始めに

日本による中国侵略戦争中、

中国の首都南京で多くの忌まわしい事件が

あったことは世界的に周知の事実です。

と書くと「あったと言う意見となかったと言う意見があり、

真実はどうなの?」聞く人が最近増えています。

広島、長崎に原爆投下があったという事実以上に

南京の多くの事件は世界的には有名なことです。

少なくとも数十年前には日本国内でも

当然のこととして受け止められていました。

ところが最近になって色々な屁理屈を並べて、

「なかったこと」にしようとする人たちが現れました。

日本でわずか数十人ですが

何度も主張を繰り返すことで、

「ウソも1000回言えば真実になる」とのとおり

世間を惑わせています。

戦中・戦後生まれで学校や自ら歴史を学ばなかった人、

つまりきちんとした歴史観を持っていない人は

「南京で事件があったって本当なの?」と

信じてしまうのでしょう。

こんなことでは、あと数十年たったら

「日本がアメリカと戦争したって本当なの?」と

言う時代が来るかもしれません。

「目も前で殺人があっても、

それを見ながら殺人はなかった」・・・・

あまりに当然なことに、

改めて証拠を示して反論をするのは変な話です。

しかし日本人としてみっともないことなので

細かく証拠を積み上げていこうと思います。

 

南京で事件がなかったとする証拠(?)は一切示されていません。

どんな証拠資料、正式文書、写真があっても

すべて無視してでっち上げだと主張しているだけです。

ただ虐殺の被害者の数にこだわっているだけです。

東京大空襲、原爆の被害、沖縄戦の被害、

水俣病などの被害、南洋の戦没者・・・・

すべて人数は確定されていません。

人数が確定されていないからといって、

なかったことにはなりません。

単に事実だけど人数が確定しないだけです。

 

当然なことですが南京事件の証拠は山ほどあります。

◎日本国内の資料

  現在の日本政府の公式見解

  当時の日本政府の正式資料

  参加した日本軍の当時の正式記録

  日本兵の多くの手記

  日本軍兵士の将校の会「偕行社」の資料

  東京裁判の記録

◎当時の同盟国ドイツの資料

◎アメリカを始めとした

 諸外国のメディアの記録

◎被害地中国の資料

 

これらをふまえて長くなりますが

南京事件を書くことにします。

 

以前、元自衛官だった70歳代の男性と話をしたとき、

「南京では一人も捕虜や住民を殺害していない、

殺ったのはゲリラつまり便衣兵」だと言われました。

その人は航空自衛隊でしたが、

2008年秋にも同じ航空自衛隊の幕僚長だった

田母神氏の論文が問題になりました。

その田母神氏は講演で南京事件に

ついて次のように話をしています。

 

● 講和

「我が愛すべき祖国日本」

  航空幕僚長 田母神空将 熊谷基地初度視察時

  2008年1月30日

 ・・・・南京大虐殺というのは、

 見た人が一人もいないのです。

 そういう話を聞いたことがあるという

 伝聞の証言だけです。

 普通の裁判では、

 伝聞の証言だけでは裁くことは出来ないのです。

 これは東京裁判でも

 証明することができなかったのです。

 南京大虐殺というのは

 1937年の12月の13日、

 松井石根大将という陸軍大将が

 当時中国国民党の首都であった

 南京に入っていったのです。

 南京は蒋介石隷下の

 唐生智という将軍が守っていたのです。

 松井大将は、

 南京をオ-プンシティにしなさい、

 要するに戦わないと宣言しなさい、

 どうせ日本軍が勝つから、

 そうすれば人が死ななくてすむから、

 と言ったけれども唐生智中国将軍が

 これを拒否したのです。

 後ろでコミンテルン、

 それに共産党とつながっていたのですけれども。

 それで松井大将は南京に入っていった。

 松井大将は隷下にちゃんと通達を出してから入っている。

 悪さをする兵隊がいたら厳重に取り締まれ、と。

 そこに孫文の墓があったのですけれども

 孫文の墓は中山陵といったらしいのですが、

 この孫文の墓というのは高台にあって要衝らしいのです。

 戦略の要衝だけれどもそこに立ち入ってはいけない、

 というような通達を出して入っていった。

 そういう人が虐殺を命ずるわけがないのです。・・・・・

 

