南京事件

ワシントン・ポストの記事
記事専用プリント対応ページ

最終更新日:2019/05/04 9:49

●1937年12月17日      

・・・・アメリカ砲艦オアフから、日本の南京占領についての目撃者の第一報が届いた。

パラマウント・ニュ-ス映画のカメラマン、ア-サ-・メンケンはかっての繁栄の都は、

残忍な日本軍の陸・空からの攻撃による兵士・市民の死体が散乱する流血の巷と化していた、と無線で報告してきた。

「大量処刑を執行」

少しでも軍隊に勤務していたと見える中国人男子はすべて集められ、処刑された、とメンケンは言った。

だが、日本側報道が南京城東の中華民国の父孫文の大陵墓は無傷のままだとするのは、その通りだと認めた。

中支那派遣軍松井石根大将と支那派遣艦隊司令長官は瀬川清中将は、

今日午後南京入城式を行い、首都南京を劇的に飾る予定である。  

以下省略

●1938年1月12日  本社東京特派員による 東京発     

「パナイ号事件に続く南京の略奪」        

中国に不満を抱き、民主主義列強全てに激しく反対する彼ら青年将校は、

まもなく内外を問わず彼らの行動を抑えるものはなにもないことを発見した。

この認識が、戦争の興奮および鬱積した心情の吐け口を求める兵士の欲求と結びついて、

パナイ号、レディバ-ド号両事件および南京における略奪、殺戮と強姦の饗宴をもたらしたのであった。

南京上流の蕪湖の部隊を指揮していた橋本大佐が、後に彼の責任は重いのであるが、

華中戦線の日本軍将校のほとんど全部が犯罪の責を負うべきであった。

日本軍による占領後に南京で起きたことは、

12月14日まで市内に残っていた少数の報道陣によって部分的に伝えられえたに過ぎない。

だが、それよりもより大規模な虐殺の報告が、

その後2週間にわたってこの見捨てられた首都から漏れ伝わってきた。

連日、中国人兵士とそれに市民までもが同様に針金で縛られ、

30~50人ずつの一団にされて長江岸の下関に連れて行かれ、機関銃で殺戮された。

日本兵が銃剣に中国人の首を突き刺して、市街を行進するのが、外国人によって目撃された。

このほかにも首が切り落とされ、口に煙草の吸い差しが、鼻に薬莢が詰められているのが見受けられた。

南京の家という家が捜索され、略奪された。外国人およびその財産もこの一般的運命を免れなかった。

見栄えのよい婦人はすべていずれかに拉致され、帰って来る者はなかった。

ある宣教師は、姑娘を差し出せという日本兵の要求を拒むとき、

その外交戦術の限りを尽さなければならなかった。

上海-南京間のあちこちの町や村から、

娘や若い婦人が日本兵に連れ去られて以後消息が無い、という同様の報告が届いた。

 

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

ご意見・ご感想はこちらへ ※個人情報の取り扱いについて

お名前 (必須)

メールアドレス ※返信をご希望の方はご記入ください

メッセージ本文