南京事件

南京への戦争拡大 1
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最終更新日:2017/04/22 12:17

日本政府や軍部首脳は早期に和平を実現し戦局を終結する考えで、

10月にはドイツの駐日大使に仲介を依頼しました。

いわゆるトラウトマン和平工作です。

しかし現地軍の暴走で和平工作は失敗し、1938年1月15日交渉は打ち切られました。

当時の陸軍省軍事課長の田中新一は政府や軍の意見の不一致を手記に残しています。

●田中手記

南京攻略に関し、陸軍省首脳部は慎重論

軍務課長柴山謙四郎大佐のごときは南京攻略は地形上不可能の理由をもって

南京作戦阻止を大臣・次官に意見具申す。

参謀本部作戦課は積極的なり・・・・

軍中央の方針として拡大を防ぐため中支那方面軍の任務は上海付近の敵の掃討とし、

拡大しないように進出制令線(作戦範囲)が決められました。

●参謀総長指示

中支那方面軍の作戦地域は概ね蘇州、嘉興を連する線以東とする(原文カナ)

しかし現地軍は中央の指示を守らずに進撃し戦線を拡大していきました。

●11月9~13日 中国軍の退却が始まる

退却した中国軍を追撃して日本軍は制令線を無視して戦争は拡大していきました。

現地の第10軍は11日15日に独断で南京に追撃する事を決定。

19日に各師団に追撃命令を出した事を参謀本部に報告しました。

●11月19日第10軍より発電

集団は19日朝、全力をもって南京に向ってする追撃を命令・・・・

参謀本部は第10軍の独断決定に驚き

20日に「第10軍の南京追撃は臨命第600号指示(作戦地区)の範囲を逸脱している」

直ちに中止、制令線から撤退せよと命令を出しました。

24日には今度は中支那方面軍から「事変解決を速やかならしむるため、

現在の敵の頽勢に乗じ、南京を攻略するを要す」との意見書が参謀本部に届きました。

このようにして現地の兵士に知らせないまま上海から南京へと拡大して言ったのです。

●永井仁左右 回想録 野戦重砲兵第15連隊

我々は知らなかった。

○○城頭に翩翻と日章旗を翻すまで進撃・・・との命令で、

我々は○○とは何処かと大騒ぎだった。

第一次(上海事変)のように嘉定あたりだろうなどと、想像しあった。

激戦死闘をしたので、南京と聞いたら精神的に参って仕舞ったろう。

それがずるずる南京まで進撃したのである。

 

ここで少しエピソ-ド的な話をします。

中国全土の日本軍の阿片政策の中心的な役割をはたした上海・里見機関の里見甫に関してです

(注:阿片に関しては別に書いていますのでそれを参考にして下さい)

里見の上海同文書院の後輩・佐々木健児氏の証言です。

●新聞通信調査会報1965年5月号「里見さんのあれこれ」から

・・・・軍は昭和12年秋の大場鎮の戦闘で、日本軍の損害が大きく、攻めあぐんだすえ、

里見に対策を求めた。

里見はつてを求めてフランス疎開で敵将と極秘裏に会見。

折衝の結果、支那軍総退却の合意を取り付けたが、

約束が実行されるかどうかに一抹の不安を持った軍当局は、

その代償金の金額前渡しを、ニセ札で行おうと主張したが、

里見は烈火の如く怒り、「日本の武士道いずくにありや」と責め、真札を贈って信義を守った。

敵将も里見との約束を守って、打合わせ通りの日時に合図の号砲を発射し、

これに応じて開始された日本軍の総攻撃と同時に、敵は全線にわたる総撤退にうつり、

前日まで寸土も許さなかった大場鎮の堅塁は、たいした犠牲もなく陥落した。

もしこのことが事実なら、事変の拡大を防ぎ上海だけで収めようとしたことになります。

しかしながら現地軍は軍首脳や里見の考えを無視して中国軍の撤退に乗じて南京に進撃してしまったことになります。

 

11月13日から国際連盟総会の勧告を受けて、

米国と英国が提案国となりベルギ-のブリュッセルで9ケ国会議が開かれました。

通称ブリュッセル会議です。

会議では日本を非難する宣言を採択したものの、日本が最も恐れていた対日経済封鎖は回避されました。

それに安心して勢いづいた日本は、陸海軍を含めた戦争の最高指導機関として大本営を設置することになります。

11月20日 大本営が宮中に設置される(日露戦争以来32年ぶりのこと)

注:大本営 陸海軍の最高司令官である天皇の総司令部で、

      戦時に設ける最高統帥機関

      通常は事変の場合大本営は設けないが、軍令を改正した。

●東京日日新聞 昭和12年11月20日 号外

事変対応の大本営けふ宮中に設置さる

長期作戦の決意宣揚

陸海軍発表-本11月20日大本営を宮中に設置せられたり

 

南京に戦争が拡大していく中で徐々に日本軍による不祥事が陸軍中央でも問題になってきました。

●陸軍省軍務局軍事課長 田中新一大佐 「軍規粛清問題」 田中新一支那事変記録から

軍規頽廃の根元は、召集兵にある。

高年次召集者にある。

召集の憲兵下士官などに唾棄するべき知能犯的軍規破壊行為がある。

現地依存の給養上の措置が誤って軍規破壊の第一歩ともなる。

すなわち地方民(注:軍隊用語で民間人のこと)からの物資購買が徴発化し、

暴行に転化するごときがそれである・・・・

補給の停滞から第一線を飢餓欠乏陥らしめることも軍規破壊のもととなる。

軍規頽廃問題を抱えたまま日本軍は南京へと追撃しました。

上海から南京までは約300キロメ-トル、東京から豊橋くらいの距離です。

11月24日、大本営は仕方なく制令線の撤廃を指示しました。

同25日、方面軍は体制を整えるために、無錫、湖州の線で爾後の作戦を準備せよと命じました。

しかし第一線部隊はこの命令も無視したのです。

●戦史叢書

・・・南京攻略の決意も制令線の突破も、

常に第10軍が独断の名のもとに先駆けをし、

方面軍がこれに追従し、中央が追認する形をとって進行した・・・・

ここまで現地の日本軍が暴走すると、しぶしぶ参謀本部も追従し、

11月28日、多田参謀本部次長は遂に拡大に同意する事になりました。

そのためには日本から輸送などの後方部隊の増員が必要で、

その完了まで現地軍の行動を抑える必要がありましたが、

武藤参謀副長は強気の発言をしています。

輸送などの後方部隊が不完全なまま南京へ進撃開始をした事も、

虐殺・強姦・略奪が増えた一因でもあるでしょう。

●軍務局長武藤章回想録  (当時は参謀副長)

内地から新たに動員する部隊の集結を待って作戦を発起していたら、戦機をを逸してしまう

今すぐ南京攻略の大命を出してもらえれば、方面軍としては自前の兵力で何とか南京は攻略できる

時機を失して追撃の手を緩めると、敵に立ち直る機会を与えることになる。

そうすると南京攻略はむずかしくなる。

幸い傷手を蒙った上海派遣軍もおおむね元気をとりもどしつつあるし、

新鋭の第10軍は破竹の進撃を目下抑えているところだ。

 

 

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