極東国際軍事裁判 3

1948年11月に判決が下されました。

膨大な判決のうち

南京事件に関するものを書きます。

 

[判決文] 第八章 通例の戦争犯罪 

        11月11日 朗読

1937年12月の初めに、

松井の指揮する中支那派遣軍が

南京市に接近すると、

100万の住民の半分以上と、

国際安全地帯を組織するために

残留した少数のものを除いた

中立国人の全部は、この市から避難した。

中国軍は、この市を防衛するために、

約5万の兵を残して撤退した。

1937年12月12日の夜に、

日本軍が南門に殺到するに至って、

残留軍5万の大部分は、

市の北門と西門から撤退した。

中国兵のほとんど全部は、

市を撤退するか、武器と軍服を捨てて

国際安全地帯に避難したので、

1937年12月13日の朝、

日本軍が市に入ったときには、

抵抗は一切なくなっていた

日本兵は市内に群がって

さまざまな残虐行為を犯した。

目撃者の一人によると、

日本兵は市内を荒らし汚すために、

まるで野蛮人の一団のように

放たれたのであった。

目撃者達によって、

市内は捕らえられた獲物のように

日本人の手中に帰したこと、

同市は単に組織的な戦闘で

占領されただけではなかったこと、

戦いに勝った日本軍は、

その獲物に飛びかかって、

際限のない暴力を犯したことが語られた。

兵隊は個々に、または2~3人の小さい集団で、

全市内を歩きまわり、

殺人・強姦・略奪・放火を行なった。

そこには、なんの規律もなかった。

多くの兵は酔っていた。

それらしい徴発も口実もないのに、

中国人の男女子供を無差別に殺しながら、

兵は町を歩きまわり、

遂には所によって大通りや裏通りに

被害者の死体が散乱したほどであった。

他の1人の証人によると、

中国人は兎のように狩りたてられ、

動くところを見られたものは誰でも射撃された。

これらの無差別の殺人によって、

日本側が市を占領した最初の2,3日の間に、

少なくとも1万2000人の非戦闘員である

中国人男女子供が死亡した。

多くの強姦事件があった。

犠牲者なり、それを護ろうとした

家族なりが少しでも反抗すると、

その罰としてしばしば殺されてしまった。

幼い少女と老女さえも、

市内で多数に強姦された。

そして、これらの強姦に関連して、

変態的な嗜虐的な行為の事例が多数あった。

多数の婦女は、強姦されたのちに殺され、

その死体は切断された。

占領後の最初の1ケ月に、

約2万の強姦事件が市内に発生した

日本兵は、欲しいものは何でも、住民から奪った。

兵が道路で武器を持たない

一般人を呼び止め、体を調べ、

価値のあるものが何も見つからないと、

これを射殺することが目撃された。

非常に多くの住宅や商店が侵入され、掠奪された。

掠奪された物資はトラックで運び去られた。

日本兵は店舗や倉庫を掠奪した後、

これらに放火したことがたびたびあった。

最も重要な商店街である太平路が火事で焼かれ、

さらに市の商業区域が

一劃々々とあいついで焼き払われた。

なんら理由らしいものもないのに、

一般人の住宅を兵は焼き払った。

このような放火は、数日後になると、

一貫した計画に従っているように思われ、

6週間も続いた。

こうして、市内の約1/3が破壊された。

男子の一般人に対する組織立った大量の殺戮は、

中国兵が軍服を脱ぎ捨てて

住民の中に混りこんでいるという口実で、

指揮官らの許可と思われるものによって行われた。

中国の一般人は一団にまとめられ、

後ろ手に縛られて、城外へ行進させられ、機

関銃と銃剣によって、

そこで集団ごとに殺害された。

兵役年齢にあった中国人男子2万人は、

こうして死んだことがわかっている。

ドイツ政府は、その代表者(ラ-ベの事)から、

個人ではなく、全陸軍の、

すなわち日本軍そのものの暴虐と犯罪行為について

報告を受けた。

この報告の後のほうで、「日本軍」のことを

「畜生のような集団」と形容している。

城外の人々は、場内のものよりもややましであった。

南京から200中国里以内のすべての部落は、

大体おなじような状態にあった。 

       中略

南京から避難していた一般人のうちで、

5万7千人以上が追いつかれて収容された。

収容中に、かれらは飢餓と拷問に遇って、

遂には多数の者が死亡した。

生き残った者のうちの多くは、

機関銃と銃剣で殺された。

中国兵の大きな幾団かが城外で

武器を捨てて降伏した。

かれらが降伏してから72時間のうちに、

揚子江の江岸で、機関銃掃射によって、

かれらは集団的に射殺された。

このようにして、

右のような捕虜3万人以上が殺された。

こうして虐殺されたところの、

これらの捕虜について、

裁判の真似事さえ行われなかった。

後日の見積もりによれば、

日本軍が占領してから最初の6週間に、

南京とその周辺で殺害された

一般人と捕虜の総数は、

20万以上であったことが示されている。

これらの見積もりが誇張でないことは、

埋葬隊とその他の団体が埋葬した死骸が

15万5000人に及んだ事実によって証明されている。

これらの団体はまた死体の大多数が

後ろ手に縛られていたことを報じている。

これらの数字は、日本軍によって、

死体を焼き棄てられたり、

揚子江に投げ込まれたり、

またはその他の方法で処分されたりした

人々を計算に入れていないのである。

日本の大使館員は、陸軍の戦闘部隊とともに、

