安全区の記録・メンバ-の日記、手紙など 1

南京の国際安全区には

15人の外国人委員が中心となって

多くの難民の救護をしていました。

その外国人からの日本大使館への

書簡、日記や友人への手紙などの資料は

第三者の証言として貴重なものです。

少し長くなりますし、

日付も長期になりますが資料として掲載します。

そしてこれらの資料を読んでも、

南京事件を否定する人たちは、

なお忌まわしい事件を否定するのでしょうか!!

 

「ベイツ Miner Searle Bates」

   アメリカ人1897年5月28日

   オハイオ州ニュ-ア-ク生まれ。

   1920年オックスフォ-ドを卒業と同時に

   宣教師に任命され、

   南京の金陵大学に赴任した。

   南京事件の時、妻子は日本に滞在していた。

   1938年1月に金陵大学の学長。

1937年12月15日 新聞記者に提供したニュ-ス原稿       

 日本の軍隊は南京での評判がすこぶる悪く、

 中国人住民と外国人世論とから、

 尊敬を勝ち得る大事な時期を失してしまった。

 この地域での中国政府の

 恥ずべき壊滅と中国軍の瓦解とで、

 数多くの者たちが、日本の吹聴していた

 秩序と組織に期待していた。

 当地の多くの住民たちが、

 日本軍が入城したときには、

 心底ホッとした表情を見せたのは、

 戦争状態と空襲の恐怖がまったくなくなったからだ。

 けれども、丸々2日にもわたった

 頻繁な虐殺と大規模に何度も繰り返される

 掠奪や個人住宅への掻き乱し、

 それに婦女の安全を危うくしたことが、

 市外全般の様相を一変させてしまった。・・・・

 死者のうちかなりの部分が、

 13日の午後と晩とに銃殺されたり

 銃剣で突き殺されたりしたもので、

 その日はちょうど日本軍が

 入城した日だったのだ。・・・・・

 全市のなん千なん万という個人の住宅が、

 人の住んでいるのも空っぽのも、

 大きいのも小さいのも、

 中国人のも外国人のも、

 みんな一視同仁で掠奪されている。

 とりわけ恥ずべき兵士掠奪事件としては、

 多くの難民キャンプと収容所にいる

 難民たちのなけなしの現金と貴重品とが、

 大捜索のときに奪い取られ、

 大学病院の職員や作業員たち

 個人の金銭や懐中時計が奪い去られ、

 看護婦宿舎の家財も盗られた

 (それはアメリカ人の建物で、

 外国の国旗がひるがえり、

 彼らの尊重すべき大使館の発布した

 布告が掲示されていたのだ)

1938年1月10日 友人たちへの手紙 

 万人以上もの身に寸鉄も帯びていない

 民衆が、残酷に殺害されたのです。

 わたしの信頼している友人の殆どが

 実際にはこの数字よりずっと

 多いと見なしています。

 殺害されたのは武器を投げ出したり、

 投降して捕虜となったりした兵士たちで、

 それに多くの婦女や児童を含んだ

 普通の民衆も、だれもはばかることなく

 銃殺され刺殺されて兵士だったという

 口実すら不必要なほどです。

 有能なドイツの同僚(ラーベのこと)は

 強姦は2万件を見ています。

 私は8,000件は下らないと思いますが、

 もっと多いかもしれません。・・・・

 小さいのは11歳の女の子から

 53歳の婦女までが乱暴にも

 強姦にあったのです。

 神学院の構内で兵士たち17人が

 白日の下に1人の婦女を輪姦したのです。

 実際にこの類の1/3が真つ昼間に

 発生しているのです。

 市内では殆どすべての家屋が、

 アメリカ、イギリス、ドイツの

 大使館や大使官邸を含めて、

 それに比重のきわめて大きい

 あらゆる外国人居留者の財産が、

 いずれも繰り返し日本兵の

 掠奪にあっています。

 ここにはおよそ25万人いて、

 殆ど全部が安全区に留まっていて、

  注:25万人という数字は安全区にいた

    人数ということです)

 たっぷり10万人が国際委員会の

 提供する食と住に頼りきっています。

 私たち安全区の面積は

 2平方マイル位ですが、

 まだ完全には出来ていません。

 この集中した区域では

 重視に値する火災は起きていません。

 日本兵の犯罪と凶暴行為以外には

 基本的には他の犯罪や罪行はありません。

 南京には本当の憲兵は17人しかいなくて、

 5万を越す兵士が勝手ほうだいに

 放任されており、

 何日も私たちは1人の憲兵を見かけません。

 

