永井仁左右 回顧録・メモ等 2

● 毒瓦斯(注:毒ガス)

1. 戦前の軍縮時代野重8に入隊したが、

 軍装には必らず防毒面(正式名:被服甲)を

 携行させられた。  

 演習で毒ガス訓練をやった時、

 練兵場の一部の散毒地帯の

 小石を拾い臭いを嗅ぎ別けたり、  

 晒粉で消毒したり、

 防毒面を被り馳足又防毒のゴム服

 (これは全員分ナシ)を着たり随分苦しかった    

 散毒地帯の実戦ではそのまま

 突進してから急ぎサラシ粉で消毒する。    

 車両は高速ではガスを巻き上げるから不可、

 むしろ低速で走り通過してからよく消毒する、など    

 瓦斯弾は弾の下方の胴体の上あたりに

 赤、青、黄等を胴体と同じくらいに印されてあり、 

 赤弾、青弾と呼称して訓練した。 

 実戦では、イペリット、ルイサイト等の

 永久性ガスは使われなかったようである。 

 又、学校で一年先輩の増田さんは、

 陸軍化学研究所で作業中イペリットで

 太股の一部を腐食したことがあった

2.  南昌攻略戦 

 昭和14年2月末、紙坊鎭より武昌に出て、 

 19日船舶にて長江を下り、

 黄石港を経て、20日九江に上陸。 

 星子道を盧山を迂回して

 豪雨、寒気、泥土に腹の心まで

 濡れ困難のうちに、

 高家隋、永修車站付近に至り、 

 南昌攻略戦で修水渡河援護の為、

 陣地、壕、幕舎など準備に追われる。 

 集結する我砲兵各隊も、対岸よりの

 敵弾飛来する中それぞれ準備していたが、 

 敵弾の一発が我X隊の集積せる

 ガス弾に命中し、ガスが発散し、

 我々もやられた。 

 直ちに散開したが、気分が悪くなったり

 鼻血を出したりして皆倒れた。 

 軍医が早速嗅ぎ薬(人差し指ぐらいの荒い布で

 くるんだガラス筒入りの薬を手で潰して嗅ぐ)で手当てした。 

 暫くして少し落ち着き、

 点呼のため集合させたら、

 又バタバタと倒れた。 

 それは集まった為衣服のシワや

 薬盆などの隙間に残っていたガスが

 又濃くなったためで、 

 又散開させ、皆バタバタ服等を叩いて、

 ガスを散らしてから集合し直した。

 

● 激戦地ではじめて見た一人の老婆

 昭和12年8月23日、

 2ケ師団が軍艦で緊急輸送され

 早暁上海の呉淞に強行上陸したが苦戦

 我野戦銃砲兵第15連隊は9月13日充員召集、

 装備不足のまま9月26日上海上陸戦闘参加

 逐次4ケ師団増援されるも、

 支那軍は70万、縦深5キロの陣地など優勢で、

 然も砲弾の補充少なく困難を極めた。

 勿論戦場では一般人は居る筈もなかったが、

 一度一人の老婆が何処かに隠れていたのか、

 歩兵に引張って来られた。

 暑い盛りに綿入れの黒い服を着て、

 汚れて青い顔は痩せていた。

 その内、行けと言って突き離されて逃げ出すと、

 背中へ一発小銃を打込まれ、

 倒れるとき、振り返ったその顔の

 恐ろしかったこと、今でも目に浮かぶ。

 当時夜間、あちこちで烽火のような

 火の玉があがると必らず狙っていたように

 敵弾が打込まれて来るので、

 老若男女を問わず潜伏している

 間諜の仕業と言われていたので、

 老婆もその関係か又犠牲なのか

 忘れられない出来事であった。

 その后は次第に我彼の戦死者のいろいろの姿や

 一般の人の犠牲者の有様にも馴れて来るのである

 

