第65連隊の記録 2

前回の「第65連隊の記録 1」の

新聞に書かれている15,000人の捕虜は

その後どうなったのでしょうか?

参加した兵士の陣中日記、

戦闘日記出征日誌等を個別に見ます。

月日だけですが、

すべて1937年(昭和12年)です。

尚カナはひらがなに直しました。

また名前は本人や遺族の希望で仮名の場合もあります。

 

斉藤次郎」 陣中日記 

  歩兵第65連隊本部通信班小行李

  (戦闘に関係のある弾薬や資材を運ぶ部隊)     

  輜重特務兵(1938年1月一等兵に昇進)   

11月19日 雨     

 兎に角馬の糧秣を

 徴発することが先決問題なので

 午前も午后も戦友等が徴発に行き

 白米、馬糧、鶏など徴発してくる、

 中食前甘藷を煮て少しでも食物の補をする、・・・・

 午后から自分と佐藤忠恵君が残ったきり

 小行李全部徴発に出る、

 鶏や鴨を捕らえて来る、

 支那酒も一瓶持ってきた、

 お蔭で今夜は皆がおおはしゃぎ、

 戦地に来た気分が少しも見えない・・・・   

11月20日 雨     

 夜の点呼には青田獣医殿や

 五十嵐伍長から糧秣の欠乏を来して居るから

 汁は1日1回きりにし

 食物も勉めて無駄のない様すること、

 なるだけ徴発をして

 不足を補ふようにする事などの

 訓示がある、・・・・    

11月21日 雨      

 午后は塗淞鎮の町内を見る、

 「日本軍歓迎」「大日本万歳」などと書いた

 紙や日の丸の日本国旗などを戸毎にはってある    

11月26日 晴、霜      

 自分等は馬糧を徴発に行く、

 裸麦等も持参して来る、

 支那人4人を使役にして午后は休む、

 我が13師団の連絡も知れたので、

 明日は出発の予定で4里程先の

 常熟まで行軍の事にする、

 今日は殊の外徴発が出来たのに

 明日出発では残り悔しい。   

12月13日 晴      

 夜7時頃大行李2大隊の熊田君外1名が

 敗残兵1名を捕虜にして来る。

 捕虜にする際少し負傷して居った。

 1将校が軍刀で日本刀の切れ味を

 試さんとしたら少しのすきを見て逃げ出したのを

 自分と**君と2人で追い、

 四、五十間逃げる敵兵を田圃中を追う、

 若松で刃をたてた銃剣を引き抜いて

 満月に近い月光をあびて追跡する様は

 内地で見る活動写真の映画そのもの感がする、

 **君より早く追いつき銃剣を以って

 肩先を力任せに一剣あびせかける、

 手ごたえありその場に昏倒してしまう、

 ようやく追いついた友軍の人達が集まり

 先の将校が脳天を真二つに割る、

 昏倒して居るのを切ったので

 首をはねる積もりだったのだろうが

 手元が少し違ったのだろう   

12月14日 晴     

 第1大隊の捕虜にした残敵を見る、

 その数5~6百はある。

 前進するに従い我が部隊に

 白旗を掲げて降伏するもの数知れず、

 午後5時頃までに集結を命ぜられたもの

 数千名の多数にのぼり

 大分広い場所を黒山の様に化す、

 若い者は12歳位より長年者は50の坂を

 越したものもあり、

 服装も種々雑多でこれが兵士かと思われる、

 山田旅団内だけの捕虜を合して算すれば

 1万4千余名が我が軍に降つた、・・・・        

 〔欄外記事〕14777名捕虜とす。

 (14日)旅団本部調査

12月18日 曇 寒     

 午前零時敗残兵の死体かたづけに

 出動の命令が出る、

 少行李全部が出発する、

 途中死屍累々として

 其の数を知れぬ敵兵の中を行く、

 吹いてくる一陣の風も

 なまぐさく何となく殺気たって居る、

 揚子江岸で捕虜***名銃殺する、

 捕虜銃殺に行った12中隊の戦友が

 流弾に腹部を貫通され

 死に近い断末魔のうめき声が

 身を切る様に聞こえ悲哀の情がみなぎる、

 〔欄外記事〕銃殺捕虜の死体処理(18日0時)

12月22日 晴     

 全淑県、午后3時到着、

 住民は日章旗を振りかざし

 爆竹をあげて我が軍を歓迎した、

 連隊長よりの注意がある、

 「婦女子に対し暴行をせぬ事、

 徴発の際は相当な代価を支払う事、

 みだりに発砲せぬ事等」・・・・

 

