第16師団の記録 2

第16師団の日記等の続きです。

「上羽日記」     

   上羽武一郎 

   第16師団衛生隊第2分隊衛生兵

11月13日    

 顔をやられて血みどろになった

 学生軍がにげおくれて引っぱられて来て

 通訳が弁じた後ピストルでうちころした。

 血をはいてうなって居た。

 愈々戦争気分がする。

 8時舎営、始めて飯盒すいさん、

 水洗場にばあさんがにげおくれ

 水に浸って居るやつを引上げてくる。

 腰ぬけしてふるえている。

 火にあたらす。

 着物を脱がそうとすると

 はずかしがって閉口した。

 朝出がけに誰かが家に放火して、

 とうとうばあさんもやけてしまった。   

11月14日  

 台湾の民夫が働いている。

 日給1円60銭。

 民夫は戦争に来るのを

 大変喜んでいるそうな。

 台湾兵が人を切るのを見る。

 おやじを切る、

 子供を次々に切る。

 母がすすきのかげから

 おずおずして子供の死を見て居る。

 一寸涙なくしては見られるものか。

 娘を引っぱって、一晩とめては返す   

11月26日    

 南京道、前進前進。

 道傍に死体るいるい。

 はらわたの出たやつ、

 頭の平たくなったやつ、

 木枝にさししびく等、

 自動車に轢かれて粉々になった体。・・・・   

12月14日    

 夕7時我々1車両病院へ行く途中

 敵襲に合い生きた気持ちせず、

 どんどんばちばち。

 歩兵がトラック、ダットサンに分乗、

 早速かけつけて難なくげきたいする。

 話に依れば、3

 00人程度の兵を武装解除して

 倉庫に入れ、10人ずつ出して殺して居る時、

 此を見た中のやつがあばれ出し、

 7,8人で守って居た我兵の内

 38銃をもぎとられて交戦し、

 其れが逃げてきたらしい。

 彼等は武装解除して使役にでも

 使われると思ったらしい。

12月15日 

 話に依れば、

 城内北方に敵武装解除したる兵

 1万5千人居て、此れを

 機関銃で囲んでいるそうな。

 又紫金山のトーチカ内に1ケ師団程いて、

 此れも囲んで守って居るそうな。

 徴発にいく。面白い、

 何もかも引っぱり出してさがして行く。   

12月21日 晴    

 行軍をなして中山陵激戦の跡を見学に行く。

 太平門の入口に死体500名程うちころし、

 無残につんであった。

 人間もはかないものなり。

 腹を突き破り、頭、顔等処きらわず

 切った死体、砲車等中々奮戦の跡を思わせる。

 山の中腹には大きなざんごう、

 水道タンク等あって

 敵は1ケ月余も抵抗する考えであったらしい。

 午後1時松田部隊長の訓示ある。

 (軍紀厳正 健康保全)

 戦車も今日は徴発に出とる。   

12月31日 曇

 南京波止場迄わら取りの

 行軍に行ったが、1つもなかった。

 駆逐艦や御用船が居るわ居るわ。

 逃散兵が河の波打際に

 5~600程殺されて投げられていた。

 

「上羽陣中メモ」   

12月9日    

 百人狩出して担送さす、

 彼の心や如何に、

 クリ-クを背にして、

 敗残兵一勢射撃 血の海!

 