● はずみ

 徐州大会戦で我が北上軍は

 昭和13年5月5日払暁、

 懐遠で総攻撃の火蓋を切った。

 その第一夜猛烈な雷雨となり幕舎は吹飛ばされ、

 全身泥ンコの濡鼠となった。

 明けても一面のぬかるみと地雷の為め

 我々野戦銃砲は前進が捗らず

 悪戦苦闘していたところ、

 友軍の飛行機が1機飛来、

 通信筒を落として数回旋回したと思ったら、

 強風で大きく湾曲していた気球の索に触れ、

 アッと云う間に真逆様に墜落し

 畑にメリ込んでしまった。

 気球は無事だった。

 又同年11月16日、武漢攻略戦で武昌を占領、

 続く進撃戦で崇陽手前の橋梁が破壊され止むなく、

 林家咀に露営、次の朝各隊出発準備中、

 近くの気球隊では気球を少し浮上させていた。

 そこへ友軍の飛行機が3機編隊で翼を振りふり

 低空で頭上を通過、我々も手を振った。

 その瞬間1機がブルンと震えたが

 そのまま飛び去ってしまった。

 飛行機が気球の索を切断した。

 気球はフワフワと浮上し然も

 敵側に流れ始めたではないか。

 あわてて居合わせた各隊が一斉に射撃したが

 撃ち落すことが出来ず遂に敵隊深く消えてしまった。

 これは何れも私が目撃した事故で、

 気球の索と飛行機の接触した時の

 諸条件は殆ど変わりはないと思われるが、

 片や飛行機が墜落し、

 片や気球が空の彼方へ消え失せた。

 これがはずみと云うものだろう。

 

● 戦争で儲ける連中

 ◎ナマクラ鋸

  作戦の間には自活の為め、

  炭焼、井戸掘り等いろいろやったが、

  炭材の木や炊事の薪を作るのに

  支給された鋸は唯の鉄板で、

  グニャグニャで形だけの使えないものだった。

  他の道具も同様だった。

  又時折支給された薪に、

  納入直前にタップリ水を含ませて

  目方を増したそうである。

 ◎金銭の不思議

  武昌の奥地で民家へ

  分隊単位程度で分散駐屯していた。

  或夜半急に1ケ小隊を○○方面へ

  派遣する命令を受け、

  約3ケ月分の給料を支給することになり、

  分任官を命ぜられていた私は

  相当離れていた本部へ行き、

  受領して戻り、

  支給を終えると金が余っている。

  随分調べたが間違いなく相当多いので

  寝る間もなく出発を見送り、

  夜道を本部へ行き、

  主計将校にその旨申し上げ差し出すと、

  貴様、俺が間違える筈がないと

  怒鳴り、叩きつけた。

  私は一度言ったものだから

  持ち帰ることも出来ず逃げるように帰ったが、

  その后何の話もなかった。

  機密費か、関係納入業者との

  カカワリに依る何かがあるのか不明朗である。

  万一私が黙って懐へ入れてしまっても

  解らなかったろうとさえ思った。

  又この主計さん徐州戦で空襲を受けた時、

  逃げ足早く一番遠くへ行き、

  戻るのに時間が掛かって笑われたのである。

 

● 重大な責任の始末

 野戦重砲兵第15連隊は

 10糎カノン砲をキャタベラ式牽引車で引く、

 中支唯一の機械化重砲で、

 軍直轄の為め休む間もなく重要作戦に参加し、

 上海戦以来3年目になり、

 大作戦の后は必ず砲は勿論

 牽引車など整備していたが、

 砲の車輪のゴムが処々欠けて来ていたので、

 補充された新しいのが武昌に着いたので

 長江上流15キロの王家湾より下り、

 新しい車輪を取替へ大堤を戻ったが

 暫くすると車輪のゴムが

 外れて来たので驚き急ぎ戻り、

 今迄の旧のと付替へ、

 事なきを得てそのまま各戦争をしたのである。

 万一の時の不良車輪による事故は

 我々だけではなく他部隊にも及ぼす

 影響を思うと恐ろしくなった。

 命拾いをした。

 