「堀越文男」 陣中日記 

  歩兵第65連隊本部通信兵  伍長

10月6日   

 支那人女子供のとりこあり、

 銃殺す、むごたらしきかな、これ戦いなり  

10月8日     

 午後2時より徴発にでる、

 泥濘軍靴を没す、

 すなわち部落をめぐりて家内を物色、   

11月6日    

 昨夜第3大隊方面に夜襲ありと、

 それを撃退200名をやっつけ、

 7名捕虜とか、

 連隊本部へ連れてくる。

 油座一等兵1名を切る、渡部軍曹も切る・・・・

 まさにすっぱりと首を切り落とされた。   

11月9日   

 捕虜をひき来る油座氏これを切る。

 夜に近く女2人、子供ひとり、

 これも突かれたり。   

11月16日     

 午後6時頃1部落を見つけて泊す、

 高橋少尉殿と藤井上等兵と自分と3人で

 徴発せし鴨と鶏全部で8羽を以て夕食うまし、

 外に豚1匹は油と砂糖とでいため、

 昼食の副食物にす。    

11月20日      

 午前8時25分頃とある部落に

 正規兵を発見し吾はじめて之を切る、

 全く作法通りのきれ具合なり、

 刀少しく刃こぼれせり、

 惜しきかな心平かにして

 人をきりたる時の気持ちとは思われず

 吾ながらおどろかれる心の落ちつきなり・・・・   

12月14日     

 第1大隊は1万4千余人の捕虜を道上に監視しあり   

12月15日     

 午前9時朝食、

 10時頃より***伍長と2人して

 徴発に出かける、何もなし、

 唐詩300首、1冊を得てかえる、

 すでに5時なり。

 揚子江岸に捕虜の銃殺を見る、

 3~40名ずつ1度に行うものなり。

 

「伊藤喜八」 陣中日記 

  歩兵第65連隊第1中隊 上等兵

12月17日 

 その夜は敵の捕虜2万ばかり

 揚子江岸にて銃殺した。    

12月18日     

 大隊本部に行った。

 そして午後銃殺場所見学した、

 実にひどい惨状でした。     

 我が軍に戦死10名、負傷者を出した。

 

「中野政夫」 陣中日記  

  歩兵第65連隊第1中隊 上等兵

12月13日     

 途中数十名の敗残兵を射殺し

 10頃銃砲声の中に入りたるの感あり    

12月14日     

 敗残兵掃蕩のため

 中隊長准尉1小隊の1分隊と

 我4分隊とで砲台に行く。

 幾名とも知れず射殺す。    

12月17日

 毎日敗残兵の銃殺幾名とも知れず    

12月18日     

 警備。

 (大隊に於いては1万7千の捕虜を処分す) 

 変わりたることもなし。

 

「宮本省吾」 陣中日記  

  歩兵第65連隊第4中隊 少尉

12月13日      

 午前10時将校斥候となり

 烏龍山方面の敵情を捜索に出発、

 途中敗残兵等に会ひ騎兵隊と共に射殺す。

 夕方烏龍山攻撃に向ふも

 敵の陣中にあると○えず、

 敗残兵を多数捕獲し、

 一部は銃殺す、夜10時野宿につく。    

12月14日      

 午前5時出発、

 南京近くの敵の敗残兵を掃蕩すべく出発す、

 攻撃せざるに凡て

 敵は戦意なく投降してくる、

 次々と1兵に血塗らずにして

 武装を解除し何千に達す、

 夕方南京に捕虜を引率し来り

 城外の兵舎に入る無慮万以上に達す、

 夜半又々衛生隊が200余の捕虜を引率し来る、

 通訳より「日本軍は皆に対し危害を与えず

 唯逃げる事暴れる様なることあれば

 直ちに射殺する」との事を通じ

 支那捕虜全員に対し言達せし為

 一般に平穏であった、・・・。    

12月16日      

 午後食事中に火災起り

 非常なる騒ぎとなり1/3程延焼す、

 午後3時大隊は最後の取るべき手段を決し、

 捕虜兵約3千を揚子江に引率し之を射殺す、

 戦場ならでは出来ず又見れぬ光景である    

12月17日      

 本日は一部は南京入城式に参加、

 大部は捕虜兵の処分に任ず、

 小官は8時半出発南京に行軍、

 午後晴れの南京入城式に参加、

 荘厳なる史的光景を

 目のあたり見ることが出来た。

 夕方漸く帰り直ちに

 捕虜兵の処分に加わり出発す、

 2万以上の事とて終に大失態に会い

 友軍にも多数死傷者を出してしまった。

 中隊死者1傷者2に達す。    

12月18日      

 午後敵死体の片付けをなす、

 暗くなるも終わらず、

 明日又なす事にして引きあぐ、

 風寒し    

12月19日      

 昨日に引き続き早朝より

 死体の処分に従事す、

 午後4時までかかる。・・・・

 

