南京事件

安全区の場所と避難
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最終更新日:2018/07/21 10:41

前の方でも南京行政区の概略図を載せました。

その中心より少し上の斜線の部分が南京の拡大図です。

 

今回を地図を2つ掲載します。

最初の地図のギザギザな太線が南京城壁、その内側が南京城内です。

もう一つの地図の中心あたり、太い線で囲まれた変形の6角形をした地域、ここが国際安全区(難民区)です。

難民区の広さは南京城内の約1/8位、面積8.6平方キロメ-トルで、東京の台東区より少さい面積です。

●安全区に避難した人の人数     

南京城区の市民、近郊から避難してきた難民、武器や軍服をを捨てた兵士、

日本軍による強姦から逃れた女性・・・・

委員長のラ-ベによれば、最大で25万人が避難してきたと言われます。

注:南京事件を否定する人は、よくこのラ-ベの発言を間違って引用します。

    「25万人しかいない南京で30万人殺せるわけがない・・・・」と主張します。

    しかしラ-ベは安全区に避難した人の人数を言っているので、

    南京の人口を言っているわけではありません。

日本軍が南京の外周陣地に突入し、城内が危険になってきた12月8日、

安全区委員会は正式に成立と非武装化をを宣言し、市民にビラを配布して避難を呼びかけました。

ビラは「南京安全区国際委員会」の項目に書いてある市民への呼びかけ文「南京市民に告げる書」です。

その内容を信じた多くの市民が難民区に避難しました。

そして約束を無視した日本軍から被害を受けたのです。 

   

 

 

中国の南京防衛軍でも市民に避難することを呼びかけました。

●F・ティルマン・ダ-ティン記者 ニュ-ヨ-ク・タイムス特電 12月8日、水曜日、南京発、     

南京防衛軍の司令官唐生智は、市が戦闘地域に入ったと宣言し、

すべての非戦闘員は国際管理下の安全区に集結しなければならない、と布告した。

市内他地区での非戦闘員の移動は、黄色の腕章に特別の印で示される特別許可所有者を除いて、禁じられる。

中国としては、日本軍が侵攻してきたときに遮蔽物になりそうな建物があると困るので、

南京城壁の周囲1~2キロの建物を全て自ら焼き払いました。

これは「清野作戦」と呼ばれました。

よく「南京での放火は中国軍がしたことで、中国は日本軍のせいにしている」と言う人がいますが、

中国軍がしたのは清野作戦で、日本軍がした放火とは別のことです。

しかしながらこの南京を守るための清野作戦で多くの農民が家を失ったのは事実で、

この人たちが難民となり難民区に避難しました。

また侵攻してくる日本軍に追われて家を失った人も難民区に入りました。

●同上 ダ-ティン記者の特電から     

中国軍による防衛線内(注:南京城の外側)の焼却が続けられていた。

中山陵園の中国高官の宏壮な邸宅も昨夕燃やされたところに含まれる。

南京は深い煙の層によって囲まれた。

昨日、中国軍が半径10マイル以内の町の建物や障害物を焼き払い続けたからだ。

本記者は車で前線に行く途中、中山門外、中山陵東南の谷全体が燃えているの見た。

中山陵南の主要公路上の孝陵衛の村は、一面煙る廃墟と化し、

事前に避難しなかった住民は、その僅かばかりの哀れな持ち物を背に南京に向かって路にあふれ、

ときおり立ち止まっては、もといた家の方を悲しげに見やるのであった

●A・T・スティ-ル特派員 シカゴ・デイリ-・ニュ-ス紙外信部特電 南京 12月9日発           

シカゴ・デイリ-・ニュ-ス編集注               

以下の通信はデイリ-・ニュ-ス紙特派員によって本日送られてきたものである。

彼は、包囲攻撃下にあって治安の悪化した南京にいて

生命の危険を冒す勇気ある数人の報道人の一人であり・・・・

諸々の兆候からすると、中国軍は城壁の全周囲約1マイル以上にわたって、

そのもたらす代価や苦しみにもかかわらず、一帯を清野にしようとしている。

昨晩、私は西門(漢中門)外の村を訪ねた。

村人は急いで持ち物を集め、南京の「難民区」に行く用意をしていた。

村を焼き払うので夜中までに出て行くようにと、軍隊が命じたのだという。

「難民区」にはすでに蟻塚のように人々が殺到している。     

今朝、西の丘陵に立ちのぼった茸状の煙は最悪の事が起こったことを伝えた。

3日にわたってこの近郊地区の焼却が続いた・・・・  

●同上 スティ-ル特派員 外信部特電 南京12月10日発電

日本軍の城南諸門への猛攻と日本軍機の町中くまなき爆弾投下とともに、

残留住民は「安全区」なら無事と考え、ここに群れをなして殺到している。

そこではアメリカ人13人とドイツ人4人からなる国際委員会が、

さもなければ荒廃に帰するであろうこの首都の2平方マイルほどの共同公国を運営している。     

わずか1週間の期間に、主に伝道者の教師と医師からなるこの委員会は、

ほとんど他に比するものもない人道主義の偉業、

何千という無辜の人々の生命を救うであろう偉業を成し遂げた。

委員会を指揮しているのはYMCA国際委員会書記のジョ-ジ・フィッチ(オハイオ州ウ-スタ-出身)で、

金陵大学教授のルイス・スマイス(シカゴ出身)が書記に任じている。

 

13日に南京を占領した日本軍はすぐに残虐な事件を起こし始めました。

安全区国際委員会は12月14日に日本軍の司令官に要請書を出しています。

●要請書      

南京日本軍司令官殿     

昨日(13日)の午後、多数の中国兵が城北に追いつめられた時に不測の事態が展開しました。

そのうち若干名は当事務所に来て、

人道の名において命を助けてくれるようにと、われわれに嘆願しました。

委員会の代表たちは貴下の司令部を見つけようとしましたが、

漢中路の指揮官のところでさしとめられ、それ以上は行くことができませんでした。

そこで、われわれはこれらの兵士たちを全員武装解除し、彼らを安全区内の建物に収容しました。

現在、彼らの望み通りに、これらの人々を平穏な市民生活に戻してやることを

どうか許可されるようお願いします。                  

南京安全区国際委員会委員長   ジョン・H・D・ラ-ベ

 

[その他の避難所]

南京城内の国際安全区以外にも外国人の手による避難所はいくつかありました。

●棲霞山の避難所  J・G・マギ-牧師の視察報告

             (注:棲霞山は南京東北20キロにある)

棲霞山セメント工場の敷地内のキャンプには、

ギュンタ-(Gunter)博士とシンバ-グ(Sindberg)氏の管理のもとに、現在1万人の難民がいる。

難民の数は現在も増えつつあり、私がキャンプを見て回った時も、

新しい小屋が建てられているところだった。

ほとんどの小屋は稲藁で造られていたが、中にはいくらか大きな筵の小屋もあった。

キャンプには、外国人のもとに多数の指導者がいて運営していた。

難民を収容していた寺院のある僧は、

一時は2万人の難民がいたが、現在は1千人ちょっとになったと話してくれた。

明らかに寺院の難民のいくらかが、セメント工場のキャンプに移っている。

なぜなら、寺院の難民が減っているのに対して、キャンプの人数の規模が増えているからである。

 

 

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