日本の報道 2

戦争中の報道が真実ではない以上

どうしても当時現地に派遣された文化人や記者の文章や、戦後の回想録が中心になります。

当時「東京音頭」で大ヒットしていた詩人の西条八十が雑誌「主婦の友」と読売新聞から派遣されて、

1937年12月17日の入城式の日に南京に入っています。

その時の見聞録が「主婦の友」の1938年2月号に掲載されています。

その内容です。

●皇軍奮闘の跡を弔ふ  (一部現代語に直しました)   

・・・・大通りは、大体浄められているが、横町には支那兵や軍馬の屍体がいっぱいだ・・・・

馬の屍体が横たわっている。

皮が剥がれている。お臀が半分ぐらい切り取られている。

飢えた籠城の支那兵どもが喰べたのだらうか・・・・

南京入城式。○○の陸海軍の精鋭が、歓喜に頬を赤くほてらせながら、粛々中山門から入って、

国民政府の門前まで蜿蜒長蛇の列を見せたときだ。

その列の末尾に、カ-キ色の軍服めいた服装をした、新聞記者の一団。

言いあわせたように白い布で包んだ箱を背負って進んでくる。・・・・

(その後は揚子江の中州の銃撃について書いています)

・・・・パンパンパン・・・・ともの凄い機関銃の音がした。

わたしは士官次室(ガン・ル-ム)のスト-ヴの前で、

うとうと居眠りしていたのだが、びっくりして目を覚ました。

「先生、面白いです。早く甲板へ」年若い戎兵がどなった。

飛び出すと、艦橋の機銃が吼えている。

また、パンパンパン・・・・

夕ぐれ5時、南京を出て間もない、右舷近くに見える八卦島という所だ。

灰褐色に枯蘆に覆われた所だ。

そのうえへ砲煙がうねうねと渦巻いている。

「南京から筏で遁げて来た残兵が約○○あそこにいるんです。ご覧なさい」

そばの少尉殿が眼鏡を貸してくれた。

なるほど、居る、居る。枯芒の丘の前後に、真黒くうようよかたまっている。

「奴等、向岸へ一刻も早く渡りたがっているんです。

ほら、ジャンクに乗っているでしょう」

なるほど、正規兵の軍服を着たのが、ジャンクに乗ってまごまごしている。

そのうち、また吼えた機銃の煙リが、ちょうどジャンクの上で炸裂した。

上の黒い人群は一瞬にしてへたばってしまった。

「あそこには食べ物があるんでしょうか」

「多少人家がある筈です。だが○○もの人間が上陸ったら、もう何もないでしょう」

「じゃ、結局飢死ですね」

「そう餓鬼地獄のような光景をやっているでしょう。時々まだ発砲したりするので、

近々陸軍が上陸して掃蕩をやる筈です。」

これは艦長の話だった。

機銃は声を収めた。

長江の黄昏、来しかたの南京の空は、美しい夕焼けだ。

今日入城の歓喜に酔った兵士たち。

あの荒寥たる廃墟の中で、どんな祝杯をあげているのだろう。・・・・

その時西条八十は同時に詩も書いています。

●さらば上海    

悪夢の都をさまよいて    

見るべからざるものを見ぬ    

十日の旅の血地獄に    

身も魂も疲れたり       

年の瀬せまるクリスマス       

共同租界の百貨店       

燈火明く照り彩えて       

サンタ・クロスは踊れども    

窓の下には避難民    

見るも冷たき石道に    

相抱きつつ、幾百ぞ  

死人のごとく眠るなり       

幾万千の屍を       

底に沈めし長江ぞ       

夜のジャンクの舷に       

青木燐火は燃ゆるなり

   以下省略

 

漫談家の井口静波は講談社から派遣されて上海から南京に行ってます。

その記録です。 

●「少女倶楽部」38年3月号   

翌朝、いよいよ南京の北部にあたる下関に着きました。

あたりには敵兵の死体が重なり合ってころがっていて、まだ戦争の跡なまなましいものがありました。

私たちは敵兵の死体を踏み越えて、

敗残兵を掃蕩している日本の兵隊さんたちの姿を強く感じながらも、

危険な道を避け避け、南京中央にある国民政府に辿りつきました。

 

後の政治家、橋本登美三郎は1937年12月16日の東京朝日新聞に次のように書いています。

●我が軍が捕虜とし又は殲滅した兵数は六万を下らぬと推察されて居る

 