南京へ入城した。

12月14日に、一大使館員は、

「陸軍は南京を手痛く攻撃する決心を

なし居れるが、大使館員は

其の行動を緩和せしめんとしつつあり」と

南京国際安全地帯委員会に通告した。

大使館員はまた委員に対して、

同市を占領した当時、

市内の秩序を維持するために、

陸軍の指揮官によって配置された憲兵の数は、

17名にすぎなかったことを知らせた。

軍当局への抗議が少しも効果のないことが

わかったときに、

これらの大使館員は外国の宣教師たちに対して、

宣教師たちの方で日本内地に

実情を知れわたらせるように試み、

それによって、

日本政府が世論によって

陸軍を抑制しないわけには行かなくなる

ようにしてはどうかといった。     

後略     

 

[判決 第十章]  

第十章 松井石根 昭和23年11月12日 朗読

    中支那方面軍松井石根と

    外務大臣広田弘毅が

    南京事件として死刑の判決を受けました。

    (要点のみ箇条書きに整理しました)

● 南京事件を実行した者と

 共同謀議であったかどうかについては

 裁判所は認定しない

● 南京が落ちる前に、中国軍は撤退し、

 占領されたのは無抵抗の都市であった。

 それに続いて起こったのは、無力の市民に対して、

 日本の陸軍が犯した最も恐ろしい

 残虐行為の長期にわたる連続であった。

 日本軍人によって大量の虐殺・

 個人に対する殺害・強姦・掠奪

 及び放火が行われた。

● 残虐行為が広く行われたことは、

 日本人証人によって否定されたが、

 いろいろな国籍の、また疑いのない、  

 信憑性のある中立的証人の反対の証言は、

 圧倒的に有力である。

● この犯罪の修羅の騒ぎは、

 1937年12月13日に、こ

 の都市が占領されたときに始まり、  

 1938年2月お初めまでやまなかった。  

 この6~7週間の期間において、

 何千という婦人が強姦され、

 10万人以上の人々が殺害され、  

 無数の財産が盗まれたり、焼かれたりした。

● この恐ろしい出来事が最高潮にあったとき、

 すなわち12月17日に、

 松井は同市に入城し、  

 5日ないし7日の間滞在した。  

 自分自身の観察と幕僚の報告とによって、

 かれはどのようなことが起っていたか

 知っていたはずである。

● 本裁判所は、何が起こっていたかを

 松井が知っていたという

 充分な証拠があると認める。  

 これらの恐ろしい出来事を緩和するために、

 かれは何もしなかったし、  

 何かしたとしても、

 効果のあることを何もしなかった。

● 同市の占領の前に、

 かれは自分の軍隊に対して、

 行動を厳正にせよという命令を確かに出し、  

 その後さらに同じ趣旨の命令を出した。  

 現在わかっているように、

 またかれが知っていたはずであるように、  

 これらの命令はなんの効果もなかった。

● これらの出来事に対して

 責任を有する軍隊を、かれは指揮していた。  

 これらの出来事をかれは知っていた。  

 かれは自分の軍隊を統制し、

 南京の不幸な市民を保護することに

 義務を持っていたとともに、  

 その権限も持っていた。  

 この義務の履行を怠ったことについて、

 かれは犯罪的責任があると認めなければならない。

 

判決文が言い渡された日の翌12日と13日に

判決文の要旨が新聞に発表されましたが、

その時の新聞記事です。

 

● 朝日新聞 11月12日      

 占領後の約一ヶ月の間に

 約二万の強姦事件が発生し、

 男子に対する大量殺人は、

 中国兵が軍服を脱ぎ捨てて住民の中に

 混りこんでいるという口実で行われ、

 兵役年令にあった中国人男子二万人が

 こうして死んだほか

 捕虜3万人以上が殺された。

 後日の見積もりによれば、

 日本軍が占領してから最初の六週間に

 南京とその周辺で殺害された

 一般人と捕虜の総数は20万以上であった。

 武藤は、南京進撃の期間中松井とともにおり、

 この市の入城式と占領に参加した。

 世界で巻き起こされた世論の圧迫の結果として、

 日本政府は松井とその部下の将校

 約80名を召還したが、

 かれらは遂に処罰されなかった。

 

● 朝日新聞 13日から 

 松井石根大将の判決「南京の残虐行為/この1因で絞首刑」      

 中支那方面軍を率いて、

 かれは1937年12月13日に南京市を攻略した。

 修羅の騒ぎは、1937年12月13日に、

 この都市が占領されたときに始まり、

 1938年2月の初めまでやまなかった。

 この6,7週間の期間において、

 何千人という婦人が強姦され、

 10万以上の人々が殺害され、

 無数の財産が盗まれたり、焼かれたりした。

 これらの恐ろしい出来事が

 最高潮にあったときに、

 すなわち12月17日に、

 松井は同市に入城し、

 5日または7日の間滞在した。

   (中略)

 本裁判所は、何がおこっていたかを

 松井は知っていたという

 十分な証拠があると認める。

 これらの恐ろしい出来事を緩和するために

 効果のあることは何もしなかった。

 かれは自分の軍隊を統制し、

 南京の不幸な市民を保護する

 義務をもっていたとともに、

 その権限をもっていた。

 この義務の遂行を怠ったことについて、

 かれは犯罪的責任があると認めねばならぬ。