南京事件

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最終更新日:2019/03/16 10:39

T・スティ-ル

●1937年12月15日 南京米艦オファ-号より

◇日本軍、何千人も殺害

◇目撃者の語る、地獄の4日間

◇通りに5フィ-トも積もる死体の山

南京の包囲と攻略を最もふさわしい言葉で表現するならば、地獄の4日間ということになろう。

首都攻撃が始まってから南京を離れる外国人の第一陣として、私は米艦オファ-号に乗船したところである。

南京を離れるとき、われわれ一行が目撃したものは、

河岸近くの城壁を背にして300人の中国人の一群を整然と処刑している光景であった。

そこにはすでに膝がうずまるほど死体が積まれていた。

それはこの数日間の狂気の南京を象徴する情景であった。

南京の陥落劇は、罠にはまった中国防衛軍の筆に尽くせないパニック・混乱状態と、

その後に続いた日本軍の恐怖の支配、ということになる。

後者では何千人もの生命が犠牲となったが、多くは罪のない市民であった。

首都放棄以前の中国軍の行為も悲惨であったが、侵入軍の狼藉に比べたらおとなしいものであった。

南京にいる外国人は全員無事である。

「同情の機会を失う」

中国人との友好を主張しているにもかかわらず、

日本軍は中国民衆の同情を獲得できるまたとないチャンスを、自らの蛮行により失おうとしている。

中国軍の士気の完全な崩壊と、それに引き続いて起こった滅茶苦茶なパニックのあと、

日本軍が入城してきたときにはかすかな安堵感が南京に漂った。

中国防衛軍の行為ほどには悪くなりえないだろうという気持ちがあった。

が、その幻想はたちまち破れてしまった。

罠にはまった中国兵に憐憫の情をたれるだけで日本軍は一発も発砲せずに市内を制圧できたはずだ。

ほとんどの兵がすでに武器を捨てており、降伏したにちがいない。

しかしながら、日本軍は組織的撲滅の方法を選んだ。

「5フィートも積もる死体」

まるで羊の屠殺であった。

どれだけの部隊が捕まり殺害されたか、数を推計するのは難しいが、おそらく5千から2万の間であろう。

陸上の通路は日本軍のために断たれていたので、中国軍は下関門を通って長江に殺到した。

門はたちまち詰まってしまった。

今日この門を通ったとき、5フィ-トの厚さの死体の上をやむなく車を走らされた

注:何度も書いていますが、このホ-ムペ-ジには似た証言がいくつかあります。

この死体の上を日本軍のトラックや大砲が、すでに何百となく通り過ぎていった。

市内の通りはいたるところに市民の死体や中国軍の装備・兵服が散乱していた。

渡江船を確保できなかった多くの部隊は長江に飛び込んだが、ほとんどが溺死を免れなかった。

●1937年12月17日 紙外信部特電 南京12月14日発 遅着  

「兵士たちは服を脱ぎ捨てる」

何百という中国人が路上で軍服を脱ぎ捨て、

平民の服を着ようとしている者も、下着のまま脱げて行く者もいるのをみた。

大勢が私や他の外国人に近寄ってきて、銃と金を差し出し、見返りに保護して欲しいと懇願した。

恐怖で半狂乱になった部隊が国際委員会本部に無理やり進入しようとして拒否されると、

小銃・拳銃と機関銃を塀越しに驚いた宣教師たちの前に投げ入れていた。

宣教師たちは日本軍に引き渡すため用心深く武器をしまいこんだ。

また、以下のようなことをも目撃した。

怯えた一兵士がドイツ国旗の下で這っていた。

何百という負傷兵が一人一人の通行人に助けを求めながら道路を這い、びっこを引いて歩いて行った。

日本軍将兵が略奪品輸送に使おうと苦力やロバを徴発していた。

日本の機関銃隊が月明かりのなか街路を走行し、走る者なら誰でも、またそうでない者をも殺していった。

日本軍は虱潰しに家々を捜索していき、多数の便衣兵容疑者を捕らえていた。

これら多数の縛られた者たちが一人一人銃殺されていき、

その傍らでは同じ死刑囚がぼんやりと自分の順番を待っているのであった。

「無力な住民が突き刺される」

私は、日本軍が住民を殴ったり突き刺したりしているのを見た。

また病院では大勢の市民が銃剣創傷で苦しんでいるのを見た。

また街路という街路に死体が散乱しているのを見た。

その中には人に傷害を与えたとはとても思えない数名の老人も含まれていた。

また処刑された男たちの死体の折り重なる山も見た。・・・・      

私は北門(挹江門)でおぞましいものを見た。

そこにはかって200人ほどの人間であったはずのものが、くすぶる肉塊と骨片の集積となっていた。

城門を出て、城壁に吊り下げられた衣服や毛布で作った紐縄を見た。

城門が閉鎖されたことを知った後に大勢がそこから町を脱出したのだが、

ただより恐ろしい死の罠にはまっただけであった。

●1938年2月4日 紙外信部特別通信 南京発

西部でジャックラビット狩り(注:うさぎ狩り)を見たことがある。

それは、ハンタ-のなす警戒線が無力なウサギに向かってせばめられ、囲いに追い立てられ、

そこで殴り殺されるか、撃ち殺されるかするのだった。

南京での光景は全く同じで、そこでは人間が餌食なのだ。

逃げ場を失った人々はウサギのように無力で、戦意を失っていた。

その多くは武器を既に放棄していた。

日本軍が街路をゆっくり巡回して、走ったり疑わしい動きをするものなら誰でも、

機関銃と小銃で射殺するようになると、敗退し闘志を失った軍隊はいわゆる安全区になだれこんだ。

そこは掃討を受けていない最後の地域の一つであったが、一方、街路は地獄であった。

まだ軍服を着ている兵士はできるだけ早くそれを脱ぎ捨て、

店から盗んだり銃口を突きつけて人から引き剥がしたりした平服を見につけているのを見た。 

以下省略     

「なんらうつ手はなし」

・・・・日本軍は兵士と便衣兵を捕らえるため市内をくまなく捜索した。

何百人もが難民キャンプから引き出され、処刑された。

男たちは2~3百人ずつのグル-プで適当な処刑場に集められ、小銃と機関銃で殺された。

あるときは、捕らえられた数百人の集団を片付けるために戦車が繰り出された。

私は集団処刑を一つ目撃した。

数百人の男たち一隊が大きな日本国旗を抱えて、街路を行進してきた。

これに2~3人の日本兵が付き添い空き地に引き連れていく。

そこで彼らは少人数ずつ、残虐に銃殺された。

一人の日本兵が小銃を手に、膨れ上がる死体の山を監視しており、

少しでも動きを見せる人体があれば、弾丸を浴びせた。

日本軍にとってはこれが戦争なのかもしれないが、私には単なる殺戮のように見える。

 

レジナルト・スウィ-トランド

●1938年2月9日  紙外信部特電 2月9日 上海発      

南京占領軍の10名以上の軍人が軍紀紊乱の件で軍法会議を受け、

重罰に処せられた旨、

彼らの犯した罪はこの前首都における中国人・外国人財産を襲撃、略奪したことである。

本日、当地日本代理大使から発表があった。

日本当局は軍法会議にかけられた者のなかに将校がいるかどうかの言明を拒否したが、

「軍人」という語は将校も含むものとしても解釈されるということを示唆した。

いかなる処罰が加えられたか日本側は説明を拒否しているが、

最高のもので懲役10年である旨、私はある日本側非政府筋から情報を得た。

以下省略

 

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