南京事件

日本側・政府・軍中央・識者も困っていた
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最終更新日:2018/11/18 10:54

この頃になると南京における日本軍の無法ぶりが日本国内も勿論皇族にも伝わってきました。

(国民には知らされませんでしたが)政府や軍中央も困っていたようです。

まず皇室関係から書き始めます。

●三笠宮崇仁 1998年11月26日中国主席来日の宮中晩餐会で、

中国主席江沢民外遊記録から

・・・・旧陸軍軍官として南京に駐在した。

自分の目で日本軍の暴行を見た。

今に至るまで深く気がとがめている。

中国の人に謝罪したい・・・・

歴史の真相を始めから終わりまで若い世代の皇族に伝え、

日中両国民の世代を超えた友好実現のために努力しなければならない・・・・  

●三笠宮崇仁 THIS IS 読売 1994年8月号 インタビュ-に答えて     

最近の新聞などで議論されているものを見ますと、なんだか人数のことが問題になっているような気がします。

辞典には、虐殺とはむごたらしく殺すことと書いてあります。

つまり、人数は関係ありません。

私が戦地で強いショックを受けたのは、

ある青年将校から「新兵教育には、生きている捕虜を目標にして銃剣術の練習をするのがいちばんよい。

それで根性ができる」という話を聞いたときでした。

それ以来、陸軍士官学校で受けた教育とは一体何だったのかという懐疑に駆られました。     

また、南京の総司令部では、満州にいた日本の部隊の実写映画を見ました。

それには、広い野原に中国人の捕虜が,たぶん杭にくくりつけられており、

また、そこに毒ガスが放射されたり、毒ガス弾が発射されたりしていました。

ほんとうに目を覆いたくなる場面でした。

これこそ虐殺以外の何ものでもないでしょう。

しかし、日本軍が昔からこんなだったのではありません。

北京駐在の岡村寧次大将などは、その前から軍紀、軍律の乱れを心配され、

四悪(強姦、略奪、放火、殺人)厳禁ということを言われていました。

私も北京に行って直接聞いた事があります。     

日清、日露戦争の際には、小隊長まで「国際法」の冊子をポケットに入れていたと聞きました。

戦後ロシア人の捕虜が日本内地に収容されていましたし、

第1次大戦の時にはドイツ人の捕虜がたくさんん来ていました。

彼らは国際法に基づいて保護されていましたから、皆親日になったのです。       以下省略

 

