南京事件

南京アメリカ大使館通信 エスピ-報告
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最終更新日:2019/01/12 12:17

エスピ-報告とは、1938年1月6日に南京のアメリカ大使館に赴任したエスピ-副領事が

本国に送った「南京事件」に関する報告書です。

 

●1938年1月25日 南京

南京の状況   

在漢口アメリカ大使館ネルソン・T・ジョンソン宛

1937年12月13日、日本軍の南京の占領以来の状況についてのエスピ-副領事の報告を、ここに謹んで提出します。

報告内容は大使館スタッフの調査、および南京陥落以来当地に残留しているアメリカ人の記述に基づくものであります。

報告に含まれているのは、勝利に輝く日本軍の南京入城の時から市に発生した事件、市の現況に関する観察、

および、日本軍占領の影響を改善するためのアメリカ住人ならびに「南京国際委員会」の仕事の概要、

さらに、市内における人命および財産を保護する彼らの尽力に関するものです。敬具

                            ジョン・M・アリソン 三等書記官

報告書作成 1月15~24日    

郵送    1938年12月2日

Ⅰ 南京の状況  エスピ-報告 1938年1月

1月6日朝、南京大使館に到着すると、

南京陥落以来現地に残留していた中国人職員、薫、呉の両氏の出迎えを受けた。

薫氏は2ケ所の建物を案内し、我々に予備視察をさせてくれた。

建物の損傷は公文書保管室の扉が銃剣により傷を受けている以外には見当たらない。

大使館に残されたアメリカ人職員の所有物にも異常はない。    

薫氏は12月9日以来大使館に発生した事柄を説明し、彼が綴った日誌を見せてくれた。    

2ケ所に分かれている敷地には、日本人憲兵5名、中国人警察官20名が駐屯、

240名の中国人が避難したという。

中国人避難民は、大使館所属の苦力、召使その他の雇用人とその家族である。

即日、アメリカ人14名の訪問を受ける。

不愉快な事件に頭を痛めてきたものの、彼らとこのほかの外国人14名は、共に無事とのことだが、

彼らの胸中は南京に発生した事件のみに集中していた。

日本軍入城以来、南京が甘受してきた恐怖と残虐のおぞましい一連の話を我々に詳しく述べたてた。

最悪の事態は去ったものの、事件は引きも切らず、市内の状況は依然として良くなったとはいえない。

彼らの話によると、日本軍の占領により、南京には恐怖政治ともいえる統治が開始された。

彼らやドイツ人の話によると、南京市は餌食として日本軍の手に落ちたが、

組織的戦闘の経過の中で陥落したばかりではなく、

制限のない略奪、暴行を競い合っているような侵略軍の手に落ちたのだということを物語っている。

詳細の情報や我々の観察によっては、彼らの情報を否定する事実は見当たらない。

市内に留まった民間人は、いわゆる「安全区」と呼ばれる地域に殺到した多くが難民である。

男女子供の死体、略奪破壊跡、住宅やビルの焼失・破壊など、証拠はいたるころにみられる。

日本官憲に提出した南京安全区国際委員会及び大使館作成のアメリカ人財産被害報告、

及び、市内の状況に関する委員会作成の報告を付録に収めているが、

これらは南京に発生した事件の詳細を記している。

また市の取扱いに関する日本軍の行動緩和に関する委員会の要望・嘆願書も付記している。

しかし、それ自体で南京市の状況を反映要望・嘆願書をここに要約するのは、

南京の状況をくっきり浮かび上がらせるためである。

残留アメリカ人との会見の最後に、「すでに起きてしまった事は取り返しのつかない事であり、

脇に置くとしても、あなた方は日本官憲に、南京の状況に目を向けさせて欲しいということか?」と尋ねてみた。

すると彼らの返事は、「兵士を日本官憲の統制の下に置いてもらいたい。

そしてこの恐怖と残虐な行為に終止符を打って貰いたい」ということであった。

このことをもう少し明確に言うならば、次のように言えるかもしれない。

つまり、日本官憲は人道上から、兵士の無秩序な行為を止めさせ、殺害、略奪、放火を阻止し、

南京に正常な市民生活を取り戻して欲しい、と彼らは要望している、ということである。

Ⅰ 12月10日後の主な報告

南京の陥落を前にして、中国軍と市民の脱出は引きも切らなかった。

人口のおよそ4/5が市を脱出し、主要な部隊は武器・装備もろとも撤退していった。

南京の防衛は、わずかに5万の兵に任されていた。

さらに、このうちのかなりの兵士が、南京陥落後に北門、西門、および城壁を越えようとしていたり、

また退却中に日本軍と戦いながらの逃走を試みた。