「北山日記」

   北山与 

   第16師団第20連隊第3機関銃中隊

11月29日    

 百姓屋に入り茶を飲む。

 城壁の外は你公の死体が

 幾十をなく転がっている。

 戦友たちが惨酷なことをした話をしている。

 敵国の人間でも余りなことは可哀そうだ。

 そんな話なんか聞くのも嫌である。   

11月30日    

 午後4時宿舎につく。

 小隊長が地図を落とされたので

 拾いに行くと、どの家も你公が殺されている。

 とても大人の家でねる。   

12月13日    

 西山を一回りして下りて来ると、

 壕内に敗残兵がいたと

 大勢の人達が集ってヤイヤイ云っている。

 紅顔の美少年である。

 シャツは抗日救国連合会の

 署名入りのものを着ている。

 祖国中華民国を守れと随分苦労したろう。

 余り皆んなが残酷な殺し方を

 しようとするので見るに忍びず

 僕が銃殺しようとするが、

 皆が承知しない。

 戦友が無残な死に方をしたので

 唯の殺し方では虫が納まらぬのだと云っている。

 無理からぬこと。

 だが余りに感情的ではないだろうか。

 日本軍は正義の軍であり、

 同時に文化の軍でなければならない。

 同じ人を殺すにしてなるだけ苦しめず

 一思いにバサリ殺ってやるのが、

 日本の武士道ではないだろうか。

 少しの抵抗もせず、

 ここを撃って殺して呉れと

 喉を示して哀願するのを、

 寄ってたかって虐殺するのは、

 日本兵の恥である。・・・・   

12月14日    

・・・・午後2時戦銃隊は紫金山の残敵掃蕩に行く。

午後12時過ぎ掃蕩から帰る。

800名程武装解除したらしい。皆んな一人残らず殺すらしい。

敵兵もよもや殺されるなぞとは思っていまい。

学生が主力らしく大学生なぞ沢山居たと云う。

生かして置けば随分世界文化の発展に貢献する人も有るだろうが惜しいものだ。

尊い生命が何の(チュウチョ)もなくい失われて行く。

戦争の酷烈な姿をつくづく感じる   

12月27日    

漢中門を出て菜っ葉、水牛の徴発に行く。    

出た所、物凄い死人の山である。500を越えるであろう。折重なって殺されている。

敵兵が主らしいが一般の你公の服装のも居る。大方敗残兵を始末したものだろう。

道路の両側も敵兵の死体で一杯である。・・・・

 

