南京事件

松岡 環氏の聞き取り調査 1
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最終更新日:2018/10/20 10:10

前項目と同様第16師団ですが、今度は同じの元兵士達からの聞き取り調査を掲載します。

小学校教員の松岡 環さんは仕事のかたわら膨大な証言記録を集めました。

他の証言と重複するところもあるかと思いますが、第16師団を中心に証言をいくつか転載します。

証言内容は3回に分けて書きます。

「福田治夫」 

1915年10月生まれ  第16師団の歩兵第9連隊第2大隊 1997年10月取材  

◎南京近くでは    

1週間ほどして南京からいくらか離れた南西方向の裕渓口に駐屯しました。・・・・

子どもとか年いったお婆さんまで、抗日排日の教育で手榴弾かくして持って、

宿舎に入ってきたのが子どもですやろ、こっちは油断しますわな。

寝ているところに放り込まれるのが再々あってね。

「子どもにしても年寄りにしても誰でも全部殺してしまえ」と連隊長の命令が出ました。

ぐるりにいる人間を見れば発砲して殺しました。

2人とか3人とかの百姓を捕まえてきて、

「そこらに兵隊はおるんかおらんのか」などの尋問をして地形を聞いて、後は殺してしまうんです。

クリ-クの縁に連れ出して、そこに座らせてました。

将校は、めったに刀で首切りなんてできへんのやから、軍刀持ってるさかいに試し切りするんです。

私ら兵隊は突き殺しました。

鉄砲の弾できるだけ使うなといわれてました。・・・・・

そのときは気がたってますわな。ということは気が狂ってるということですな。

戦争は誰もかなわんけど、行け言われたら行かなしゃあないことですわな。

侵略戦争で何もかも侵略したんですわ。

私も戦闘の直後は何くそっと突いたりできますけど。

1日か2日たつと、後で普通になってああいうことは絶対できへんのですわ。

そやから人を突いたことはなるべく思い出さんようにしていました。・・・・

でも、今でもちょっとした機会に殺した場面が思い出されます。 

                    