「柳沼和也」陣中日記   

  歩兵第65連隊第7中隊 上等兵

12月14日      

 明け方になったら前衛の

 第三大隊が支那兵を捕虜にして置いた、

 居るわ居るわ全部集めて

 1部落に収容したがその数

 およそ1万7千と数える、

12月17日      

 夜は第二小隊が捕虜を殺すために行く、

 兵半円形にして機関銃や軽機で射ったと

 その事については余り書かれない

  注:秘密事項の為      

 1団7千余人揚子江に

 露と消ゆる様な事も語って居た。    

12月19日      

 第三小隊は一昨日の支那兵を

 取り片付けるに行ったが

 自分は足が痛いので残る。

 皆これを片付けるに面白いとの事であったと。

 

「大寺隆」 陣中日記    

  歩兵第65連隊第7中隊 上等兵

12月14日      

 食糧は今日からなしに、

 地方から徴発していかなければならない。

 第4中隊は徴発中隊だ。

12月17日      

 ・・・・[空頁への記事]           

 平安路を南進。           

 南京の捕虜約十万           

 9,11,13の各師団           

 65の捕虜1万2千    

12月18日      

 午后は皆捕虜兵片付に行ったが

 俺は指揮班の為行かず。

 昨夜までに殺した捕虜は約2万、

 揚子江岸に2ケ所に山の様に重なって居るそうだ、

 7時だがまだ片付け隊は帰ってこない。・・・・    

12月19日      

 午前7時半整列にて清掃作業に行く、

 揚子江岸の現場に行き、

 折重なる幾百の死骸に驚く、

 石油をかけて焼いた為悪臭はなはだし、

 今日の使役兵は師団全部、

 午後27時までかかり作業を終える、

 

「遠藤高明」陣中日記  

   歩兵第65連隊第8中隊 少尉 3次補充    

12月14日  

 太平山付近に於て第1師団の捕へたる

 敗残兵数百名に逢ひモーゼル機関銃を獲得、

 尚支那将校の乗馬をとり

 馬上にて行軍正午幕府山麓着、

 敵は戦意なく

 敗残兵450名及兵器多数鹵獲整理す、

 夕刻上元里に宿舎を定む、

 民家少く一室に小隊全員起居す、

 夕刻より更に400余の捕虜を得。

12月16日      

 捕虜総数1万7千25名、

 夕刻より軍命令により捕虜の1/3を

 江岸に引き出し(第1大隊)に於いて射殺す。

 1日2合宛給養するに百俵を要し

 兵自身徴発により給養し居る今日

 到底不可能事にして

 軍より適当に処分すべしとの

 命令ありたるものの如し、

12月17日      

 夜捕虜残余1万余処刑の為兵5名差し出す、

12月18日      

 午前1時処刑不完全の為生存捕虜あり

 整理の為出動を命ぜられ刑場に赴く、

 寒風吹き募り同3時頃より吹雪となり

 骨まで凍え夜明けの待遠しさ言語に絶す、

 同8時30分完了、

 午後2時より同7時30分まで処刑場

 死体1万有余取片付のため兵25名出動せしむ。

12月19日 

 前日に引続き死体取片付けの為

 午前8時より兵15名差出す、

 

「本間正勝」 戦闘日誌  

   歩兵第65連隊第11中隊 二等兵 編成

2月14日    

 ・・・・途中降参兵沢山あり、

 中隊でも500名余捕虜す、

 連隊では2万人余も捕虜した。

12月16日       

 午前中隊は残兵死体整理に出発する、

 捕虜3大隊で3千名揚子江岸にて銃殺す

12月17日       

 軍の入城式あり、

 中隊の半分は入城式へ半分は銃殺に行く、

 今日1万5千名、午后10時までかかる

 

「高橋光夫」 陣中日記 

   歩兵第65連隊第11中隊 上等兵 第4次補充

12月18日      

 午後には連隊の捕虜2万5千近くの

 殺したものをかたつけた。

12月19日      

 午前は死体をかたつけるために

 前日の地に行く、

 本日又16人程の敗残兵を殺した

 

「菅野嘉雄」 陣中メモ  

   歩兵第65連隊連隊砲中隊  一等兵  編成

12月14日      

 午前5時出発夜明頃より敵兵続々と捕虜とす、

 幕府山要塞を占領し午後2時戦闘を中止す、

 廠舎に捕虜を収容し其の前に宿営警戒す、

 捕虜数約1万5千。    

12月15日      

 今日も引続き捕虜あり、

 総計約2万となる。    

12月16日      

 谷地より正午頃兵舎に火災あり、

 約半数焼失す、

 夕方より捕虜の一部を揚子江岸に

 引出銃殺に附す。

12月17日      

 未曾有の盛儀南京入城式に参加、

 1時半式開始。

 朝香宮殿下、松井軍司令官の閲兵あり、

 捕虜残部1万数千を銃殺に附す

12月18日      

 銃殺敵兵の片付に行く、臭気甚し 

12月19日  

 本日も敵兵の片付に行く、

 自分は行かなかった

 

「田中三郎」 スケッチ 

   歩兵第65連隊第2中隊

 銃殺現場を描いためずらしいスケッチです。

  注:スケッチ中の字は読みやすくするため

    活字に変えてあります。