●小川哲雄 三笠宮崇仁について 「日中戦争秘話」 から

注:登場する総軍若杉参謀とは三笠宮崇仁親王の事です

あれは昭和18年の春頃ではなかったか。

総軍の若杉参謀から総軍司令部尉官将校に対し、次のような命令が下された。

「支那事変が今に至るも解決せざる根本原因について思うところを述べよ」     

但し、3行30字以内とする。     

文章は長ければ楽だが、短くすればするほど難しい。

われわれ若手将校はあれこれと知恵をしぼって解答を書いた。     

数日後、総司令部大会堂に尉官将官数百名が参集した。

壇上には黒板を背にして若杉参謀が立たれ、

左右に総軍司令官、以下参謀長、将官、佐官がずらりと居並んだ。

陪席という格好である。     

若杉参謀の講評がはじまった。     

「支那事変未解決の根本理由に関する諸官の解答についてつぶさに目を通した」     

参謀はその解答の代表的なものについて一枚一枚手にとって読み上げられた。       

曰く、蒋介石の徹底した抗日教育       

曰く、ソ連の延安を通ずる支援       

曰く、英米の物的支援       

曰く、ビルマル-トの打通       

曰く、中国大陸の広大さ。

等々   

若杉参謀はその各々について、解説を加え、

事変未解決の一つの原因であるかも知れない、とされながら、     

「しかし、そのいずれにも本官は満足しない。

諸官の解答は事変未解決の原因の一つだとしても、

それは単に枝葉末節的、あるいは部分的原因にすぎない。

いずれも本官の考える根本的原因には程遠い。

諸官の解答は落第である。」

若杉参謀は机の上に積み重ねた解答の中から1通の答案を取り出し、

「但し、この解答だけは本官が期待した唯一のものである」     

「沢井中尉、前えっ」     

沢井中尉は私と軍事顧問部の同僚であり、大阪外語の出身であった。     

「読みたまえ」     

沢井中尉は自分の書いた答案を両手で目の前に掲げながら、大きな声で読み上げた。

「支那事変未解決の根本原因は、日本人が真の日本人に徹せざるにあり」     

沢井中尉が読み終わると、間髪をいれず、若杉参謀の声が語気鋭く講堂にひびいた。

「その通り。事変未解決の根本原因は日本人が真の日本人としての行動をしていないからだ。

略奪暴行を行いながら何の皇軍か。

現地の一般民衆を苦しめながら聖戦とは何事か。

大陸における日本軍官民のこのような在り方で、

いったい陛下の大御心にそっているとでも思っているのか。」

若杉参謀の前に並ぶわれわれ尉官はもとより、

左右に居ならぶ総司令官以下、将官佐官、ひとしく頭を垂れ、満堂粛として声がなかった。

若杉参謀はさらに語をついで「わが日本軍に最も必要なことは、武器でもない、弾薬でもない。

訓練でもない。これだ。」

若杉参謀はくるりと後ろを向き、黒板に大書された。       

“反省、自粛”     