中国軍は軍事上の必要から、障害物などを除去するため、城外の広い範囲に放火した

しかし、退却中の中国兵による城内での放火・破壊・略奪等はほとんどなかった

とアメリカ人らは強調した。

それゆえ、日本軍が南京に入城したとき、実際には南京は無傷のままであった。

住民の1/4は逃げ去っていたが、

残留した者の大部分は、南京安全区国際委員会が設定しようとした、いわゆる「安全区」に避難していた。

日本軍は多数の中国兵を捕捉するはずだったが、比較的少数の中国兵士しか捕捉されなかった。

市内に残った中国兵の数は把握されていないが、

軍服を脱ぎ捨て、市民の服に着替え、市民に混入した者、

ないしはどこかに潜んだものは、数千人はいたにちがいない。

日本軍はどのくらいの中国兵が逃亡したのか把握していなかったのではないか、

というのがアメリカ人の感触だった。

城内にいる中国兵の「掃蕩作戦」では、捕捉できる兵士の数は10万人はくだらない、

と日本軍はみていたようだ。

そして、中国兵を根こそぎ補足しようと市内を隈なく捜索し、

思いのほかその数が少なかったときの彼らの憤りや不信感が、

兵士だけではなく、多くの罪もない市民を巻き添えにして、テロ行為にかりたて、

長期にわたる「掃討作戦」を強行することになったのではないかと思われる。

しかしながら、ここで触れておかなければならないのは、

中国兵自身も略奪と無縁ではなかったということである。

彼らは少なくともある程度、略奪に責任を負っている。

日本軍入城前の最後の数日間には、疑いもなく彼ら自身の手によって、

市民と財産に対する侵犯が行われたのであった。

気も狂わんばかりになった中国兵が軍服を脱ぎ捨て市民の着物に着替えようとした際には、

事件も沢山起こし、市民の服欲しさに、殺人まで行った。

この時期、退却中の兵士や市民までもが、散発的な掠奪を働いたのは確かなようである。

市政府の完全な瓦解は、公共施設やサ-ビス機能をストップさせ、

国民政府及び大多数の市民の退却は、市を無法行為に委ねることになり、混乱を招いたようだ。

このため、残った市民には、日本軍による秩序の回復を期待する気持ちを起こさせることになった。

しかしながら、日本軍が南京に入城するや、秩序の回復や混乱の終息どころか、

たちまち恐怖統治が開始されることになった。

12月13日夜、14日朝には、すでに暴行が行われていた。

城内の中国兵を「掃蕩」するため、まず最初に分遣隊が派遣された。

市内の通りや建物は隈なく捜索され、

兵士であった者および兵士の嫌疑を受けた者はことごとく組織的に銃殺された。

正確な数字は不明だが、少なくとも2万人がこのようにして殺害されたものと思われる

兵士と実際そうでなかった者の識別は、これといってなされなかった。

ほんの些細なことから、兵士であったとの嫌疑をかけられた者は、

例外なく連行され、銃殺された模様だ。

中国政府軍の残兵はあまねく「掃蕩」するという日本軍の決定は、断固として変更されることはなかった。

処刑の報告の中から幾例かを次に記す。

南京電力会社の職員54名は江岸にある中華工業国外貿易協会に避難していた。

12月15日、16日の両日、日本軍がここを訪れ、職員でない者を引き出すよう要求がなされた。

そこで電力会社の元職員が54名、うち臨時職員11名であることを告げると、

日本軍は正職員43名は公務員であるから「処刑する」と言って連行した。

アメリカ人の述べるところによると、これと時を同じくして、市内の電力・電灯サ-ビスを回復させるために、

訓練を受けた電気技師・職員はどこにいるのか、と日本軍は再三国際委員会に尋ねていたそうだ。

もう一例は、12月25日頃、金陵大学構内で起きた事件である。

日本軍が市内の住民全員の登録を始めた直後だった。

25日を含む数日間、日本軍将校が大学を訪れ、大学の建物に避難していた中国人3万人余の登録開始した。

建物にいたおよそ2千人の男性が集められると、

元軍務に就いていた者は、隠しだてをせずに申し出るよう彼らに言い渡した。

そうすれば命を助ける、と繰り返し言い渡した

申し出た者は日本軍に使役することになろうが、万一兵士であったことを隠し、

あとになってそのことが発覚したときには銃殺は必定だと言われたため、

この言葉を信じたおよそ200人が、兵士であったことを白状すると、日本軍は彼らを引き立てていった。

重症を負った4~5人が後に戻ってきて言うことには、200人は一塊で連行され、

途中他の中国人を加えられて、人影のない場所数ヶ所において、日本兵の一団に刺殺ないしは銃殺されたという。

この報告者は処刑による死を免れた者であった。

     (注:このようなウソを言って騙す行為は戦時国際法違反です。)

