原子力政策の始まりから

政策のスタ-ト
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最終更新日:2014/05/11 11:46

原子力発電の政策がスタ-トしたのは1954年3月3日の第19回国会で予算案が提出されてからです。

当時改進党の代議士だった中曽根康弘氏と正力松太郎氏が中心になって作った予算案です。

3月4日に衆議院を通過4月3日に参議院で自然成立しました。

予算案は2億3500万円です。ウラン-235の意味の数字でしょう。(多分)

これが日本の原子力発電のスタ-トです。

当時は学術会議でも早急に原子力研究をする事には批判的な意見が多く、

産業界でも直ぐに利益に結びつくかどうか懐疑的でした。

その状態の中で中曽根氏が強引に国策としてスタ-トさせたのです。

懐疑的な科学者達に対して中曽根氏は「あんたたち学者が昼寝をしているから、

札束でほっぺたをひっぱたいてやるんだ」と言ったといわれています。

* 学術会議の原子力問題を話し合う委員会委員長 藤岡由夫(東京教育大学教授)

まことに寝耳に水のこと・・・・そのままにしておく事は出来ないと考えました

* 三宅泰雄「死の灰と闘う科学者」から

・・・・3月2日に突如として原子炉予算が、予算修正案の形で提出された。

これは、当時の野党の一つであった改進党からの提案だった。

この追加予算案は与野党三党(自由党、日本自由党、改進党)の共同修正案として、

たいした議論もなく3月5日に衆議院を通った。

その内容は、2億3500万円が原子炉をつくる費用、ウラン資源の調査費が1500万円、

チタン、ゲルマニウムなどの資源や利用開発のための費用が3000万円、

図書資料費が2000万円、合計3億円であった。

この予算案は参議院におくられ、自然成立の形で第19国会を通過した。

* 中曽根康弘 日本原子力産業会議「原子力開発10年史」 1965年

学術会議においては、(原子力の)研究開発にむしろ否定的な形勢が強かったようであった。

私は、その状況をよく調べて、もはやこの段階に至ったならば、

政治の力によって突破する以外に、日本の原子力問題を解決する方法はないと直感した。・・・・

国家の方向を決めるのは、政治家の責任である。・・・・

1956年1月1日、総理府原子力委員会が発足しました。

初代委員長には読売グル-プの正力松太郎が就任しました。

1月5日には第一回原子力委員会を開き翌日マスコミに発表をしました。

* 会見内容

1. 10年以内に原子力発電を行なうという計画では遅すぎるので、

    5年以内に採算の取れる原子力発電所を建設したい。

2. そのためには単なる研究炉ではなく、動力炉の施設、技術等一切を導入するために、

  アメリカと動力協定締結する必要がある。

3. これは昨日の第一回原子力委員会のほぼ一致した意見である。

 

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