「自らをかえりみ、自らをつつしみ、自らの一挙一動、

果たして大御心にもとることなきかを自らに問うことである」

          以下省略

●徳川義親 「最後の殿様-徳川義親自伝」より

               侯爵徳川家19代目の当主

・・・・日本軍に包囲された南京城の一方から、

揚子江沿いに女、子どもをまじえた市民の大群が怒涛のように逃げていく。

そのなかに多数の中国兵がまぎれこんでいる。

中国兵をそのまま逃がしたのでは、あとで戦力に影響する。

そこで、前線で機関銃をすえている兵士に長中佐は、あれを撃て、と命令した。

中国兵がまぎれこんでいるとはいえ、逃げているのは市民であるから、

さすがに兵士はちゅうちょして撃たなかった。

それで長中佐は激怒して、「人を殺すのはこうするんじゃ」と、軍刀でその兵士を袈裟がけに切り殺した。

注:部下の日本軍人を斬ったのです。

おどろいたほかの兵隊がいっせいに機関銃を発射し、大殺戮となったという。

長中佐が自慢気にこの話を藤田くんにしたので、

藤田くんは驚いて、「長、その話だけはだれにもするなよ」と厳重に口どめしたという。

●徳川義寛 1936年に天皇の侍従になった。

「侍従長の遺言」から 友人の軍医から聞いた話として     

・・・・昭和12年の南京占領の時、日本軍がひどいことをしたということは、私は当時から知っていました。

中国人捕虜を数珠つなぎにして撃ち殺すとか・・。

私の大学の友人で軍医だったのが、朝香宮さまのお供で現地へ行って見聞した話を、私は聞いていたからです。     

・・・・松井さん(注:松井石根)は中国の勤務が長く、

南京攻略後、「相手の死者も浮かばれまい」と、現地で日中両方の慰霊祭をやろうとした。

ところが、下の師団長クラスに笑われ反対されたということでした。

みな、「戦争なんだからそういうこともあっても・・・・」といった感じだったそうです。

松井さんは日露戦争も経験していたから、日本の捕虜の扱いが日露の頃は丁重だったことをよく知っていた。

しかし、南京では、上の言うことを下が聞かず、軍紀の抑えがきかなくなっていた。

それで松井さんは後に熱海に興亜観音を造った。

松井さんは立派だったと思いますね。

南京虐殺があったとか無かったとか論争があるそうですが、当時も関係者の多くは事実を知っていたんです。

陛下が知っておられたどうかはわかりませんが、

折にふれて「日露戦争の時の軍とは違う」ということはおっしゃっていました。

●法眼晋作  回顧録「外交の真髄を求めて」

                欧亜局長、外務事務次官

電信専門の官補時代にもっともショックを受けたのは、南京事件であった。

敗走する中国軍を追って南京を占領した日本軍が、筆舌を絶する乱暴を働いた事実である。

あまりに乱暴狼藉がひどいので、石射猪太郎東亜局長が陸軍軍務局長に軍紀の是正を求め、

広田外相も陸軍大臣に強く注意して自制を求めた。

軍は参謀本部2部長・本間中将を現地に送って、ようやく事態は沈静に向った。

戦後現在に至って、南京事件の事実を否定し、

これがため著書を発行したり、事実無根との訴訟を起こす者も出てきた

また、被害者の数を問題にする者もいる。

残虐行為は被害者の数が問題なのではない

私に理解できぬのは、この世界を震駭し、知らぬは日本人ばかりなりと言われた大事件を、

如何なる魂胆かは知らぬが否定し、訴訟まで起こす者のいることで

このようなことはまことに不正命なことと言わねばならぬ。

盗人猛々しいくらいの形容詞では足りぬ。

歴史的事実はいかなるものであれ、事実として認めるほうが宜しい

さもなくば、日本は事実を秘匿し始めた、将来またやるかも知れぬ、と案じる外国人も出てこよう

この未曾有の事件を否定すればするほど、日本の恥の上塗りとなるくらいのことは、常識であると思う。

●児玉誉士夫 「随想・対談「われ かく戦えり」より 1949年、1973年再版

注:戦後右翼の大物と言われた。直接南京には触れていないが。

・・・・自分は日本を発つ前に外務省情報部長河相達夫氏を訪ねて、

外地を旅するに必要な援助と注意を受けたが、

その時河相が数枚の写真を見せて「これが天皇の軍隊がすることだろうか」と言って憤慨していたが、

それは現地にある日本軍が中国の婦女に暴行を加えている、みるに堪えぬ写真であった。

そのとき、ふと、これは中国政府が民衆に抗日思想を宣伝するためのトリックではなかろうかと疑ったが、

いろいろなできごとに直面してみると、この写真は真実であることを肯定せざるを得なかった。     

当時、大同では「大同に処女なし」といいう言葉があったが、

この言葉の意味は日本軍の恥辱を意味するものであった。

また占領地の寺や廟に行ってみても仏像の首などが無残にとり毀され、

その壁には「何年何月何部隊占領」などと落書きしてあった。

人間が神や聖人でないかぎり、どこの軍隊でも若干の非行はあるとしても、

当時、日増しに激化してきた中国の抗日思想の源が満州事変のみではなく、

こうした日本軍の常識はずれの行為がさらにそれに拍車をかける結果になったのだと思う。

●当時の外務大臣広田弘毅の自伝から 日高信六郎の証言     

しかし、何と言っても残虐事件の最大の原因の一つは、上層部の命令が徹底しなかったことであろう。

たとえば捕虜の処遇については、高級参謀は松井さん同様心胆を砕いていたが、

実際には、入城直後でもあり、恐怖心も手伝って無闇に殺してしまったらしい。

揚子江岸に捕虜たちの死骸が数珠つなぎになって累々と打ち捨てられているさまは、

いいようもないほど不愉快であった。

しかし心がけのいい軍人も少なくなかったし、憲兵もよくやっていたが、

入城式の前日憲兵隊長から聞いたところでは、

憲兵隊員は14名に過ぎず、数日中に40名の補助憲兵が得られるという次第であったから、

兵の取締まりに手が廻らなかったのは当然だった。

そして一度残虐な行為が始まると自然残虐なことに慣れ、また一種の嗜虐的心理になるらしい。

戦争がすんでホッとしたときに、食料はないし、燃料もない。

みんなが勝手に徴発を始める。

床をはがして燃やす前に、床そのものに火をつける。

荷物を市民に運ばせて、用が済むと、「ご苦労さん」という代わりに射ち殺してしまう。

不感症になっていて、たいして驚かないという有様であった。  

●「亜細亜の烽火」 エドガ-・スノ-の書籍の翻訳 

1943年9月大東亜省総務局出版     

・・・・南京虐殺の血なまぐさい物語は、今や世界に可也り聞こえている・・・・

日本軍は南京のみで4万2千人を虐殺・・・・  

●小川愛次郎   南満州鉄道上海事務所勤務 

1938年7月27日「時局の動向と収拾策」(原文カナ)     

虐殺放火が盛んに行なわれた。

南京陥落直後だけでも市民中の男子狩り出されて機関銃の掃射を蒙ったもの万をもって数ふべく。

市街の火災の多くは占領後日本兵の放火である。

これらは・・・・殆ど悪戯的に行なわれて居る。

全く軍紀の荒廃から来て居る  

●中村豊一 在香港総領事 「時局解決に関する一考察」(原文カナ)