日本軍の分遣隊による便衣兵狩りや処刑のほかに、

日本兵は2~3ないしはそれ以上に徒党を組み、市内を傍若無人に徘徊した。

これらの兵士は極悪非道な殺害、強姦、略奪をして、市を恐怖のどん底におとしいれた。

日本軍の入城以後、したい放題が兵士に許されていたのかどうか、それとも軍の統制が完全に瓦解していたのか

十分な説明はなされていない。

しかしわれわれの聞いたところによると、

日本軍指揮官より、兵士を統制下におくようよう少なくとも2回の命令が出され、

また、入城前、いかなる財産にも放火しないよう、厳命が出されていた。

それにもかかわらず、大勢の兵士が市内に群がり、筆舌に尽し難い凶行を犯したことは事実である。

外国人目撃者によると、南京を冒瀆する野蛮な盗賊同様に、日本兵は欲しいがままに振舞っていた

市内では数えきれないほど大勢の男性、女性、子供が殺害された。

理由もなく市民が銃殺、刺殺されたと聞かされている。

われわれが南京に到着した日、日本兵自身から聞いたところによると、

死体は前日までに片付けられるはずであったが、住宅の中、池、通りの脇に依然として見受けられた。

あるアメリカ人の通告によると、市の南部にある、14人の中国人が住んでいた家に、日本兵が侵入した。

彼は11人の死体を目撃し、うち女性は殺害される前に強姦されたことを聞かされたそうだ。

子供2人ともう1人だけ生き残ったという。

先日、大使館近くの池をさらったところ、市民の服装をした遺体20~30体があがった。

日本兵は土地の女性を捜しだしては、暴行を加えたことが報告されている。

このような事件に関する報告書をここに添付している。

日本軍の占領当初、こうした事件は一晩に千件からが数えられ、

あるアメリカ人が数えたところ、アメリカ人所有の建物で、一夜に30件の強姦があったことが認められた。

殺害や強姦が続く中、日本軍部隊は市内を根こそぎ荒らし回った。

住宅や建物はことごとく侵入され、物色されて日本兵に持ち出された。

国際委員会は、「安全区」内で起った事件の内、気付いたものは記録にとめていた。

委員会は定期的に日本大使館に事件を報告し、公式記録として注意を促すと同時に、事件を抗議し、

2度と再び事件の起こらないよう日本官憲が何らかの措置をとることを要求してきた。

我々が着任してからは、大使館にも報告コピ-が提出されている。

1月10日までに、188件の報告を受けており、ここにそのコピ-を添付している。

「財産の掠奪」

国際委員会ならびに個々のアメリカ人、および当大使館員による検証により、

日本軍の侵入、略奪を免れた財産はただの一つもなかったものと思われる。

それが構内、住宅、商店、ビルであろうが、

外国伝道団の物であろうが、外国人の物であろうが、中国人の物であろうが、

すべて区別なく侵入されて、多少の差はあるものの、荒らされて、略奪を受けている。

アメリカ、イギリス、ドイツ、フランス等の大使館も侵入され、品物を持ち出されている。

イタリア大使館についても同様な報告がなされている。

ソビエト大使館は元旦に不審火に見舞われた。

我々による調査、及びアメリカ人からの報告によると、

アメリカ人財産はことごとく、再三再四にわたり、日本兵の侵入を受けている。

現在アメリカ人が住んでいる住宅にさえ、日本兵の侵入がある。

これらアメリカ人住民や国際委員会のメンバ-は、この報告を書いている間にも、外国人財産に侵入し、

略奪品や婦人を漁る日本兵を追い払うことに追われている。

兵隊が運び出せる全ての物は、彼らの略奪の格好の餌食となっているようだ。

外国人住宅を特に例にあげると、車、自転車、酒などと共に、

ポケットに忍び込ませるような小さな貴重品が主に物色されている。

しかし、外国人のものであれ、中国人のものであれ、侵入者の望みの品は、ことごとく略奪された。

市内の商業地区で破壊から免れ残っている商店はすべて、

中のものをほとんど空になるほどに持ち去られている。

希望の品が手に余るほど多い場合には、トラックを持ち込み積み去った例も数例見受けられる。

店や倉庫から持ち出した荷をトラックで運んでいるのを数件目撃したという外国人住人の報告がある。

テキサス石油会社(中国支社)の倉庫係の報告によると、

日本兵は倉庫のガソリン、油類を運び出すのに、会社のトラックを使い、ようやく持ち出したということだ。

住宅の略奪を受けた程度は、構内、構外により大きなさがある。

これまで様々な財産を調査してきているが、侵入されたものの、大きな被害や、夥しい盗みなどのないところもある。

品物が2~3盗まれた程度ですんでいるところもある。