● 千人針

 これは出征兵士の無事を祈って、

 関係する女の人が白木綿で腹巻を作り、

 皆さんに一針一針赤糸で結び玉を

 千個縫い付けて貰うのである。

 寒暑昼夜を問はず、

 銀座は勿論そちこちの街頭で

 一生懸命に御願いしたり、

 立ち止まり縫い付けて下さる

 女の人々の姿の真剣さには

 頭の下がる思いがしたものである。

 縫い終わってわざわざ

 息を吹き掛け拝む人もいた。

 死線を越えると言うので

 五銭を縫い付ける人もいた。

 昭和12年9月13日、

 応召入隊する前夜、

 宴の途中父が突然

 俺も千人針を縫ふと云いひ、

 皆んなが、女の人が縫うものだと云っても、

 何俺は縫うと云って

 ゴツイ手で針を持ち縫い付けた。

 品川駅頭で最后の面会の時、

 父は酒を持って来て、

 コップで別れの杯を酌み交わしたが、

 用事があると云って

 一言も云わず帰ってしまった。

 仮にも魚河岸の重役で

 時間の都合が付かぬ筈がない。

 酒は富久娘であった。

 未だその時の味は忘れない。

 父は、日露戦争で

 乃木軍の203高地攻撃の時中隊が全滅し、

 肺に近い左肩貫通の重症を負っているのだから、

 万感胸に迫る思いだったのだろう。

 その代はり兄は誰も付いて来なくなった

 ホ-ムの終わりまで晋司を抱いて

 馳け乍ら見送ってくれた。

 終始両親は何も云わなかった。

 3年後帰還して部隊から電話した時先ず母が出た。

 静かな声であった。

 後で「てい」(帰って1ケ月で結婚した家内)の話では、

 母は仁左右は必ず無事で帰えると

 口ぐせのように云っていたそうである。

 又父等へは何かに付け、

 「戦地では奉公している

 仁左右の事を思いなさい、と

 強いことを云っていたそうである。

 又父は私の武運長久を祈り

 香取神宮へ参拝百円を奉納した。

 奉賛会長の近衛文麿から感謝状を受け、

 境内の神杉で作られた硯箱と共に

 今も私の手元にある。

 上海敵前上陸、

 大場鎮など攻撃の頃は

 敵陣は縦深5キロと云はれ

 優秀で昼夜の別なく爆竹の様に敵弾が来た。

 早速銃弾でやられる者、

 砲弾命中で千切れ飛んだ者、

 又衛生最悪で、コレラで死んだ者も出た。

 殆どの者は赤痢に罹っており、

 夜、塹壕や天幕から這ひ出して

 周囲で下痢便をするので、

 足の踏み場もない有様だった。

 私は少し離れた砲弾で千切れた

 立木が少しは障害物になりそうで

 その陰で何回か用を足した。

 何回目かの朝、

 その木株に変なものが

 掛かっているので良く見ると、

 自分の千人針だ。

 前回外して掛けたまま忘れ、

 夜半の雨に打たれて

 赤色が滲み出していたのであった。

 そこで、勿体ないので

 父の縫い込んだお金を取り出し、

 腹巻は雑のうに入れ、

 余り使ふことはなかった。

 そして、お守りの入った千人針は、

 私と一緒に帰還し、

 母が大切に神棚に納め、

 またいろいろ書き込んだ

 日の丸のチョッキは

 母がよく羽織下に着ていた。   

  注:この手記に書かれた千人針の図

     手記にある千人針の図 

 

● 無茶な検疫

 残暑の昭和15年9月

 大陸戦線の中支各隊から一部交代帰還する。

 我々を乗せた貨物船がやっと広島に着いた。

 ところが検疫の為め沖合にに停船してしまった。

 上海で乗船する前后から、

 いろいろな調べや検査を受けたが、

 ここではコレラの検査で相当酷かった。

 全員素裸にされ、

 甲板に印されたところへ手足を置くと、

 四つん這いの惨めな格好になる。

 そのうえ尻を上げ口を開いて力を抜けと云ふ。

 丁度箸のようなガラス棒を

 各人ごとに尻の穴に差込み、

 それを試験管へ移すのだが、

 口を結んでいると入りにくく、

 強引に突込まれて、前

 につんのめったのが何人かいた。

 処置は機械的に進められた。

 後は検査の結果が出るまでは

 一切のものを海へ捨てられないので、

 甲板上に急造便器で用を足すことになった。

 唯々石油缶などを一杯並べただけの物だった。

 炎暑のさなか、

 大小便をそのまま溜めておくのだから、

 無茶な話だ。

 若しも菌が出たら上陸は勿論

 大変なことになるらしい。

 大陸焼けした、

 武運嚇々たる歴戦の勇士も流石に顔色なく。

 残念乍がら糞尿と共にあるのも、

 なにもかもすべて懐かしい。

 我が家に帰れるまではと、

 我慢に我慢をした。

 そして汚物が溢れそうになった時、

 やっと許可が出た。

 万歳万歳と皆んな躍り上ってよろこんだ。

 と同時に一斉に汚物を舷側より投捨てし始めた。

 その物凄い音はドドドゥと

 大滝のように響き、

 さらにプンプンたる悪臭、

 そして船の周囲から黄色くなった

 海面がグングンと拡がって行った。

 