「町田義成」

1913年生 第16師団歩兵第33連隊第3大隊  1997年8月、99年4~5月取材

◎敵襲の報復に近くの部落の母子を射殺

・・・・韓家頭ではやられたので、部隊本部から「韓家頭の部落を攻撃する。部落に入ったら、

猫の子でもいいから生きとる者は、男でも女でも全部殺せ」と命令が出ました。・・・・

粗末な一軒の農家の中のアンペラがコソコソ動くのでめくり上げると、

40歳位の妊婦が2人の幼児を両脇にだきしめて隠れていました。

コノ-と引きずり出すと、子どもは泣き叫び母親の後ろにしがみついている。

母親はもう一人の子をクリ-クの中につっこんだ。

××伍長がこれこそ戦友の仇と、即座に銃で3人を撃ち殺してしまった。

そのときは気が立っていたというか、女子どもなのにひどいことをしました。・・・・

◎揚子江に逃げる無数の中国人を殺す

・・・・もう抗戦する力もなく銃も持たず、小さな木っ舟や筏や材木を拾って、

それに掴まって揚子江を下っていく。

5~8人乗っている小さい舟も、30人くらいの船もあってね。

船には女や子どもの姿も見られ、こちらに向かって抵抗することはありませんでしたな。

すぐ目の前の2~30メ-トル先に逃げる敗残兵を、

こちらにいる日本兵は、みんな機関銃や小銃でバリバリと一方的に撃つんや。

舟や筏には、普通の服を着た中国人が、小さくじいっとして乗れるだけ乗ってどんどん河を流れていく。

命中すると舟はひっくり返って、そこらの水は血で赤く染まっていました。

舟の上の人間は撃たれて河に飛び込み落ちるのもありますわな。

銃声に混じってすさまじいヒャ-ヒャ-という断末魔の叫び声が聞こえてな。

水の中でもがき浮き沈みする人が流れていきます。

自分の機関銃分隊は、他の中隊と共に撃ちまくった。・・・・

◎当時町田氏が故郷の婦人会に送った手紙

・・・特に12月13日午後、敗残兵が逃げる途なく、小舟に乗って揚子江を流れのままに降りる事 

その数実に5万 我が軍、機を逸せずこれを全滅 

思はず万歳を高唱致し候   

◎難民収容所から屈強な男を引出し殺す

・・・・部隊からの命令では「敵兵とわかったら容赦なく突き殺せ」と命令が出ていた。・・・

目つきの悪い奴とかちょっと足の裏を見て丈夫やったら兵隊で。

そういう不確かなことをしてひっぱりましたんでな、それにひっかかった者は運が悪いわな。・・・・

いい加減な方法でした。

オイッオイッと指で指し示し瞬時のうちに怪しそうな者を選び出してね。・・・・

それぞれの分隊は、男たちを収容所から外へ引き出してみんな突き殺しました。

殺されるかどうかは運ですな。   

◎城内で死体の片づけ 

15~6日ごろ、挹江門を入った所の大きな道路、中山北路付近の死体の片づけをしました。

先に他の部隊が沢山作業をしていてすでにほとんど片付けがすんでいました・・・・

死体を持ち上げトラックに積み込むと、他の部隊がどこかへ運びまた戻ってきました。

多分死体を河に流したんでしょうな・・・・

南京城内でも城外でも、徴発はよくやりました。

食べ物を盗りに行くんですわ。

分隊で2~3人で固まって行きました。

ついでに女の子を捕まえるんです。女の子の徴発ですな・・・・

「平山仁三郎」

1914年10月生 第16師団歩兵第33連隊第3大隊 1998年取材

・・・・南京の下関では、日本兵がいっぱいいて、2大隊も3大隊もいたわ。

揚子江を河一杯に中国人が筏や戸板につかまって流れていく。

大きいのには60人位かな、数人のもあったな。

目の前を通る度に、バリバリ撃つんや。

筏に乗っている人には黒い服を着ているのもいたから、城内から逃げていった支那兵やろ。

揚子江には日本の軍艦もいて撃っていたな。

我々が陸上からバリバリ撃つし、軍艦からは砲撃するし、2~3時間は撃ってたかな、

流れる血で揚子江は血の色やった。

南京が陥落して、すぐに掃討に入った。

13日14日と城内掃討をやった。

挹江門から入った時、死体をようけ見た。

死体が5~6尺に重なっていて、。・・・・

私らの一個分隊だけで、一日目の掃討戦で・・・・700人捕まえたな。・・・・

重砲を積んだ馬車がその上を通る。

わしら兵隊も死体をグシャっと踏んで城内へはいった、ぎょうさんやで。

すごい数や。・・・・

「古川康三」

1912年12月生まれ 第16師団歩兵第33連隊第2機関銃中隊 1998年11月取材

◎下関で捕虜を集団虐殺した    

紫金山から下りてきた中隊は南京へ集結して一応落着いて、2~3日してから、

「使役」と言う敗残兵の整理の任務を命じられました。

重機関銃を担いで行ったんです。    

下関の揚子江の端の貨物駅でね、

ずらっと並んでいた貨車の中へ中国の兵隊を貨車に詰め込んでいましたんや。

貨車の扉を開けるとあまりに人を詰め込みすぎたんですやろな、

冬の極寒の時なのに、皆暑くて息苦しくて自分の衣服を脱ぎ捨てて素っ裸になっていました。

それが記憶にありますな。

フラフラに弱った裸の兵たちを下ろして揚子江に流れていく筏に載せ、

それを重機関銃で射撃したんですわ。・・・・

至近距離で機関銃撃つんだから必ず当ります。

それで、撃った時に苦しみで河に落ちると思いますわ。

筏は誰が作ったものかわからんが、

大隊本部から私らの第2機関銃中隊に命令が来て、中隊長の命で使役に出たまででした。・・・・