当時東京日日新聞の鈴木二郎記者の戦後の回想録を見てみます。

鈴木記者は上海から南京までを取材し、当時日本で有名になった「百人斬り」の記事も書いていました。

これは戦後に書いた文章です。

●鈴木二郎の回想「私はあの“南京の悲劇”を目撃した」から 「丸」1971年11月号      

・・・・明けて14日、・・・・私たちはふたたび中山門に取って返した。

そこでわたしははじめて不気味で、悲惨な、大量虐殺にぶつかった。

25メ-トルの城壁の上に、一列に並べられた捕虜が、つぎつぎに、城外に銃剣で突き落とされている。

その多数の日本兵たちは、銃剣をしごき、気合をかけて、城壁の捕虜の胸、腰と突く。

血しぶきが宙を飛ぶ。鬼気迫るすさまじい光景である。

そこにわたしはまた、私を突き殺そうとした兵の(注:鈴木記者は前日この兵士に殺されそうになった)、

形相とまみえることになり、しばらくその惨劇を見ながらぼうぜんと立ちすくんでいた。

ふりおろされた死のツルハシ、神経の凍る思いで、その場を去り、

帰途にふたたび「励志社」の門をくぐってみた。

さきほどは気づかなかったその門内に、一本の大木があり、

そこに十余名の敗残兵が、針金でしばりつけられていた。

どの顔も紙のように白く、肌もあらわにある者は座り、ある者は立って、

ウツロな目で、わたしをジッと見つめた。

そのとき、数人の日本兵がガヤガヤとはいってきた。

2~3人がツルハシをもっていたので工兵と知れた。

そばに立っているわたしには目もくれずに、その中の一人が、その大木の前に立つと、

「こいつらよくも、オレたちの仲間をやりやがったな」とさけぶや、やにわに、ツルハシをふりあげて、

この無抵抗の捕虜の一人の頭めがけて、ふりおろした。

鋭く光ったツルハシのさきが“ザクッ”と音をたてて刺さり、ドクッと血がふきだした。

それを見たあとの数人は、身をもがいたがどうすることも出来ず、

ほかの兵の暴力のなすがままになってしまった。

まさに目をおおう瞬時の出来事だった。

この捕虜のなかには、丸腰の軍装もあったが、市民のソレとわかるようなものもいた。

ソレを見たわたしは、とめるすべもなく逃げ出した。

それから16日に南京を去るまで、城内の取材にあたった。

光華門につうじる道路の両側に延々続く、散兵壕と見られる中は、

無数の焼けただれた死体で埋められ、道路に敷かれた丸太の下にも、

死体が敷かれていて、腕、足の飛び出している。

ありさまは、まさにこの世の地獄絵である。

その上を戦車は容赦なく、キャタピラの音をひびかせて走っているのを見て、

死臭、硝酸の臭いとともに、焦熱地獄、血の池地獄に立つ思いがした。

自らが“獄卒”の立場と、ある錯覚に陥るほどだった。

城外北方、揚子江の対岸、浦口と対する水陸交通の要衝である下関の場合はさらになまなましく

日本兵の急迫に逃げ場を失った数千の兵、市民がここで、機関銃の掃射で殺され、

まさに血の海、死体の山となり、さすがに広い揚子江の黄色い流れも、

赤い血によどんで、多数の死体がただよっていた。

倉庫の密集するこの地の、ここかしこに、刺殺する兵の姿も見られて、恐るべき死の街と化していた。・・・・

いまにして、現場記者として、ようやくこの一片の“証言”を書く勇気を持ったのであるが、

「南京大虐殺」としてのちに世界の耳目をおどろかせる“状景”があったとは、

当時硝煙と死体、そして血煙のなかにあった私としては、

責任感と興奮、“戦争”という行為に見る「是認」感覚、神経・・国際戦争法規への無知などにより、

恥ずかしいことながら気がつかなかった

したがって、南京虐殺目撃以前、

つまり上海、南京間の従軍一ヶ月の間にもしばしば“虐殺”を目撃しているのであり、

たび重なるムゴイ戦闘、戦場での多くの死体と血の臭いに、神経がマヒ状態にあった事は確かであるが、

目の前に多数の日本軍戦死者の姿を見るたびにわきおこる敵愾心、

復讐と神経の片すみに嗜虐的なヒラメキがなかったとはいえない。・・・・・・

 

名古屋市長の河村たかし氏が公の席で南京事件を否定する発言をしましたが(2012年)、

その内容について東京都の石原知事は河村発言を支持し、

その根拠として作家の石川達三氏や評論家の大宅壮一が「南京事件はなかった」と言っているとしています。

石原氏の発言は事実と違います。

石川達三氏については後で東京裁判のところで書きますが、

大宅壮一氏に関しては名誉のためににサンデ-毎日の記事を2つ掲載します。

●昭和政界史 1951年 サンデ-毎日

・・・・それから私は、軍と共に南京に入城したのであるが、日本の軍人も新聞記者も、

南京が落ちさえすれば、中国が降伏して戦争は終わるものと思い込んでいた。

そのために実際よりも2,3日早く「南京陥落」の号外を出し、

提灯行列が行なわれたりして、軍からひどく叱られた新聞もあった。

軍事的にいって、上海や南京を陥落させる上に最大の貢献をしたのは、

「皇軍百万杭州湾上陸」のアド・ヴァル-ンで有名な柳川兵団であるが、

この部隊の通過したところは、その後絶対に宣撫不可能だといわれるほど、中国の民衆を痛めつけた。

まったく「皇軍即蝗軍」であった。・・・・

また私は南京に近い中国砲兵学校のあたりで、大きな丘陵地帯に、

何千と言う中国兵の死体が遺棄されているのを見た。

ところで、その死体の一つ一つをよく見ると、

いずれも軍服のポケットと、ズボンの股のところが鋭い刃物でひき裂かれているのである。

ポケットを裂いたのは、死者の所持品を掠奪するためであるが、

ズボンの方は死者を陵辱する意図から出たもので、戦場における異常な変態心理の発現と見るほかはない。

●大宅宅壮一の中共報告 サンデ-毎日臨時増刊 1966年10月20日号

私はね、あそこまで先陣争い-各兵団が門を目ざし、ちょうどスゴロクの“上がり”みたいにね、

だれが上がるか、同時に南京を占領することは

大陸の戦争が終わることだというような考え方が強かったですね。

兵隊の士気大いに上がり、猛烈な勢いで南京へと進んできた。

私は毎日新聞の準特派員というか、毎日新聞の旗についていったんだが、

私たちの属していた兵団がね、中山門にはいって惜しくも2着になったのかな。

光華門にはいったのが第1着で、これが最初の“万歳”を唱えた。

しかし、入城前後、入城までの過程において相当の大虐殺があったことは事実だと思う。

30万とか建物の3分の1とか、数字はちょっと信用できないけどね。

まあ相当の大規模の虐殺があったということは、私も目撃者として十分言えるね・・・・