● 戦争に於ける生と死

 あの人たちの為なら戦死してもよい、

 と思ったことが2度あった。

 先ず応召入隊の昭和12年9月13日、

 家から壮行会場の築地公園に向うふ時、

 高い幟を先頭に進む私等の行列の為め

 本願寺前の交差点は勿論交通止めになるし、

 たいへんな見送りであった。

 その中に僧侶のような方が一人

 土下座をして私を拝んでおられた。

 よしあの人たちの為めにと思った。

 次は同22日、

 輸送船が大阪港を出航するときの

 夜半12時頃甲板にでると、

 誰も居ないくらい波止場に

 カッポ-着姿の国防か

 愛国婦人会かの襷を掛けた方が二人、

 日の丸の小旗を唯捧げ深く頭を垂れて

 見えなくなるまで何時までも

 見送って下さる姿を見て、

 あの人等の為めに命掛けでやるぞと心に誓った。

 この二度である。

 超応急動員で明治神宮参拝に出発の前、

 9月の暑いさなか夏服を着せられ、

 鉄帽も間に合わず、

 不揃いのままの軍装検査の時、

 大隊長は訓示の冒頭で、

 今日唯今皆の命をこの俺が貰ったと云われた。

 当時は当然のこととして聞いたのである。

 編成4~5日の通信班の部下は

 皆優秀だが寄せ集めの老兵ばかりで、

 新しい器材の取扱を教えたり

 また点検などし乍ら、

 多忙な大阪港出航間際に、

 部下だけの時をえらび

 皆んな揃って帰れるよう

 くれぐれも命を大切にして呉れと言った。

 皆んな驚いてそんなことを云っていいのですか、

 随分度胸ががいいですねと云った。

 中支戦線では、軍直轄野重の為め、

 何時も最も重要な第一線に協力させられたので、

 今度は駄目か、これで一巻の終わりかと

 思ったことが度々あったし、

 特に決死の任務に選抜されたことも

 何回かあったが当然のことであった。

 唯一度だけこれが最后かと思った一瞬の間に、

 親兄弟は勿論いろいろな人々や、

 幼い頃から今迄の生涯すべてのことが

 走馬灯のように鮮明に脳裡を走り去った。

 この不思議な現象は説明の仕様がない。

 徐州戦の時、観砲間の通信線が

 猛烈な敵砲弾で切断された。

 危険なので止むなく自分一人で補修点検の為め、

 遠方の小山に出してある観測所まで

 誰も居ない平地を走り出したら、

 又々敵弾が激しく落下して来た。

 あたりが真暗になる程だった。

 恐ろしくなり私は夢中で駈け戻り

 小さな部落へ飛び込んだ。

 友軍の歩兵が少し居た。

 一瞬私は逃げ込んだように見られないか、

 万一卑怯な振舞いだったら第一母が許さないだろう。

 そして国では一族が皆後ろ指をさされないかと思ひ、

 自らを励まし決死の覚悟で

 又観測所へ向ひ走り出した。

 そして弾着で穴だらけの所で切断された

 電話線を修理して観測所へ着くと

 皆心配して見ていたそうである。

 その時私はつくづく若し天涯の孤児で

 自分一人だったら完全に逃げていただろうと、

 何ともいえない思いをした。

 負傷した兵が、中隊長殿と呼び、

 中隊長が何だ傷は浅いぞしっかりしろと云うと、

 天皇陛下万歳と叫ぶ者が良く居たが

 これは決して死なない

 本当に死ぬのは

 お母さんと云うか唯一息深く吸うぐらいであった。

 誰でも一番大切なのは自分の命である。

 たとえ天皇陛下の為めでも

 意味なく死んでもよいと思ったことは

 一度もない。

 度胸の有る無し、

 職業軍人でも気の小さい人、

 百姓でも恐いもの知らずなど

 人それぞれであるが、蛮勇は困る。

 弾の来るなか、

 強そうに一人立ち上がっていても

 弾はなかなか命中しないものである、

 かえって狙い弾が沢山来るので

 周囲のものに無駄な犠牲者が出ることがある。

 南京城に日章旗が上がった后、

 敵大部隊の退却に当り、

