松岡 環氏の聞き取り調査 2

「林豊」 1915年3月生まれ  

   第16師団歩兵第36連隊第1大隊  

   1999年10月取材

 捕虜をつかまえたらまず、

 武器を鹵獲しました。

 記憶にあるのは鹵獲した武器には

 小銃や機関銃、擲弾筒などがあった。

 鹵獲活動は中隊単位でやりました。

 数は小銃が300丁ぐらいで、

 機関銃が小銃の3分の1位だったね。

 捕まえた捕虜は百人ぐらいでした。

 皆男でした。兵隊もいたし、

 兵隊らしくない者もいたな。

 捕まえた捕虜は1ケ所に集めて

 兵隊が何人か見張りに立っていました。

 南京場内は昼過ぎに入りましたな。

 すぐ掃蕩です。

 次から次へと支那兵がいたね。

 他の中隊もいて捕まえたり

 殺したりしていました。

 わしらの中隊はただ集めるだけで、

 武器を取り上げて武装解除をしたんです。

 次の日も掃蕩したと思う。

 武装解除して、それから

 支那兵をどうしたかは分かりませんな。

 わしらはしてませんのでな・・・・

 

「岡崎茂」 1915年5月生まれ 

   第16師団歩兵第38連隊第1大隊 

   2001年4月取材

 南京では一番先に堕ちたのが和平門ですよ。

 その和平門から最初に入城したのは私らですよ!

 日の丸の旗を振って入りましたんや。

 それを知らずに門の外から

 千人位の支那兵が軍旗を持って

 四列で入城してきました。

 この支那兵を捕まえましたんや

 それで捕虜にしトラックに積んで

 下関まで連れて行って四列に並べて

 発砲し殺しましたんや。・・・・

 南京で5人の首を切りました。

 ハエを殺すのと同じ感覚ですよ。

 首の前の皮を残して切るのがコツですわ。

 あぐらをかかせ腕を組ませてるから

 首を切ったとき前屈みに倒れるんですわ。

 そうしたら紫金山の方向へ倒れるから

 日本では皇居へ向けて倒れるのと一緒ですわ。

 家を焼いて残った柱に中国人を縛って、

 部下に銃剣で突かせて殺させたこともありますよ。・・・・

 

「松崎二郎」 1916年11月生まれ 

   第16師団歩兵第38連隊第3機関銃中隊 

   2001年3月取材

◎1個旅団に近い捕虜を護送    

 紫金山はわしら麓から登った。

 その時わしは射手してたんでな。

 上から下を見たら

 鉄道が谷みたいな所を走ってるわけ。

 それでそこに機関銃据えるわけでんねん。

 ここに敗残兵が尭化門から

 鉄道沿いに逃げてくるわけや。

 敗残兵が来たら撃てっちゅうわけや。

 上官の命令で上から撃て言われたら

 撃たなあかん。

 そやけどな、やっぱり良心があるさかいな。

 ここで逃げられんかった敗残兵を

 南京まで連れて行ったわけや。

 何千人の捕虜やな。

 南京まで護送するけど、

 日本兵の方が少ないし、

 夜やし、そら恐いわな。

 武装解除してないしな。

 捕虜の人数は1旅団(注:1万人位)ぐらいあって、

 尭化門門から南京城まで連れて行った。

 捕獲前向うは投降して白旗挙げてた。・・・・

 それから城門の中に入った。

 捕虜は飯食わさなあかんが、炊く物がない。

 それで砲弾の薬きょうでお粥炊いて食べさせた。

 捕虜を座らせたら、

 田んぼ2反ぐらいの面積になった。・・・・

 その後、捕虜はどないなったかわからん。・・・・   

◎わしら清掃を命じられたんや。・・・

 中国の兵隊の服着てる者、

 普通の服着てる者、女の人もいる。

 兵隊ばかりじゃない、

 輜重兵が大八車引っ張ってくるんや。

 それに死体を乗せて、自分の手で乗せました。

 南京陥落してすぐや。

 松井石根の入城式が17日にあるから

 狭い路地もやりました。

 片づけをどんどんやらなあいかん。

 すごい死体の数やった。

 歩兵も工兵もみんな入城式までやりました。・・・・

 やっぱり人を1人でも殺したら戦犯やな

 息子にも戦争のことは聞かさへん。・・・・

 

