阿片政策

蒙彊地区の阿片政策
記事専用プリント対応ページ

最終更新日:2015/11/14 10:09

1938年12月16日、中国に対する日本政府の窓口機関「興亜院」が出来、

翌年3月に蒙彊連絡部が開設され酒井隆中将が長官に就任しました。

その後は興亜院が蒙彊阿片政策の指導的役割をにない、

形としては「各機関は常に駐蒙軍を中心として一致協力」という態勢となりました。

1939年9月1日、蒙古連合自治政府が成立しました。

この政府は主席も副主席も軍隊の長官も中国人が就任しましたが、

最高顧問として、金井章次が就任し実質的に日本の傀儡政権でした。

主席は蒙古人の「徳王」で、首都は張家口でした。

興亜院の連絡部も同じ張家口に置かれました。

この政権は第二の満州国を狙ったものと言われていまが、日本以外には認められませんでした。。

 

日本軍が占領した中国各地では、満州国の熱河地方以外ではこの蒙彊地区が阿片の大量生産地でした。

それを維持するためにもこの地区を完全に確保する必要があったのです。

そしてこの地区の阿片の増産を安定させ、全占領地で阿片の自給体制をとり、

蒙彊政権の財源確保を計画しました。

* 1941年9月「蒙彊アヘン事情概説」 蒙古連合自治政府経済部煙政務科作成

(注: 煙とはアヘンの事)

蒙彊、北支、中南支を通ずるアヘンの自給策確立を根本方針として

増産計画を樹立するため新制度を創立した・・・・

* 1942年3月「最近蒙彊経済特殊事情 最高顧問上京原稿」 蒙彊政権の内部文書

・・・・健全なる発展はまず財政経済の確立にあるをもって、

とりあえず財源の確保に全力を傾倒し、

その一策としてアヘン行政については

         1 アヘンの財政経済上における重要性

         2 日支事変勃発にともなう占領地域内におけるアヘンの欠乏

         3 外国アヘン輸入による資金の円ブロック外流出防止、

等の見地より・・・・従来個々なりしアヘン制度を撤廃し、これが一元化をはかり、

準アヘン専売制度の形式を取り、

内においては漸減断禁政策、外に対してはこれが増産を企てんとする趣旨にそうべく、

成紀(ジンギスカン紀元)734年(1939年)7月、清査制度の成立をみたり

 

蒙彊政府は1939年6月6日「暫行アヘン管理令」を始めとした一連の法律を公布し、

7月1日にアヘン清査制度がスタートしました。

清査署という役所が作られ、

政府主導で11ケ所に支店を持つアヘン取扱商社が設立され、

取り締まりに名を借りた専売制度がスタ-トしました。

     販売ル-ト

       ケシ栽培者→土薬公司(アヘン商社)→清査署→アヘン配給人(販売人)→中毒患者

 

収納した阿片の販売先は1933年度の統計によれば、

                    北京     34.6%

                    蒙彊管内   16.3%

                    天津     11.5%

                    上海     11.5%

                      他

となっています。

金額は売上げで798万円、利益は476万円という暴利を得ていました。

 

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

ご意見・ご感想はこちらへ ※個人情報の取り扱いについて

お名前 (必須)

メールアドレス ※返信をご希望の方はご記入ください

メッセージ本文