「フィッチ George Ashmore Fitch」

  アメリカ人、1883生まれ、

  1909年から上海青年会で

  宣教師として働いた。

  南京事件の時には南京青年会

  (YMCA at Nankinng)の

  責任者だった事もあって、

  南京安全区国際委員会の総幹事となった。

  1938年からアメリカ各地で

  南京大虐殺の紹介をした。

日記から   

1937年12月1日(水)

 馬市長(馬超俊)が、ぼくらの安全区を

 設立しようとの提案に、正式な応答を寄せ、

 警察官を450人、米を3万担(2,000トン)、

 うどん粉を1万袋、食塩を若干提供するとし、

 それに現金を10万元と承知したが、

 実際には8万元供与された。

 唐将軍(唐生智)は・・・・

 首都の防衛に責任を負い、

 極めて困難な条件のもとで緊密に協力し、

 安全区からの軍隊と防空施設とを撤去し、

 12日に日本軍が侵攻するまで

 秩序を良好に維持した

 必需物資の供給に事欠いたほんの

 僅かな中国人兵士らが掠奪したほかには

 基本的には略奪行為はなく

 全市にわたって外国人の財産は

 いずれも尊重されていた。

 10日まではずっと水が出ていて、

 翌日も電気はつき

 電話は日本軍が入ってくるまで

 ずっとつながっていた

12月10日(金)

 難民の大群がうしおのごとくに

 安全区へと押し寄せてきた。

 ぼくらはもうほとんどの学校の宿舎-

 金陵女子文理学院に法学院に、

 その他のは埋まってしまい、

 今では最高法院や法学院や

 外国居留民の住宅を使うしかない。・・・・・

 紫金山の向こうに日本の飛行船が

 2隻見えるが、砲兵が撃ちやすいように

 誘導しているらしい。・・・・・

 今ぼくらは27人からなる組織を作っている。

 アメリカ人18人、ドイツ人5人、

 イギリス人1人オ-ストラリア人1人、

 ロシア人2人だ

12月12日(日)

 この2日間の爆撃は恐るべきものだった。

 全市にわたる混乱が午後早くから始まった。

 (中国の)兵士たちが南から城外へと

 あふれ出し、安全区を通って行くのが多いが、

 振る舞い良く、秩序を守っている

 唐将軍が我々に、日本軍と休戦する

 仲立ちをして欲しいと要請してきていて、

 シュペルリンクさんが

 白旗を掲げた使者になろうと答えたが、

 とき既に遅く唐将軍はその日の晩に逃走した。

 その情報の後全市が大混乱に陥ってしまった。

 兵士たちが城外へ出て、下関と江辺へと

 向うときにもうパニックになってしまった。

 何キロもの路上にいたるところ、

 小銃や弾薬やベルトや軍服や車両がうっちゃられ、

 各種各様の軍需品が置き去りになっている。

12月13日(月)

 朝11時に安全区に初めて彼ら(日本軍)に

 関する情報が届いた。

 委員会の同僚と会見しに行ったところ

 少人数の日本軍の分隊にあった。

 彼らは怖がって慌てて逃げた

 難民20人を銃殺してしまった。

 1932年に上海で慣例になって以来、

 逃げて駆け出すものは

 みんな撃ち殺したり

 刺し殺したりするみたいだ。

 ぼくたちは本部で中国兵の

 武装解除を手伝うのに忙しかった。

 中国兵はもはや逃走しようがなく、

 難民区にやってきて

 庇護を求めるしかなかったのだ。

 武器を放棄さえすれば

 日本軍は寛大に処理するだろうと

 ぼくらは彼らに保証した。

 しかしこれは安請け合いだった。・・・・

12月14日(火)

 日本軍が大挙して入り込んできた。

 タンクに砲兵に歩兵にトラック。

 恐怖統治が始まった。

 続いてやってきた10日間残酷さと

 凶暴さとが日に日に増大してきている。・・・・

 かれらは中国の首都南京の

 征服者なのであって、

 やりたい放題やっていいのだ。

 飛行機でビラを全域に撒き、

 「日本人は中国人の真の友人であって、

 善良な民衆を保護する」と謳っているが、

 これはまったく空言の羅列でしかない。

 その真心を表そうと、

 彼らはやたらと強姦したり

 掠奪したり虐殺したりしているのだ。

 群れをなして人々が

 引っ張って行かれるのは、

 ぼくらははじめ、

 労役に当てるのだろうと思ったのだが・・・・・・

 ゾ-ン宅でアメリカの国旗を引き裂いて、

 地に放り投げた・・・・   

12月15日(水)