彼らは(注:中国人の事)日本軍の進出に依りて国民党の暴政、

軍隊の横暴より免れ得べしと期待し居りたるものもあるべし、

然るに今次の日本軍隊の進出に当たりて意外にもその暴行ぶりは支那民衆の憤激を買い、

彼等の日本軍に対する信頼の大なりしだけにその失望もまた頗る大なるものあり。

これ等は内地及び現地に於いては事実隠蔽せられ居るも

外国通信員及び南支に於ける出版物に於いては忌憚なく発表せられ居り。

内地に於いては想像も及ばざるところなり

  ●外務省東亜局長 石射猪太郎の日記から     

13年1月6日 

上海から来信、南京における我が軍の暴状を詳報し来る。

掠奪、強姦、目もあてられぬ惨状とある。

ああこれが皇軍か。日本国民民心の頽廃の発露であろう。大きな社会問題だ。

●元教育総監真崎甚三郎大将 日記       

13年1月28日 

軍紀風紀頽廃し、これを建て直さざれば真面目の戦闘に耐えずということに帰着せり。

強盗、強姦、掠奪、聞くに忍びざるものありたり

●畑俊六教育総監 日記       

13年1月29日 

支那派遣軍も作戦一段落とともに、

軍紀風紀ようやく頽廃、掠奪、強姦類のまことに忌まわしき行為も少からざる様なれば、

この際召集予後備役者を内地に帰らしめ、

また上海方面にある松井大将も現役者にもって代わらしめ、

また軍司令官、師団長などの招集者も逐次現役者をもって交代せしむるの必要あり。

この意見を大臣に進言いたしおきたる

●田中新一陸軍省軍事課長の記録「支那事変記録 其の四」       

38年1月12日、

陸軍省局長会報 阿南惟幾陸軍省人事課長の報告

軍紀風紀の現状は皇軍の一大汚点なり。強姦、掠奪たえず、

現に厳重に取締りに努力しあるも部下の掌握不十分、

未教育補充兵等に問題なおたえず

●上記田中新一 阿南報告に答えて            

陸軍内部おける多年の積弊が支那事変を通じて如実に露呈せられたものとみるべく、

その百幣醞醸の深刻さには改めて驚かされる次第なり    

●「支那事変より帰還する軍隊及び軍人の言論指導取締に関する件」

陸軍次官から関係陸軍部隊宛の通牒 1939年2月(原文カナ)

中国戦線から帰還した兵士が虐殺や強姦のことを自慢そうに言い立てるので、

困った軍首脳が取締まる為に出したものです。

その添付参考資料に「事変地より帰還の軍隊・軍人の状況」とあり自慢している例が書かれています。

☆○○で親子4人を捕へ、娘は女郎同様に弄んで居たが、親があまり娘を返せと言うので親は殺し、

 残る娘は部隊出発まで相変わらず弄んで、出発間際に殺してしまった。

☆ある中隊長は、「あまり問題が起らぬ様に金をやるか、又は用を済ました後は

 分からぬように殺して置く様にしろ」と暗に強姦を教えていた。

☆戦争に参加した軍人を一々調べたら、皆、殺人・強盗・強姦の犯人ばかりだろう

☆戦地で強姦位は何とも思わぬ。現行犯を憲兵に発見せられ発砲して抵抗した奴もある

☆約半年にわたる戦闘中に覚えたのは強姦と強盗位のものだ

●広瀬豊中佐の談話  「黄河・揚子江・珠江―中国勤務の思い出」宇都宮直賢 から

広瀬中佐は南京事件に際して、外国権益の侵害にたいする保障として

陸軍省が南京に派遣、駐在させた将校です。

カナダ駐在武官経験があるキャリアでした。

1938年1月30日上海派遣軍附、3月2日派遣軍の参謀になる。

・・・私が南京駐在の日本領事たちと現地ではっきりと見聞きしたところでも、

多数の婦女子が金陵大学構内で暴行され、殺害されたことは遺憾ながら事実であり、

実に目を蔽いたくなる光景だった・・・

●林部隊法務部「対住民犯ニ付テ(口演要旨)」 (原文カナ)