「牧原日記」      

   牧原信夫 

   第16師団第20連隊第3機関銃中隊伍長

11月18日    

 ある中隊の上等兵が老

 人に荷物を持たせようとしたが、

 老人が持たないからと言って

 橋から蹴倒して小銃で射殺して居るのを

 目前で見て可哀想だった。   

11月19日 雨後曇    

 午前6時起床。

 昨夜は久し振りに銃砲声を聞きながら

 夢路をたどるつもりだったが、

 結局雨のため眠れなかった。

 7時半小雨降る中を出発。

 出発と同時に附近の家全部に

 火をつけたからたまらない。

 逆風にあおられて煙に包まれ

 まるで瓦斯攻撃を受けた様なもので

 全く困った。   

11月22日 曇後晴    

 道路上には支那兵の死体、

 民衆及婦人の死体が見ずらい様子で

 のびていたのも可哀想である。

 橋の附近に5~6個の支那軍の

 死体がやかれたり或は

 首をはねられて倒れている。

 話では砲兵隊の将校が

 ためし切をやったそうである。   

11月24日    

 昨日此の部落で2名の敗残兵を殺した。

 今だにそのままである。  

11月26日    

 7時40分頃自分達が休憩している場所に

 4名の敗残兵がぼやっと現れたので

 早速捕えようとしたが、

 1名は残念ながら逃がし、

 あと3名を捕えた。

 兵隊達は早速2名をエンピや

 十字鍬で叩き殺し、

 1名は本部に連行、

 通訳が調べたのち銃殺した。   

11月27日    

 支那人のメリケン粉を焼いて食う。

 休憩中に家にかくれていた

 敗残兵をなぐり殺す。

 鉄道線路を前進す。

 休憩中に5,6軒の藁ぶきの家を焼いた。

 炎は天高くもえあがり気持ちがせいせいした。 

11月28日    

 午前11時大隊長の命令により

 下野班長以下6名は

 小銃を持ち残敵の掃蕩に行く。

 その前に或る橋梁に来た時

 橋本与一は船で逃げる5,6人を発見。

 照準をつけ1名射殺。

 掃蕩はこの時から始まったのである。

 自分達が前進するにつれ

 支那人の若い者が先を競って逃げて行く。

 何のために逃げるのかわからないが、

 逃げる者は怪しいと見て射殺する。

 部落の12~3の家に付火すると

 たちまち火は全村を包み

 全くの火の海である。

 老人が2,3人居て可愛想だったが

 命令だから仕方がない。

 次次と3部落を全焼さす。

 その上5,6名を射殺する。

 意気揚々とあがる。 

11月29日    

 武進は抗日、排日の

 根拠地であるため全町掃蕩し、

 老若男女をとわず全員銃殺す。

 3時過12中隊は5,6人の支那人を集め

 手榴弾を投げて殺していた。

 壕にはまった奴は中々死ななかった。・・・・   

12月1日    

 途中部落を全部掃蕩し、

 亦舟にて逃げる2名の敗残兵を射殺し、

 或は火をつけて部落を焼払って前進す。

 呂城の部落に入った折

 すぐ徴発に一家屋に入った所

 3名の義勇兵らしきものを発見。

 2名はクリ-クに蹴落とし射殺する。

 1名は大隊本部に連行し手渡す。   

12月7日    

 9時頃から敵か友軍かわからないが

 重火器の音が激しく聞こえる。

 何番目かの丘を越え凹地に侵入した時、

 12名の敗残兵が敵方の

 交通壕にうろうろしていた。

 早速とらえて銃殺。

 彼らも最早かんねんして

 すなおに指示にしたがった。

 敵ながらあっぱれだ。   

12月14日    

 午前7時起床。

 午前8時半、

 1分隊は12中隊に協力。

 馬群方面の掃蕩に行く。

 敵も食うに食なく

 ふらふらで出て来たそうだ。

 直ちに自動車にて出発す。

 しかし到着したときには

 小銃小隊だけで、350名位の敵の

 武装解除を終り待っていたとの事。

 早速行って全部銃殺して帰って来た。

 午後2時大隊は山岳部の

 掃蕩に行く事になった。

 岔路口手前約1里半の所で

 9中隊は1ケ分隊の兵力で

 約1800名からの支那軍を

 連れて帰ってくるのに出会った。

 敵は食なくふらふらしていたのも

 可哀想であった。

 また鉄道線路の沿道にあちこち

 敵の死体が転っていた。

 また鉄道線路のすぐわきの所には

 百余りもの支那軍が

 友軍の騎兵隊の夜襲を受け全滅していた。

 此の地で約30分休憩す。

 また6名の敗残兵が捕えられ銃殺された。

 今一つの悲惨な光景は、

 とある大きな車庫の様な建物に

 150~160名の敵兵が油の様なものを

 ふりかけられ焼死体となって

 扉から一生懸命のがれようと

 もがいたまま倒れていた。

 しかし今は僕達いくら死体を見ても

 何とも思わなくなった。

 午後11時50分無事到着。   

12月21日    

 毎晩の様にあちこちで

 火事が起きるので

 不審に思っていたところ、

 果せるかな支那人の一部が

 日本人の居る附近に石油をまき、

 付火する様だった。

 今日は1名捕えて殺す。   

12月27日    

 午前6時起床。

 直ちに食事準備をなして食事を終え、

 午前8時野菜の徴発に出る。

 四方伍長引卒なり。

 漢中門を通り揚子江の方に向う。

 漢中門を出た所には5,6百の死体が

 真っ黒に焼かれ折重なって倒れている。

 焼けただれた皮膚が黄味を帯びて全く見苦しい。

 戦闘が間遠になっている関係か

 気持が悪くなった。

 あちこちにこのような

 無残な死体が散乱していた。

 大きな橋を渡り更に進む。

 道端には更に遺棄死体がころがっている。

 

次は第4中隊の陣中日誌です。

 

「陣中日誌」      

   第16師団第20連隊第4中隊の公式戦闘記録

12月12日 晴 日 六高地

 1. 黎明時敵は更に本戦場の

  要点たる西山高地の奪回を企図し

  執拗にも我左側背より約50名の敵は

  猛烈なる射撃を浴せつつ逆襲し来る 

  第二小隊及び予備隊は

  熾烈なる火力を発揚し 

  次いて小隊長高倉准尉卒先々頭に立ち

  奮闘格闘十数分後之を西方に撃退せり 

  本戦闘に於て高倉准尉及福島伍長

  並に大隊砲小隊長梅川曹長は 

  格闘中敵弾に倒れ壮烈なる最後を遂ぐ

           以下省略

12月13日 晴 月 於南京

 1. 西作命第167号により

  午前7時30分東南方山麓に集結し

  本隊となり中山門に向い前進す

 2. 中隊は午後1時40分中山門より入城、

  西作命第168に依り城内掃蕩を実施

 3. 歩兵1等兵 須川淳

  歩兵上等兵 中島定助

  歩兵1等兵 瀬崎重吉

  右入院中の処12月5日退院

  本日中隊に追及す

 4. 進士伍長以下4名火葬を終え

  遺骨を奉し中隊に追及す

 5. 尋常糧秣として1日分を受領す

 6. 現在員 234名 内入院40名  

12月14日 晴 火 於南京

 1. 西作命第170号により午前10時より

  城内第二次掃蕩区域の掃蕩を実施

  敗残兵328名を銃殺し埋葬

 2. 鹵獲品左の如し 

品目数量品目数量
小銃180拳銃60
銃剣弾110眼鏡2
小銃弾4000発手榴弾20発
拳銃弾5000発  

 3. 歩兵上等兵 山口定一

  同    中野修一

  入院中の処本日中隊主力に追及す

 4. 尋常糧秣として2日分を受領す

 5. 南京城内海軍部に於て宿営す

 6. 現在員 234名 内入院38名

12月15日 晴 水 於馬群

 1. 西作命第174号により

  午後1時城内海軍部出発  

  紫金山東側地区掃蕩の目的を以て

  中山門を経て馬群に向い前進す

        以下省略

12月16日 晴 木 於硝石村

 1. 西作命第176号により

  南京東側地区掃蕩のため

  午前7時30分露営地出発、

  硝石村に向い前進す

 2. 午前11時硝石村に到着 

  別紙の如く中隊命令を下達し配備を完了す

中隊命令 12月16日午前11時10分 於硝石村

 1. 情報に依れば南京東側地区には

  敗残兵多数あるものの如し

 2. 中隊は(第一小隊欠)大隊命令に基き

  現在地附近に位置し 

  連隊主力の掃蕩により

  敗退する残敵を捕捉殲滅せんとす

        以下省略