 そのときぼくらは国防部の近くまで

 来ていたのだが、

 そこが武装解除した兵士たち数百名と、

 無辜の一般市民の多くを

 丁度処刑し続けている所だったのは明らかだ。

 午後には裏道から車で下関へ向った。・・・・

 ぼくらが車で2筋の厚さ3フィ-ト

 長さ90フィ-トのぺしゃんこになった

 死体の上を走ったのは確かだ。

 何とも形容のしようがない

 このトリップは永遠に忘れないだろう。・・・・・

 城門のあたり一帯悪臭ふんぷんで、

 いたるところに野犬が出没し、

 死体がかじりまくられている。

 その晩ぼくら職員が会議をしていると、

 日本軍が本部近くの難民キャンプの

 1,300人全部を銃殺しに

 捕まえていったとのニュ-スが入った。   

12月16日(木)

 日本人がなおもトラックや

 乗用車を盗むので

 交通問題が重大になってきた。・・・・

 今ぼくらの難民キャンプが25ケ所で、

 それぞれに200人から12,000人入っている。

 金陵大学のキャンパスだけで

 3万人近くになり、

 金陵女子文理学院は

 婦女と児童だけを収容して、

 人数が3,000人から9,000人へと

 激増し建物と建物の間の

 渡り廊下までもが一杯になっている。・・・・

 この日の朝から強姦の報告が届き始めた。

 百名あまりの婦女が

 兵士たちに捕まっていった。

 そのうち7人が金陵大学の

 図書館から捕まっていった。

 これより何倍の多くの婦女が

 自分たちの家で乱暴されたのだ。

12月17日(金)     

 虐殺に掠奪に強姦が横行し続けている。

 ざっと見積もって、少なくとも

 何千人もの婦女がきのう乱暴された。

 哀れにも女の人で一人、37回強姦された。

 もう一人5ケ月の赤ちゃんのいる婦女で、

 日本軍が強姦しているときに、

 赤ちゃんが残酷にも悶絶死させられたのは

 泣き出したからなのだ。

 抵抗は銃剣を見舞われることを意味している。

 病院はたちまち日本軍の残忍な

 獣性の犠牲になったものでぎっしりになった。

 ウイルソンがぼくらの唯一の医師として

 手がはれ上がっていながら

 夜中まで仕事をしなければならない。

12月18日(土)     

 林査理が朝食のときに報告したのでは、

 きのうぼくらと夕食をしていたときに、

 婦女が2人彼の住まいで日本軍に強姦され、

 その一人が我がYMCA幹事の

 王廷の従姉妹だった。

 ウイルソンの報告では、

 5歳の男の子が銃剣で突かれた傷が18ケ所、

 ある婦女が顔を切られた傷が

 17ケ所で腿にも何ケ所か傷がある。

 午後恐れおののいてやまない

 婦女4~5百名がわれわれの本部に押し寄せてきて

 露天で夜を明かすしかなかった。     

12月19日(日)     