 大河の流れのような勢いで

 我が大砲も乗り越え乗り越え

 我彼芋を洗うような乱戦に落ち入った時、

 皆の命を貰ったと高言した大隊長は

 地隙に伏し、踏まれても蹴られても

 一言も発しないでうずくまっていた。

 中隊長は中隊長はここありと叫び乍ら

 飛び廻って指揮していた。

 この中隊長は戦闘中でも、

 出来るだけ畑など

 荒らしてはいけないと云う優しさがあった。

 救援を命ぜられた小隊長は兵を整列させ、

 あれやこれや服装を点検、

 小銃の手入れなどまで調べ、

 何時まで出発しないので、

 流石に上官より間に合はず

 全滅してしまうぞとおこられ、

 やっとトラックで出発したが、

 乗る時俺はここが良いと荷台に乗り、

 指揮官の乗る運転台の席に兵隊を乗せた。

 一番先に狙われるからである。

 上海眞如の国際無線台を占領した時、

 観測手の老兵が命ぜられても塔に登れない。

 遂には観測将校が拳銃で撃殺すと云ひ、

 相当青くなって震え乍らも登れなかった。

 (中隊長が中に入って事なきを得た)

 世田谷の原隊出発時のことになるが

 私の部下になる筈の老兵が

 精神異常になり残置された

 又連隊段列では切腹した者がいた。

 徐州戦で皆んな蒙城を陥して

 城外に露営することになり

 充満する残敵を掃蕩することになり、

 高粱畑を各隊共同で包囲し

 次第に締めて行ったが、

 最后はなかなか近寄れず、

 敵も必死で我が方に負傷者も出るので、

 夕刻軽戦車で弾を撃込んで終った。

 その時軍人にしては紳士の武雄大尉

 (杭州湾上陸で有名な柳川中将の娘婿)は

 生来の恐れ知らずで

 丸腰でカメラを持って様子を見に近寄られたら、

 自動小銃で股を何発もやられ即死された。

 勿体ない人であった。

 やはり自重の必要があったのでは。

 その時掃蕩から私も戻ったのだが、

 指揮下だった中隊当番の

 広瀬と云う茨城出身の補充兵が

 敵兵を生捕りにして

 中隊長の土産としてつれて来た。

 中隊長はそんな素首を切ると

 俺の刀の名折れになるからいらないと云われ、

 広瀬は自分がと云って

 自慢の刀を取り出し首を切り落とした。

 夜半、幕舎からゴソゴソ出て行く者がいるので、

 どうしたと聞いたら、

 広瀬が気になると云って

 離れた首を胴体に合わせ槌を被せて、

 気がすんだと云って入ってきた。

 と思ったらすぐイビキをかいて眠ってしまった。

 或る者は、俺じゃないと怒鳴って飛起きた。

 要するに十人十色である

 又隣の中隊の召集少尉は

 日暮里の或る寺の僧侶で

 話も上手だが、何より殺すのが好きで、

 人の分まで引受けて首を切っていた。

 切っては拝んでいた。

 やはり精神に異常を来たし帰された。

 私はお蔭で一人も殺さず

 持参の日本刀はおじに返へし、

 官給の曹長刀も拳銃も使わず返納した。

 

● メモ

 日本軍では補給を軽視した(戦闘第一主義)

 私は徐州会戦では北上軍に属したが、

 総攻撃以来補給無く(乾パンなど食べ尽くしたあと)

 勝手に民家に有るものや

 豚、トリなど勝手に食べていた

 占領したあと、

 一度に沢山届いた事もあったが

 次の戦闘に出る時、運べずに捨て置いた

 戦后米軍のレ-ション(弁当)を見たが驚いた。

 栄養万点、更にチョコレ-ト、

 安全カミソリまで入っていた。

 

● 慰問娯楽

 (従軍手帖より)

 昭和13年

 3月21日  

  大戯院にて慰問挨拶あり 

  松竹の八雲 松本 里見等実演あり

  映画 結婚三羽烏等

 4月11日  

  陸軍の慰問団ポリド-ル班来鎭 

  染千代、平山ミユキ、上原敏、金波銀波等

 4月17日  

  陸軍省慰問 

  キングレコ-ド班来るも満員となりて聞かず