満州での阿片政策

1931年の柳条湖事件を起こした

関東軍はどんどん戦争を拡大して行きました。

(注:いわゆる満州事変)

そして中国東北地区3省(遼寧省・吉林省・黒龍江省)を占領し、

その地区に住んでいた満州族から名前を取って

翌1932年に満州国を作りました。

清朝最後の皇帝「溥儀」トップにしましたが、

実権はすべて日本が持っていた為完全な傀儡政権といえます。

そこでは多くの中国人の抵抗組織(ゲリラ)が生まれてきました。

 

満州事変が何故あそこまで拡大していったのか、

阿片の販売利益から見ることも出来ます。

 

「千田夏光論文」から

1.台湾や関東州で成功した阿片漸禁政策で

 莫大な利益が上がる事が分かった

2.その当時の張作霖を始めとする多くの地方軍閥は

 阿片の利益を財源とし、

 阿片吸引所は郵便ポストの数くらいあったと言われていたので、

 その権益を奪い取るため戦争を拡大させた。

 

その後も関東軍は戦線を拡大して

蒙彊地区に傀儡政権を3つ作り、

更にそれを統合して通称「蒙彊政権」を作り、

第2の満州国を目指しました。

 

注:1.蒙彊地区 蒙は蒙古、内蒙古の意味

     彊は辺境(彊)或いは、新彊省等、色々と説がある

  2.蒙彊地区の傀儡政権

     察南自治政府   1937年9月4日   設立

     晋北自治政府   1937年10月15日 設立

     蒙古連盟自治政府  1937年10月28日 設立

     蒙彊政権 正式には蒙古連合自治政府 1939年9月1日 設立

 

そして、満州・蒙彊地区がその後の日本の麻薬政策の中心になっていきます。

 

満州国が出来るとすぐ、1932年11月に阿片法を公布し、

阿片を原則禁止とし、

治療上必要な成人中毒者のみに許可を与え(漸禁政策)、

必要な阿片の製造・流通・販売を

満州国が統制する事としました。(専売制度)

しかし実体は漸禁政策とは程遠い公認と拡大の政策でした。

 

●阿片法にもとづき

 ・ 中央統制機関として、首都新京に専売総局が出来

 ・ 阿片の生産と売り下げ(払い下げ)を管理する

   専売局を各地方に11ケ所設置し

 ・ 約2000名の阿片卸売商・小売商が指定され、

   吸煙所が開設され公然化していった

 

●東京裁判資料 日本興業銀行の資料

 満州国建設の財源3000万円を

 公債発行でまかなう契約書があり、

 三井・三菱・安田・川崎・住友・他の銀行が

 公債引き受けの借款団を結成した。

    契約書 第4条(原文カナ)

  本公債は・・・・阿片専売公益金を以って担保とし、

元利金は専売利益金より優先にこれを支払うものとす

 

●1935年のアメリカ財務省の報告

 満州国安東市に秘密阿片窟は

満州事変前には

支那市街地に  20軒以内

日本租界地に  500軒以上

1933年には

支那市街地に  145軒

日本租界地に  684軒

 満州事変まではアヘン害毒の範囲は

 小規模にて日本租界内で売買されておったが、

 支那当局は断固たる禁止策を実行した。

 日本が満州・朝鮮を併合すると、状態はまったく一変した。

 すなわち日本人ならびに朝鮮人の無頼漢等はその政治的勢力を利用して、

 鴨緑江東岸の新義州にある製薬工場より、

 公然とアヘン及びその他の麻薬剤を当地に輸入した。

 しかして七道溝には元売捌所が設けられた。

 日本人及び朝鮮人経営の妓楼はその販売代理店となった。

 同様に質屋も同一目的の為に利用された・・・・

 

●1937年の国際連盟アヘン諮問委員会第22回会議録

 ハルビン市には今日、

 事実上ハルビン市の一部をなす富家店市にあるものを数えないで、

 3000以上のヘロイン魔窟がある。

 これらの魔窟には毎日中国人、

 ロシア人および日本人約5万人のアヘン常用者が出入りしている。

 これらのヘロイン魔窟以外に、ハルビンと富家店には

 ヘロインを販売する102ケ所の公認アヘンサロンがある。

 酷寒のハルビンの冬期中、

 多くのアヘン常用者は街路上で死亡する。

 かれらの死骸は誰もこれを取除こうとはしないで、

 幾日も街路上に放ってある。

 犬でさえ食べようとしない事がある。

 薬品は全部奉天の居留地および大連から来るのである。

 

こうしてみると満州国の設立から維持までが

阿片の販売益でまかなわれていたことが分かります。

まかなったということは、

その分中国の国土を荒廃させ

中国人中毒患者を増やしていったということになるのです。

満州国ではどれだけの阿片収入があったのか

正確には分かりませんが、

 

次に3つの数字を挙げます。

 1 旧満州国関係者からの資料

    1933年から1945年までの収納額 

    6820万両(1両36グラムなので、2455トン)になる

 2 満州国皇帝溥儀の自伝から

    満州国建設から崩壊までのアヘンの量は 

    合計3億両(10,800トン)

    1944年の利益は 3億元

 3 別資料  

    1936年 1331万円(満州国全歳入の 5%)

    1939年 3393万円(  同上   5.6%)

 

実際に満州国で阿片政策を中心になって実行した人物の証言です。

 

●古海忠之 満州国国務院総務庁次長(実質の総理クラス)

     中国戦犯管理所での告白

 私は、阿片が民族に対して、また人類に対して

 如何に重大な害毒を有しているかを了解していました。

 また、国際法が阿片を禁止している事も了解していました。・・・・

 その為私は中国東北地方において阿片政策を遂行し、

 財富を掠奪しました。

 特に大東亜戦争の勃発後、私は阿片政策を積極的に強化しました。

 私は中国東北部において力の及ぶ限り阿片の害毒を撒き散らしました。

 1937年に満州国では阿片吸煙に反対する世論が沸き起こりました。

 当時はその世論を緩和する為に

 「阿片麻薬禁断十年計画要綱」が制定され、

 十年間阿片と麻薬を禁断すると言う嘘の政策が採用されたのです。

 この要綱の中では

 阿片を禁断し阿片栽培面積を縮小するための規定がなく、

 吸煙を禁止する事もなく、販売の制限も有りませんでした。

 だから阿片と麻薬を禁止する意図がなかったのです。

 主計処長在任中、

 満州国の収入を増加し同時に

 中国人民の反抗を削除し弱めるために

 阿片政策には重要性があると私は認識していたのです。・・・・

 私は一切の政策が戦争のためにあるという事を認識し、

 阿片禁止の建前を放棄し、

 公然と大量の阿片を植えさせました。

 そして1942年には阿片の収売価格を高くし、

 収購組合に対して奨励金を発給するという

 さまざまな手段を取りました。・・・・