「安全区」の外には、大きな被害を受けていないところもあるが、区内はとくに被害を最小限に食い止めている。

これらのケ-スは、区外での略奪、破壊が最高に行われたことと対象をなす。

大使館員のダグラス・ジェンキンス氏の住宅の場合、(使用人が殺害されてから)住宅の中の物はことごとく荒らされ、

略奪されただけでなく、家具などを手荒く壊した形跡がある。

同様の手口としては、上海路と中山路の角にある金陵自動車修理所の例がある。

修理所の2つの扉は板で囲われ、戸板の外から鍵が掛かっていた。

板には別々にアメリカ人の所有であると記したアメリカ大使館の布告が貼られていた。

我々が到着してから修理所を調べると、1枚の板は外されて脇に転がっており、

そこにはいまだ布告書が付いたままであった。

修理所は侵入され、完全に荒らされていた。

残されたものは、古タイヤ2本、ワイヤ-のロッドとビッドが少々のほか、設備の類では空気圧縮機だけであった。

事務所の床にはファイルや書類が散乱し、机は薪にするため持ち出され、2つの金庫は上部が壊され、中は空であった。

修理所の裏にある小屋も鍵が掛かっていたが、侵入されていた。

書類やら機械の部品、設備の一部などが床から6インチも積もるほどに散乱していた。

このごたごたの中に貴重な標準型映写機が粉々に壊されてあった。

「財産への放火」

しかし、何といっても南京の財産がこうむった最悪の被害は、火災による破壊である。

この報告を書いている現在でも、市内の数ヶ所で火の手があがっている。

安全区内では、火災は発生していない。

にもかかわらず、安全区外では、市内いたるところ放火その他による火災が手当たり次第に行われた。

多くの通りではまったく火災にあっていない家々の間に、焼け落ちた住宅や建物が散見された。

ある通りでは、1~2、あるいはそれ以上の建物が焼失し壁だけが残っているのに対して、

他の建物は火災の跡が見受けられない。

火災の被害は、市の南端が最も多い。

商業地区であるこの地域を調べた結果、どの区域においても、住宅や建物はことごとく火災にあっていた。

残っている建物はすべてあわせても12に満たない。

上海の閘北地区のように、火災によりほとんど完全に破壊された所と違い、

大通りに面した建物はたいてい破壊されたものの、裏の建物は主に放火を受けなかったようだ。

当地の日本官憲によると、南京城内の火災の多くは、

退却中の中国人ないしは、便衣兵によるものであり、陥落後に発生したと弁明がなされている。

中には中国軍による火災もあるかもしれないが、

占領後の日本軍が、故意に、または不注意で引き起こした火災には比べるぶくもない、というのが妥当のようだ。

日本兵が建物に侵入して略奪をした後、放火したか、

それとも、建物内の小火が不注意から建物に燃え付いたものか、

あるいは近くの火災から延焼したかのいずれかと思われる。

家事を起こした建物の消火に努めた形跡はまったく見当たらない。

火災による南京市の破壊が最悪の時期に書かれた日記を添付している。

国際委員会のメンバ-が大火の原因を追究し、署名をしている。

記録の第1章には、日本軍の入城以前に、どの程度が焼失していたかを知る限り述べ、

当時、火災による損害大したことはなかったと証言している。

第2章は、12月20日夜の状況を述べたもので、

このとき沢山の建物が火災にあい、現場近くで火事見物をする日本人や、

店から洗いざらい品物を持ち出し、トラックで持ち逃げする日本兵、

また別な建物では、「床の上で焚き火をする」日本兵が目撃されている。

「いわゆる安全区で発生した事件」

国際委員会の働きについては、この報告のあとのくだりでさらに述べているが、

このいわゆる「安全区」は、一般に南京の他の地域と比べると、はるかに公正に取り扱われた。

略奪兵の被害を受けなかったというわけではないが、

市内の他の地域で引き起こされた損害や恐怖の比率ほどの被害はなかった。

ここでも無数の強姦、殺害事件が起き、構内はすべて侵入を受け、

多い少ないの程度差はあれ、略奪の浮き目にあっている。

しかし、南京に残留した中国民衆の大多数が、市内で一番安全な場所としてここに逃げ込んだことは、

安全区が他の場所より良い状況にあったことの証明にはなる。

ここの中国人は市内の他の地域の住人ほどの苦難にはあっておらず、

避難先の住宅やキャンプから追い払われることはなかった。

区内の住宅のほとんどが、他の地域の家屋のようにひどい荒らされ方をしなかったし、

さらには、安全区では放火は1件も発生しなかった。

 

以下省略

 

 

 

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