南京事件

国民政府軍の徹底抗戦と撤退
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最終更新日:2017/05/27 10:19

話は少し戻りますが、

国民政府軍事委員会(委員長蒋介石)は11月15日から最高国防会議を開き、

11月20日首都を南京から重慶に移転することに決定しました。

既に上海防衛戦から3ケ月の間に、総兵力の1/3の約70万の兵力を注ぎ込んだのですが、

25万人以上が死亡したと言われるほどの惨敗だったため会議が紛糾しました。

首都を重慶に移すことには異論はなくても、

長期戦に備えてまず自主的に撤退するという意見と、ギリギリまで徹底抗戦する意見との対立です。

トラウトマン和平工作に期待をしていた蒋介石は、まずは海外に向けて徹底抗戦の意志を示そうとしました。

最終的に徹底抗戦をすることになり、唐生智が南京防衛軍の最高指揮官になりました。

12月の初めには防衛軍は15万人位になっていました。

12月7日蒋介石は後を唐生智に任せて南京から脱出しました。

 

8日の日本軍による投降勧告文を拒否した防衛軍は徹底抗戦の戦闘に入りました。

ぎりぎりの11日になって蒋介石はやっと防衛軍の撤退命令を出しました

しかし現地司令官唐生智の撤退決定は遅れ、混乱の中で徹底は混乱しました。

さらにドイツ人ラ-ベを間に立てた3日間の停戦交渉も失敗し防衛軍は大混乱に陥りました。

逃げる兵士と、徹底抗戦する兵士・・・同じ中国兵同士が殺しあう事態も起きました。

アメリカ人記者がこの時の様子を報道しています。

●シカゴ・デイリ-・ニュ-ス 1938年2月3日 アメリカ人記者 A・T・スティ-ル

数人の青年将校(中国軍)が、退却する大群の進路に立ちはだかって、食い止めようとしていた。

激しい言葉が交わされ、ピストルが鳴った。

兵士たちはいやいや向きを変え、前線に向ってのろのろと戻りはじめた。

だが盛り返したのは束の間であった。

30分以内に中国軍の士気は瓦解し、全軍が潰走することになった。

もはや、彼らを押しとどめるすべもなかった。

何万という兵士が下関門に向って群れをなして街路を通り抜けていった。・・・・

午後4時半頃、崩壊がやってきた。

はじめは比較的秩序だった退却であったものが、日暮時には潰走と化した。

逃走する軍隊は、日本軍が急迫撃をしていると考え、余計な装備を投げ出した。

まもなく街路には捨てられた背嚢、弾薬ベルト、手榴弾や軍服が散乱した。

唐生智は機密書類や官邸に火をつけて脱出し、

10数万の中国兵と住民は日本軍の包囲と攻撃の中で南京に残されてしまったのです。

 

 

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