南京事件

大山中尉の殺害
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最終更新日:2017/03/04 10:22

8月9日上海で日本海軍陸戦隊の大山勇夫中尉が中国保安隊員に射殺されました。

●東京朝日新聞 1937年8月10日付 上海特電9日発

日本海軍特別陸戦隊午後9時45分発表

陸戦隊第1中隊長海軍中尉大山勇夫は1等水兵斉藤要蔵の運転せる自動車により

本日午後5時頃上海共同租界越界路のモニュメント路(碑坊路)通行中、

道路上にて多数の保安隊に包囲せられ、

次いで機銃、小銃等の射撃を受け、無念にも数十発の弾丸を受けて即死した。

現場を検視するに頭部腹部には蜂の巣の如くに弾痕があり、

自動車は前硝子が破壊せられ、車体は数十発の機銃弾痕あり、

無法鬼畜の如き保安隊の行為を物語っている。

 

当時の上海特別陸戦隊司令官は大川内伝七少将で大山勇夫中尉は西部派遣隊長(第1中隊長)でした。

この殺害に関して笠原十九司氏の研究論文から引用します。

●笠原論文から

「北支事変」の停戦を実現するための使命をもって船津辰一郎が

8月7日に上海に到着、和平工作を開始し始めた頃、

上海海軍特別陸戦隊司令官大川内伝七少将に秘かに呼ばれた大山勇夫中尉は、

口頭秘密命令として「お国のために死んでくれ、家族のことは面倒をみるから」と、

そして8月9日の夕刻、中国軍の飛行基地となっている虹橋飛行場へ強行突入して、

射殺されるよう告げられた。

その際、こちらから攻撃したと見られないように、

つまり一方的に、不法に殺害されたと見なされるように、拳銃は携帯するな、という注意受けた。

この笠原氏の研究では大山中尉殺害は日本海軍が仕組んだ謀略ということになります。

このことを証明する状況証拠を同じ笠原論文から整理します

◎第二隊長の貴志中尉が復讐として8月15日、中国軍陣地を攻撃し戦死したが、

 貴志中尉は武功として表彰されず、単に殺害された大山中尉は軍神扱いされた

◎大山中尉と一緒に殺害された斉藤一等水兵も同じように表彰されていない

◎大山中尉は独身で妻子がいなかった。忠勇至誠の国粋主義的な軍人だった

◎大山中尉の護衛兵の手紙に大山中尉について次のように書かれている

事件前日、書類整理をして焼却していた

前日風呂に入り、襦袢と褌を着替えた

◎遺品が後日実家に送られたが、前日の8月8日のペ-ジに、「遺髪」と「母から持たされた千人針」は挟んであった

◎日記の最後のページに挟んであった絵葉書には次のように書かれたあった。(原文カナ)

           断

          自戒

1.戦場なり隙あるべからず

1.雑念を去れて期を見つめよ

1.女性事に関し気を向くる勿れ(注:付き合っていた女性がいた)

1.士魂

1.体を鍛え之を気に従わしめよ

1.任務は力なり

1.大丈夫は丹田の力のみ

1.戦斗一般の目的は敵を圧倒殲滅して遂に戦捷を得るに在り

                    9日

         (注:絶筆として前日の深夜に書かれたものと思われる)

◎当日9日の午前中隊全員を集めて最後の訓話をした。

*小隊長池田忠太郎の記録

・・・・皆は今、戦死をしても何の心残りのない者は手をあげよ・・・・

中隊長は感謝に耐えない、それでこそ立派なご奉公ができるものである・・・・

その処迄話さるるや中隊長は感極まってか暫く言葉なく目は異様に光って居たのであった。

◎通常不慮の挑発事故を警戒し、陸戦隊が配備区域以外に出動することはなかった。

            (注:重村実回想記)

◎そのため租界外に出る時は余計な刺激を相手に与えないように

 私服で拳銃を隠し持って出かける習慣だったが、

 当日に限りわざわざ陸戦隊将校とわかる軍服で、しかも拳銃を持たずに出かけた。

◎大山中尉が死亡したのは9日午後6時半頃だった。

 そしてその後の海軍の遺族に対する対応が非常に早かったため、

 大山事件が予定行動だったように思われる。

軍の対応の早さはアジア歴史資料センタ-資料からも見ます。(笠原論文より)

◎8月10日午前3時20分発電 海軍省人事局から大山中尉の実家までの電報

      「大山中尉昨9日午後6時30分頃上海ニ於テ戦死ヲ遂ゲラレシ旨公電アリタリ取リ敢ヘズ」

8月10日午後7時50分発電 海軍省人事局から大山中尉の実家までの電報

      「大山中尉9日附大尉ニ進級正七位ニ叙セラル」

8月10日午後9時55分発電 米内光政海軍大臣から大山中尉の実家までの電報

      「大山海軍大尉名誉ノ殉職ヲラレシ候痛惜ニ耐ヘズ慎ミテ弔意ヲ表す」

9日の夕方の事件であるにもかかわらず、

きちんとした調査もしないで翌日に海軍からはこれ等の対応がされているのはかえって不自然だと思われます。

やはり海軍しては予定された事件だったのかもしれません

 

そして8月9日の大山中尉殺害から5日後の14日に日本軍による爆撃が開始され、第2次上海事変に突入するのです。

 

次回は局地戦だった第2次上海事変が全面戦争に移行していく過程を書きます。

 

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