣をはり、各中隊旗をたて、

 ドラを鳴らし、ウサギを追い出し捕まえる演習です。

 私は実際の作戦には参加しませんでしたが、

 方面軍からの命令は知っています。

  1 17から45歳までの男子はすべて逮捕すべし

  2 断髪の女性は逮捕すべし

  3 逃げる者、反抗する者は射殺すべし

 そして昭和18年10月、

 北支那派遣軍の作戦として、

 59師団から部隊が抽出され、

 山東半島の付け根に集結しました。

 兵隊は10メ-トル間隔くらいに並び、

 山東半島を押し上げる形で

 人狩りを矢っていった訳です。

 附近の海上は海軍が船を浮かべて封鎖しました。

 

●城野宏 証言

 ・・・・村を取囲み、

 50人1組にして縛り上げで人狩りをし、

 済南の収容所に持って来て、

 各地へ配分するわけです。

 主として満州と内地でしたね。

 内地へはこの時1,000人余り、

 青島から船で送ったんです。

 船が来るまで砂浜に鉄条網を張って、

 そこに放り込んでおいた。

 メシもろくに喰わせず、

 ここで1/3の200人余りが死んだ。

 フラフラの彼らの所に憲兵がやってきて、

 拷問したりしましてね。

 配分については興亜院から連絡部を通じて

 方面軍司令部へ政府の意向が伝えられ、

 それにもとづいて行なわれたものと思われます。

 

●大野貞美 証言

 ・・・・部落から部落をずっと押して行って、

 18歳から45歳までの男子を全部集める。

 それと山羊、牛、豚、真鍮類を全部集めるわけです。

 村人にそれを全部持たせて

 一定の地域に集合させるわけです。

 そこに軍のトラックが来て、

 山羊は山羊、真鍮は真鍮、

 人間は人間でまとめて連れて行くのです。

 つまり戦闘が目的ではなくて、

 物資の掠奪と人間の徴発が目的なんです。

 人間は青島に大きな体育館があるわけですが、

 入りきらないので、

 第一公園の競馬場に入れたわけです。

 その数は何千だか何万だか分からんです。

 

●小島隆男 証言

 強制連行は、1942年頃やりました。

 太平洋戦争が激しくなってきて

 日本の労働力が不足してきました。

 軍司令官命令で、中国人を強制逮捕し、

 強制連行、強制労働につかせて、

 労働者の不足をカバ-するのです。

 「いかにしたら、中国人を効率よく逮捕できるか」

 という課題を命令として軍司令官から受け、

 我々は1ケ月にわたって訓練しました。

 作戦は抗日根拠地を中心に

 コンパスで半径16キロメ-トルの円を描く、

 そういう大きな円をこしらえて、

 そこへ何万もの軍人を円周上に並ばせて

 包囲体形をとらせます。

 1個中隊が4キロメ-トルの横隊になり、

 各隊には憲兵を配備します。

 上空には飛行機が情報投下のため飛び回っています。

 その円の中にいる中国人を

 中心へ中心へと追い込む作戦を行ないました。

 包囲圏の上を絶えず飛行機が飛んでいて、

 早く出すぎるところは通信筒を落として「もっと遅く行け」、

 遅れているところは「もっと早く行け」と先を急がす。

 そして、もしも頑強に抵抗する

 部落があった場合には、

 予備に置いてある戦車隊で攻撃する。

 この作戦はいわゆる「うさぎ狩り作戦」です。

 半径16キロメ-トルの円周をだんだん縮めながら、

 中にいた中国人を捕らえては

 憲兵隊に引き渡しました。

 この時抵抗する民衆は出来るだけ殺さず、

 憲兵はその中から身体の丈夫そうな人を捕まえ、

 後手に数珠繋ぎに縛って連れて行きました。

 こうして捕まえた人々をがんじがらめに縛り、

 貨車に詰めるだけ詰めて、

 外から針金で入口を縛り、

 立たせたままで強制連行しました。

 駅について食事を与えるにも

 窓から投げ入れるだけです。

 窓の近くにいた人だけ受取って、

 大小便は垂れ流し、

 大きな駅に着くと扉を開けて死体を放り出して、

 また汽車は動き出す。

 これが私の知っている強制連行です。