まず紀念写真帖をペ-ジごとに
何回かに分けて掲載します。
古いため製本の糸が解けた為、
最後の個人写真は順序が狂っているかもしれません。
◎写真帖のサイズは巾31センチ×高さ21センチ×厚み2.5センチ
◎古いため製本はボロボロになっています。
 
↓◎表紙
下の部分のカタカナ「セト」「トカ」は右から読んで
「街道部隊」「東部72部隊」「東京」「世田谷」上海派遣軍直轄上海派遣軍直轄上海派遣軍直轄上海派遣軍直轄上海派遣軍直轄上海派遣軍直轄上海派遣軍直轄上海派遣軍直轄上海派遣軍直轄上海派遣軍直轄上海派遣軍直轄上海派遣軍直轄上海派遣軍直轄上海派遣軍直轄上海派遣軍直轄上海派遣軍直轄上海派遣軍直轄上海派遣軍直轄上海派遣軍直轄上海派遣軍直轄上海派遣軍直轄上海派遣軍直轄上海派遣軍直轄上海派遣軍直轄上海派遣軍直轄上海派遣軍直轄だと思われます。

 次からは1ペ-ジごと全ペ-ジ掲載します
 
 ↓◎朝鮮の日本皇族から

 
 ↓◎朝香宮鳩彦王上海派遣軍司令官
  (昭和天皇の叔父にあたる)から      
  野戦銃砲兵第15連隊に対する感謝状
 
↓◎軍司令官朝香宮鳩彦王
 
 ↓◎上海、中支那派遣軍司令官
 
 ↓◎初代街道連隊長以下歴代連隊長
  メモに残された解説
  初代連隊長  街道部隊長
  2代目連隊長  澄田部隊長
  3代目連隊長  堀川部隊長
  4代目連隊長  湯野川部隊長

 
 ↓◎各大隊長
 メモに残された解説
  第1大隊長 菅野部隊長
 編成第1日め、本日皆の命を貰ったと大隊長、
 夜半大河のように我砲も乗り越え、
 南京城外の敵退路に当り、
 溝に伏せ我々に踏みつけられても声を発せず
  第2大隊長 白井部隊長
   隊長はここに居るぞと拳銃片手に飛び廻っていた。
   工科学校で本部付だった
  第3大隊長 佐々木部隊長
  第4大隊長 土橋部隊長

 
↓◎戦病没者
 ご遺族の方でこのアルバムを
 持っていらっしゃらない方がいるかと思います。   
 偶然にもこのホ-ムペ-ジを
 見ていただければと思います。

 
↓◎戦病没者

 
↓◎戦病没者

 
 ↓◎戦病没者
 
↓◎ここからは通常の記念写真が続きます。

 
↓◎右下の写真に、アルバム所持者
  「永井仁左右」が矢印で示されています。
  本人が付けた矢印です。
  メモには「揚子江大堤 武昌上流10K」と書かれています。

 
 

 
 ↓◎ここからは昭和12年9月20日~10月11日までの写真です。
  地図で行軍経路が示されています。

 

 
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↓◎ここからが問題の南京戦に入ります。
 問題の写真がいくつか含まれます。
 この時点ではまだ南京での虐殺については
 問題になっていませんでしたので、
 堂々とアルバムに掲載したものと思われます。

 

 
 

 

 

 

 
 ↓◎左下の写真
「昭和12年12月14日、仙鶴門鎮北方にて
投降せる約八千の敵」とあります。  
多くの証言と一致します。  
この捕虜はこの連隊が捕虜にして、
歩兵部隊に引き渡したものです。  
その後全員が殺害されています。

 
 ↓◎右下の写真
「仙鶴門鎮俘虜の一部」と書かれています。
上記投降兵と同じですが、人数は書かれていません。
しかし一部ですから相当の数です。

 

 

 

 

 

 
 
 