この講和の中身は、完全に事実と違いますが、

自衛隊のトップにいる人がこの程度の

歴史認識しかないのかと思うと驚きます。

学問的(歴史学的)には南京で忌まわしい事件が

発生した事は事実として決定した事です。

日本に原爆が落とされた事や

ナチスのガス室があったと

同じような世界の定説です。

東京裁判でも裁かれ、

日本政府はそれを認めています。

歴史学を研究する学者も人間ですから

色々な考えや立場や感情や性格があります。

しかしいわゆる右よりの研究者から左よりの研究者、

また研究者ではありませんが

日本の旧陸軍の将校の親睦会(偕行社)でさえ、

100%、南京で虐殺があった事を認めています。

ただ虐殺された被害者の人数に

2万人から30万人と差があるのです。

ところが活動家、教育者、文筆家、漫画家等

ほんの一部の人たちが無かったと主張しています。

目の前で殺人が起きても無かったと

主張しているようなものです。

元東大教授の藤岡信勝氏は

「私は南京虐殺なかったと云う立場です。

なかったのだからすべての資料はなかったのであり、

写真はインチキである」の奇妙な趣旨を語っています。

そしてマスコミは面白くその事を取り上げ

出版物は大量に売られますから、

若い人は混乱してしまうのです。

 

一般に南京戦をめぐる事件では

虐殺の問題が多く取り上げられています。

勿論虐殺の問題は大きな問題です。

しかし南京戦では虐殺以外でも

明治以降の日本の軍隊が持つ大きな問題が露呈しています。

特に昭和に入って軍部が

政治をないがしろにして独走した体質もあります。

虐殺以外にも無差別爆撃・強姦・掠奪・放火・阿片・・・・

このような多くの問題を含み過ぎるのが南京事件です。

それだけに無かったと主張したい人がいても

当たり前なのかもしれません。

南京で何人殺されたのか、

何人レイプされたのか・・・・

人数は問題ではありません。

1000人の殺害でも10人のレイプでも犯罪です。

沖縄戦や空襲や原爆の被害者ですら

まだ人数は決定できません。

人数が決まらないからといって

無かった事にはならないのは当然な事です。

 

南京事件を否定する人たちは、

事件に該当する期間、場所、被害者等の条件を

かなり狭くして事件を小さく見せようとします。

 例  

  期間  南京陥落した12月13日から

      17日の入城式時期までの5日間

  場所  南京城の中

  被害者 便衣兵(ゲリラ)のみで、

      民間人や捕虜は殺害していない

 

私なりの解釈を先に述べておきます。

 期間  

  南京戦は第二次上海事変の延長です。      

  上海事変で不拡大方針をとっていた

  軍部が11月6日に急に作戦変更して     

  中国軍を追撃して南京を攻略したのです。   

  上海から南京に行くまででも

  忌まわしい事件が多発しています。   

  ですから時期としては

  上海戦から南京陥落後、

  完全に治安が安定するまでということになります。

 場所  

  南京は世界的な大都市です。

  南京の城内は大きな南京市の一部に過ぎません。   

  日本軍の多くの部隊は

  南京郊外で戦闘し掃蕩し駐屯しました。   

  したがって地域は南京市に限らず郊外まで含めます。   

  行政区としての南京は南京特別市と近郊6県を含みます

 被害者 

  国際法上捕虜と民間人の殺害は禁止されています。

  そのため便衣兵(ゲリラ)は

  殺害してもよいという考えがあります。   

  これは無茶な考えです。 

   捕虜は全員便衣兵だというのは、日本軍の考えです。   

  便衣兵とは平服(民間人の服装)を着たゲリラの事です。   

  当時南京に便衣兵がいたかどうかはまだ分かっていません。   

  多くの日本兵の証言にありますが、

  軍服や武器を捨てて逃げた中国兵が多かったようです。   

  これはゲリラではなく

  敗残兵で捕虜の扱いを受けるべきでしょう。   

  それ以前に、日本は戦争を支那事変と呼び戦争とせず、   

  戦争でないから国際法の制約を受けず、   

  制約を受けないから、

  捕虜でも民間人でも皆殺害したのです。

 事件の内容   

  虐殺だけが大きく取り上げられますが、   

  私が南京虐殺と言わずに南京事件というのは、

  それ以外にも多くの事件が起こったからです。   

  勿論虐殺が大変な事である事は言うまでもありません。 

   虐殺以外にも毒ガス使用、無差別都市空爆

  大量強姦、放火、略奪、麻薬・・・・等、   

  どれを取ってもいわゆる

  天皇の軍隊にあるまじき事件を起こしています。

 

南京事件が無かったと主張する人たちは、

中国側の資料は信用できないと言います。

そこでなるべく中国側の資料は避けて、

日本で発見された資料、

欧米の資料を中心に説明しようと思います。

勿論中国側資料でも歴史的資料としてに

認められたもの或いは格式のある研究者の資料は使います。

 

次は第二次上海事変の起きる前から書き始めます。