「大窪寛三」 1908年6月生まれ  第

   16師団歩兵第38連隊第3大隊 

   1999年8月取材

◎南京入城で残敵を掃蕩

 わしらが城内に入る時、

 残敵が逃げ遅れていっぱいいました。・・・・

 捕虜がたくさん投降してきました。

 やっぱり食べさせなならんし、

 釈放したらまた悪いことするんで、

 わしらも捕虜に疲れて、

 揚子江にどんどん連れて行って銃殺しましたな。

 毎日機関銃の音がしました。

 トラックに捕虜をいっぱい乗せて行って。

 トラックはまた空で帰って来ましたな。・・・・

 陥落4日目に揚子江に一番近い

 挹江門を通った時、

 近くに死体が山ほど積んでありました。

 高さは2メ-トルぐらいで

 道路の横の空き地に累々と

 いくつもいくつも積んでいました。

 広さは場所によって違うので、

 20~30人ぐらいの固まりもあるし、

 2メ-トルぐらいのもあるし

 それより高いのもあるし、

 とにかく積み上げられる所まで

 積み上げたと思います。

 あれは後で、もうすぐ入城式なので

 日本軍が邪魔になるから整理したと思います。

 入城式の時は整然として

 そんなものはなかったですね。

 死体は埋めたのか、

 揚子江に持って行って流したか、

 どちらかだと思います。

 

「中山理」 1915年7月生まれ 

   第16師団歩兵第38連隊第1大隊本部付  

   2000年7月取材

 わしらが入城した時には、

 生きている支那兵は前の部隊が

 みな掃蕩してたんであまりおらんかったな。

 しかし輜重が入城した時には

 人の死体を踏んで入った。

 歩兵が出て掃蕩して、

 それから入城しとるんや。

 中国人の死体なんかみなそこら辺に

 放ったんとちがうけ。

 揚子江にみんな放ったよ

 支那人は城内から城壁の外に連れ出して、

 外でみんな殺したわ。

 埋めるなんてそんなんせえへんで

 何人やったかなんて知らんけどな。

 鉄砲で撃って殺したけど、

 歩兵隊に比べたら

 わしらの殺した人数はしれとるわ。

 掃蕩は南京に入った時、

 勝手にやって何人か捕まえたわけや。

 そこが問題やな。

 民間人と兵隊とよう見分けがつかんで。

 それが問題やと思う。・・・・

 

「長浜太」 1914年3月生まれ  

   第16師団の野砲兵第22連隊  

   2000年11月取材

◎山積みの死体を見に行った 

 撃ち方やめて翌日13日の昼すぎ、

 中山門から南京へ入った。

 砲も馬で引いてな、

 入ってすぐの城内の中は

 死体がころがっていた。

 掃蕩は歩兵と工兵がやったので、

 わしらはやらなんだ。

 南京に入ったあと、紫金山の掃蕩へは、

 砲は持たずに38式歩兵銃とゴンボ剣を持っていった。

 敗残兵が壕のなかに4人か5人いたので、

 そこへ手榴弾放り込んで来ました。

 掃蕩の後、陥落が終って落ち着いたとき、

 兵隊が「死体が下関に山と積んである。見に行こう」

 というので見に行った。

 門の内側に死体が背丈より高く、

 小山のように固めて積んであった。

 積んでいる人間は、生焼けで、まだ煙が出ていた。

 だいぶ臭かったので、近くへ寄らなんだ。

 死体がわしらの身長より高く積んであった。

 燃やした跡があり、半焼けになっていた。

 煙がぶすぶす出ていた。

 そこら中、城壁の内外は死体だらけだった。

 別の日に揚子江の河岸にも

 浮いているのを見ました。

 南京陥落後しばらくして、

 「揚子江に死体がようけ浮いとる。

 どんだけあるか、見にいこうか」

 と部隊内で話になったので、

 下関まで5~6人で1時間ぐらい歩いて見に行った。

 実際見たときは、それほど浮いていなかった。・・・・

 