使役は2~3回ありましたが、どれも貨物車から引き出した敗残兵を筏に載せ、

河に流してから自分が小隊を命令して重機関銃で撃ち殺しました。・・・・

機関銃で撃ち殺した敗残兵は、兵隊であるか民間人であるか区別はつかなかったです。

裸になっておるし、・・・・敗残兵であるか農民であるかはっきり分からなかったですな。

けど、一応はもう敗残兵という格好で処分したんでしょうな。

「吉川定国」

1915年9月生 第16師団歩兵第33連隊第1機関銃中隊 1998年4月取材

・・・・上陸のとき命令受領に行ったら「普通の男も殺せ、皆敵や」と言われていたで、

家を焼けとの命もあって、うちの中隊でも放火班があったで・・・・。

「佐藤睦郎」

1914年12月生 第16師団歩兵第33連隊第1機関銃中隊 1999年1月取材

・・・・下関の手前まで来た時は、もう鎮江やら紫金山やらから逃げてきた中国兵が右往左往していました。

中隊長の「掃蕩にかかれ!」で数人で組になってな、

歩兵も機関銃も砲兵も小銃やごんぼ剣持って大きな道を通って下関に向うんですわ。

攻め込んでいくと、大きな道路に飛び出してきた中国兵が群れになってまた逃げて行くんです。

わしら、日本兵は撃たなしゃあない。逃げるのは兵隊だけやない。

男の子もおれば女の人もおる。若い衆もおる。

そんなものお構いなしにめくらめっぽうに連続発射で流すんやから、

角度を決めて左右にス-を流すんやから。

もう前方で人間を見たら、重機をパッと組み立てて全部殺すんや。・・・・

エンジンのないような櫓でこぐような舟が揚子江をドンドン流れていくんや。

いっぱい人が乗っててね、それを撃つんですわ。中には普通の服着てる良民もいる。

それを全部ダダ-と撃った。・・・・

向う岸へ逃げ切れなくて人間の固まりとなって岸壁に集まってきていますんや。

もう何千という人の数や、そこに向けて今度は、誰彼なしに92式機関銃を撃ちこんだんです。

押しまくりました(注:押すと発射する)。

港にぎっしりと集まった大勢の人は、女も子どもも年寄りもいましたわ。

400~500メ-トル向うにいる中国人たちに射撃の角度を考えて、範囲を決めて撃ちました。

人の固まりが崩れていくんですわ。・・・・

我々はただちに小隊長から「撃て」との命令を受けたけど、

(中国人なら誰でも殺すという)命令は、師団長が出したですやろな。・・・・

その次の日、松井司令官が来るというので、こんなに殺したらあかんという規則があるのか、

たくさんの死体を今度は隠さないとあかんというようになりましたんや。

死体を埋めることになりました。

焼くということもありました。・・・・

南京陥落の次の日でしたけど、南京城内の倉庫がいっぱいある所でした。

兵隊が中国兵をいっぱい連れてきてね、倉庫に詰め込んでるんです。

中国人を殺すのに「もう弾が足りない」言うてね、

ぐるりに燃える物持ってきて積み上げて火をつけたんです。

煙が充満してきてね。中国兵が屋根を突き破って必死になってる。

それをまた、日本兵が撃ち殺すんですわ。そんなのを見ました。・・・・

「田中次郎」

1908年2月生 第16師団歩兵第33連隊第1大隊 1998年3月取材

◎田中日記より    

12月14日     

・・・・一小隊が200名位の敗残兵を捕虜にした。

彼らは南京陥落を知らずに逃げてきたものであろう。

之をいかに処置するか大島副官に聞きに行った。

「200あろうと、500あろうと適当なところへ連れて行って殺してしまえ」と言われて

駅の空貨車に詰め込んでしまった。

小隊は重機と協力して捕虜の処分を揚子江岸でやることになった。・・・・

貨車倉庫から皆引き出してしまった。

膝を没する泥土の中に河に向かって座らせた1200人、

命令一下、後ろの壕に秘んでいた重機で、一斉に掃射を浴びせた。

将棋倒し、血煙肉片、綿片、飛び上がる。

河に飛び込んだ数十名は桟橋に待っていた軽機の側射によって全滅し濁水を紅に染めて斃れてしまった。

ああ、何たる惨憺たる光景ぞ。

かかる光景が人間世界に又と見られるであろうか・・・・   

◎南京城内での掃蕩    

12月14日、揚子江岸で捕虜を1200人いっぺんに処分しました。

日記に書いているように惨い事ことでした。・・・・

遺棄された手榴弾も武器もざらに落ちていて、拾っていたんですわ。

手榴弾は信管を引き抜き、掃討する家の中に次々と手当たり次第投げ込みました。・・・・

捕虜狩りの時は人数を数える暇もなく、どんどん捕まえました。

捕虜と言っても中国服着た男ばっかりでしたよ。

掃蕩をやる時は中隊長の指揮によってです。

注意事項と言うものはなく「戦争に耐えると思えるような者は全部殺してしまえ」と

上部の命令として言われていました。・・・・

実際、男を敵兵として捕らえ、一人一人を調べることなどしませんでした。

おとなしく投降しても、中国人は全部殺してしまう

手榴弾は家の中に放り込むだけでなく、捕虜の処分にも使っていました。

城内あちらこちらで手榴弾の爆発音がしていました。・・・・

たくさん倉庫に詰め込まれた捕虜はどうなったのかわかりませんが、

最初自分たちがあんなたくさんの捕虜を全員撃ち殺したことから考えたら、捕虜は処分されたのだと思います

 

 

 

 

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