防衛省防衛研究所戦史研究センタ-資料室所蔵資料               

季刊戦争責任研究第86号 松野誠也論文から

この資料は「烈10353部隊」の関連する資料に綴じられています。

「烈10353部隊」は第15軍(ビルマ方面軍)の第31師団、歩兵第58連隊のことです。

通称林部隊とは第15軍のことを指しますので、第15軍の法務部の資料と思われます。

この口演要旨の発表された時期は1943年12月~1944年2月と思われます。

時期的に直接南京事件に触れている内容ではありませんが、例として話されています。

第一 概観          

掠奪及び強姦は外国に在りて古来戦場の習、戦争の常として極めて頻繁に行われ、

時としては戦争目的の一つが掠奪に在りたることあり、

又掠奪、強姦は将兵に対する論功又は報酬として欠くべからざるものと為され居たり、

これに反して我が国にては古来の国内戦に於いても対住民犯は殆ど之をみず、

住民は秋毫(しゅうごう・僅か)も犯すべからずと云うことは古来武将の信条の一つなりしなり、

之我が国武士道に基づくものなるも一面武将は各種の方法を以て防止に力めたる事実を看守するを得

外征の役たる日清、日露役も同様にして我が将兵の厳正なる態度は

戦地住民はもとより広く世の賛嘆したるところなり

シベリア事変、済南事変を経て満州事変も同様にして

特に満州事変は長期にわたり大なる兵力を動かしながら対住民犯は真に寥々たるものにして

軍の威信に暗影を投ずるが如きことなかりき、

次いで支那事変に至り我が国としては空前とも言うべき対住民犯の発生を見、

殊に事変初期南京陥落迄の間忌むべき犯行が各所に於いて頻々と行われ

軍の威信を損じたるものありたるは遺憾に堪えず、・・・・

昭和17年度南方軍全軍にては対住民犯に依り刑罰に処せられたる者330名、

内掠奪罪168名、強姦罪107名を数ふることは将来に備え深き注意を要することなり。

第二 原因          

・・・・殊に支那に於いては敵意を抱く住民に対する制裁、

又は復讐の念より犯さるること少なからず・・・・       

第三 態様          

ト.強姦は駐留中に多く作戦中又は進撃中少なきものと理解するは、必ずしも当らず、

  支那に於ける実例に依れば住民避難しあらざる地域を進攻中最も多発したり       

第四 防止対策          

二・リ、歴戦者、特に支那事変初期に於ける歴戦者には対住民犯の経験を有する者あり、

    これ等の者は誇張せる経験談等により他兵に悪影響を及ぼすところあり

 

日本政府や軍が困っていたことは外国の新聞のニュ-スからも伺えます。

●ニュ-ヨ-ク・タイムス 1937年12月19日 ハレット・アベンド

[日本軍、南京の行き過ぎを抑制]    上海発特別無線

日本陸軍上層部は、南京入城を国家の不名誉なものにした

略奪、暴行、殺戮を速やかに終息させるために、

遅ればせながら厳しい懲戒手段をとりはじめた。

たけり狂った部下が、数百人の非武装の捕虜、民間人、婦女子をでたらめに殺害するという衝撃的な不行跡が、

中支那方面軍司令官松井石根大将には一切知られないようにするために、

必死の努力がなされているものと思われる。

ところが、この狡猾な老武将は、

下級将校の中にはもみ消し工作に関与しているものがいることを、

すでにうすうす気づいている様子である。・・・・

日本の国民も、武勇と義侠の誉れ高い陸軍を長く誇りにしてきた。

が、中国の大略奪集団が町を襲う時よりひどい日本兵の振る舞いが発覚した今や、

国家の誇りは地に落ちてしまった。・・・・この衝撃的な事実を隠蔽しようとしても無駄である、

日本当局は沈痛に受け止めている。

偏見やヒステリ-に満ちた中国人の言うことには、日本兵の蛮行を告発する根拠は見いだせなくても、

忌まわしい事件の間じゅう市内に留まり、今なおそこにいて、絶え間なく続く暴行を書きとめている   

信頼のおける米・独人の日記や覚書によって、日本兵の蛮行は告発されるだろう。・・・・

日本陸軍は、いかなる外国人にも長期にわたって南京に入ってもらいたくなかったし、

今後も許可を与えないだろう。

だがすぐに内にいる外国人は外部との接触手段を見つけるであろう。・・・・

南京占領という輝かしい戦いは、日本軍の戦史に栄光の記録としてつけ加えられるのではなく、

日本国がその極悪非道を必ず後悔するような歴史の1ペ-ジを書き直す事になろう。

日本の政府機関のあらゆる部門に働く、信頼できる心ある役人達は、

起こった事を過小評価しようとはしていない。

それどころか彼らは多くの点において状況が世間一般に知られている以上に

悪くなっていることに狼狽している。・・・・  

 

 

 

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