 何ケ所かで大火が蔓延している。

 少数の兵士が起こしているようだが、

 多くは上官の許可を得ているのだ。

 あっちでもこっちでもアメリカの国旗が

 引き裂かれて地面に投げ捨ててある。

 アメリカンスク-ルがめちゃくちゃに

 踏み込まれ、守衛がもう少しで

 殺されるところだったと言っている。

 外国人の家屋に貼ってある

 日本大使館の掲示など日本軍の兵士は

 見ることもなく破り捨てたりもする。

 1日に5回から10回も踏み込まれる

 家屋がいくつもあり、窮乏している人民が

 洗いざらい持って行かれ、

 婦女が淫らな振る舞いをされている。

 何人もの人が何のいわれもなく

 残酷に処刑されている。

 ある区域でぼくらの衛生チ-ム7人のうち

 6人が殺害にあい

 7人目が逃走し我々に報告した。・・・・・

 街は依然として死体で一杯で、

 見かけるのは皆一般市民だ。

 紅卍字会(Red Swastika Society)が

 死体を片付けたがっているが、

 日本軍にトラックが盗まれ、

 死体を埋葬すのに使う棺の木も、

 会の働き手も持っていかれてしまった。

 スマイスとぼくとで、

 新たに55件増えた確認済みの

 凶暴行為を記載した冊子を持って

 もう一度日本大使館を訪れ、

 田中さんと福井さんに、

 今日は状況がずっと悪くなっていると話した。

 彼らは「できる限り努力する」と保証したが、

 彼らは軍への影響力がほとんどなく、

 軍当局も兵士を拘束していない。

 こんど憲兵が17人来るので

 秩序回復になると告げられた。

 17人で5万人ものとびきり邪悪な

 犯罪人の大軍に立ち向うだと!

 それでもぼくらは日本大使館の人を

 気に入っている。

 

「フォースタ- Ernest H. Forster」

  1895年フィラデルフィア生まれ。

  聖公会の宣教師として中国にわたり、

  南京陥落の1ケ月前から聖ポ-ル礼拝堂に仕えた。

日記から   

1937年12月19日       

 これまで夢想だにしなかったことだが、

 こんなにも人間の顔つきをして

 野獣の想いでいられるのが

 世の中に存在していて、

 それとぼくらが付き合っていかなけりゃ

 ならないとは! 

 かれらがぼくら外国人を喜ばないのは、

 彼らの悪行をぼくらが

 目撃し続けているからなのだ。

 15日と16日に彼らは大量に人を捕まえて、

 有無を言わせず兵隊にしてしまう。

 そのうちのほとんどをむごたらしく虐殺する。

 ぼくらが聞いたのでは、

 2~300人を一群にして沼に連れて行き

 一人一人銃殺してから沼に投げ入れる。

 もう一つの大軍が薄暗いバラックに

 押し込まれ、周りに機関銃が

 据え付けられていて生きたまま焼き殺された。

 ・・・・日本兵は誰はばかることなく

 掠奪し強姦している。・・・・

 金陵女子文理学院には

 3,000人もの婦女が集まっっている。

1938年1月24日       

 ここでは結末のあまり愉快でない案

 件が、いくつも起こっているが、

 とりわけひどい2つの事件では

 証拠が確実だと言えそうだ。

 ある婦女が日本兵に強姦され、

 そいつがビ-ルの空き瓶を無理やり

 彼女の体内に押し込み、

 それから撃ち殺したんだ。

 もう一つの案件は、

 イギリス大使館のある職員が目撃したものだ。

 婦女が強姦され、彼女の体内に

 ゴルフのクラブが突き刺されたんだ。

 彼女は虐待されて死に到った。

 こういう人の皮をかぶった悪魔が

 存在するはずはないはずなのに、

 事件が一つ又一つ伝わってくる。

 別の日には午前中に顎に弾の入った

 男の子が病院に担ぎこまれた。

 日本兵がその子に豚を捕まえさせたが、

 捕まらなかったので顎を撃たれたんだ。

 もう一人の子は日本兵に豚を提供しなかったら、

 お腹を割られて沼に投げ込まれたんだ。・・・・     

1月26日       

 ・・・・今日の午前に男の人の

 屍が一杯引き上げられたが、

 その人たちは日本軍が入城してまもなく

 機関銃で掃射されて、

 ちょうどぼくらの住んでいる

 街道の端の池に投げ込まれたんだ。

 ほとんどが一般市民だが、

 前は兵隊だったと疑われて銃殺されたんだ。

 マギ-と今日ある家屋に行ったが、

 そこに住んでいた14人が日本軍の

 入城後まもなく全部殺された。

 そのうち11人が婦女で、

 誰もが強姦されてから殺害された。

 その屍がまだそこにあるんだ。   

2月1日       

 今日午前に難民センタ-の主任会議に出た。

 目下のところこれらのセンタ-で

 約58,000人の人々が国際委員会の

 世話を受けている。

 これらのセンタ-の全部が安全区内にある。

 36,271人もしくは62%が

 アメリカの所有地にいて、

 601人ないしは1%がドイツ人の敷地に、

 17,000人あるいは31%が中国政府の土地に、

 3,139人もしくは6%が中国人の個人の土地にいる。

 日本軍はこれらの難民が

 2月4日までにそれぞれのセンタ-から

 出て行かなければ実力で追い出すと言っている。