「山川裕美」 1916年8月生まれ 

   16師団の輜重兵第16連隊   

   1999年4月取材

◎入城したら死体を目撃    

 初めて南京に入った時、

 松井大将が入る門から入ったな。

 駐屯した所は城外の民家なので、

 歩いて城内に入ったな。

 その時、外側の道の両側に

 死体がずっと並べていたのが見えた。

 入城式の1~2日前やったかな、

 男ばかり7人捕まえたんや。

 班長は「どないなとせい」言うて、

 わしら分隊の者は、

 支那人を突き殺したろかと、

 銃剣を胸元に突きつけたんや。

 弾をあまり使うなと言われてたからな、

 銃を撃つと難儀やさかい、

 突き殺そうと言って、

 そいつらみんな後ろを向かせたんや、

 けど「1発の弾で何人殺せるやろ」

 と言うた者がおってな。

 それで、7人を全部同じ方向に向かせて、

 腹の辺りを銃でうったんや。

 7人全部貫通したわ

 みんな倒れたで。小銃の威力はすごいもんや。  

◎下関で死体処理    

 入城式の後すぐ、下関に行ったら、

 クリ-クの際にたくさんの死体があったのを見た。

 大勢の兵隊が、

 揚子江に死体を流しているのを見たわ。

 38連隊の部隊が作業していたな。

 そこにわしの友人がいたので38連隊と分かったんや。

 手とか足とかを括ってずるずる引っ張ってな、

 揚子江に放り込んでいたな。

 その引っ張って投げる作業は

 支那人の苦力でのうて、

 日本の兵隊が引っ張っていたんや。・・・・

 皆死んでいた。

 死体が膨らんで臭かったな。

 死体がそこらじゅういっぱいあった。

 死体の中に子どもや女性が

 いるかどうかは注意したことがないね。

 臭いから早くそこを通らならんし、・・・・

 南京の太平門の入り口にもいっぱいあったな。

 太平門の所から引っ張って

 壕の中に放り込んでいた。

 だいぶ深かったと思う。

 死体が逆とんぼになっているように

 どこが頭か手足か分からないぐら

 いいっぱいあったな。・・・・

 隠れていた女の子を引っ張り出して、

 日本軍が好き勝手にやるのを見て、

 手榴弾でも放り込もうと思ったこともあったな。

 将校は休憩に入ったらまず

 ク-ニャン探しに行ったな。

 支那に行ったら、墓があって

 あそこに寝棺が置いてあってな

 兵隊は寝棺の上で強姦をよくやっていた。・・・・

 日本軍はあんまり金を使わなかった。

 ただの鶏捕まえて殺したり、

 豚捕まえて殺して料理して食べたね。

 こういう徴発はよくやったな・・・・

 

「小竹巌一」 1915年12月生まれ  

   16師団の輜重兵第16連隊 

   2000年11月取材

 南京では掃蕩で敗残兵を見た。

 制服着てるもんもおるし、

 民間服着てるもんもおる。

 民間服着てたらわからんけどなあ。

 銃でたたいてたたき殺したり、

 撃ってころしたり、

 殺さんかったら向うへ行かれへん。

 少ないときで5から6人、

 多いときは50人から100人ちかいときもある。

 どこの部隊かわからんくらい

 あっちこっちで掃蕩しとる。

 捕まえても殺してしまう。

 残しといたら今殺さないと

 後の人が殺されるからなあ。

 わしは輜重やったから

 歩兵とはちょっと違うけどな。

 歩兵が第一線やからそのすぐあとに行くんや。

 徴発のとき女を見つけたら

 兵隊によっては追いかけまわすもんもおった。

 兵隊の半分はやっとる。

 やるときは外も中もあらへん。

 路上でもどこでもやる。

 南京では一般の家の中へ

 どんどん弾をぶちこんで中を覗くと、

 家の中ですくんで隠れとる。

 草むらの中にも壁の裏にも。

 動いとるもんあったらパ-ンと撃つ。

 中国人が逃げたら撃つんや。

 オイ!と声かけてポンと撃つ、ポンコロや。

 路上には死体が重なり合ってころがっている。

 死体を踏まないと前に進んでいけんのや。

 捕虜を処理しているのをみたこともある。

 いっぱいかたまっとった。

 揚子江は死体でいっぱいやった。・・・・

 

「三上翔」 1919年6月生まれ 

   支那方面第3艦隊第11戦隊第24駆逐艦隊 

   1997年12月取材

◎南京城内で見る無残な死体の山

 12月13日

 その後、砲撃戦とかの戦闘状態は

 終っていたのですが、

 見ると上流から中国人らしい死体を

 整然と積んだ筏が、いくつも流れて来ました。

 その死体の高さは1メ-トル半か

 2メ-トルくらいもあり、

 その積み方絵に描いたようにがっちりと

 幾何学的で、あまりにも整然としていましした。

 それを怪しく思い、

 中に何か変造物があって

 何かを隠して流しているという予測の下に、

 甲板にいた全員が小銃で

 目前の目標に向って腰だめで、

 しばらく撃って撃って撃ちまくりました。

 腰だめというのは特別に目で

 照準するのではなく、

 おおよその目標が目前にある場合、

 手で支えながら腰につけたまま

 発射することをいいます。・・・・

 私たちは、そこから入って

 入城式の閲兵場所にさらに

 何百メ-トルか行って待機しました。

 そこには必ずといっていいほど、

 山のように積まれた遺体がありました。

 その人々は中国兵かあるいは

 市民化さっぱりわかりませんが、

 裸で殺されている人、

 あるいは数珠つなぎの人、

 縄で数人ずつつなぎ合わせた者を射殺、

 或は銃剣で刺した痕が、

 物々しく残っておったりしました。

 またどうしてなのか不思議に思いますが、

 積み上げられた死体の中には、

 真冬なのに裸の死体がたくさんありました。   

◎17日の入城式が終って船に戻りました。

 その翌日あたりから、

 船で見張りについていると、

 毎日毎日、朝から晩まで繰り返し

 トラックで捕虜とも中国人とも

 区別のつかないひとびとを運んで来ては

 中山埠頭から川のへ追い落とす

 それを機関銃でもって

 射殺するところを目撃しました。・・・・

 毎日のように続いていたのですが、

 たまに夜になると、

 何かうごめくような叫ぶような声が

 向う岸からわいわいと聞こえてきました。

 炎が揺れてス-ッと横に走り、

 よく見れば人間が焼き殺されているという

 状態でした。