沖縄戦

最初で最後の地上戦
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最終更新日:2016/07/28 12:19

「最初で最後の地上戦」という言い方に反論が来ています。

実際は沖縄戦終了後も北方領土では住民を巻き込んだ地上戦がありました。

そのことは承知していますが、地上戦の規模と被害(比較するのは変ですが)、

及び一般的な通例に従ってこのように書きました。

 

「国敗れて山河あり」という言葉があります。

しかし沖縄戦の場合砲撃と爆撃でその山河さえもなくなってしまったほどのひどい戦争でした。

もともと日本中で郷土部隊(常駐部隊)がいないのは沖縄県だけでした。

徴兵事務をする連隊区司令部だけがあり、

「沖縄の軍備は司令官の軍馬1頭」と言われたくらい無防備で平和な島でした。

 

沖縄戦の経過を年月順にかいつまんで整理してみます。

「1943年」

●9月、   大本営は拡大しすぎた戦線を縮小して「絶対国防圏」を設定した。

そのためマリアナ諸島(サイパン・テニアン・グァム)に精鋭軍を配置し、

後方の沖縄、台湾に航空基地を造ることを決定した。

沖縄には15ケ所の飛行場を作ることになった

 

「1944年」

● 3月22日、陸軍第32軍・沖縄守備軍新設。陸軍だけで57,000人の兵士数。

● 5月、   飛行場建設が始まる。伊江島、首里、小禄、糸満、宮古、石垣、その他

● 7月、   絶対国防圏の「サイパン」が玉砕した。

  絶対国防圏が破られた事で飛行場の必要もなくなり、

  沖縄を捨石として本土決戦に備える方向に向かった。

● 7月7日、  沖縄県泉知事に閣議決定で住民の疎開命令が届いた。

 九州に8万人、台湾に2万人を7月中に疎開させるというものだったが、

 もともと制海権をアメリカに押えられていて、しかも船が不足している為に無理な命令だった。

 しかも現地の「根こそぎ総動員」と疎開は矛盾する命令だった。

 国と軍の方針がバラバラだったのである。

● 8月、   大本営は「島嶼守備要領」を下令し、バンザイ突撃を止めて長期持久戦法に改めた。

● 8月22日、 学童疎開船「対馬丸」が鹿児島へ向かう途中撃沈される。

◎ 1997年12月12日、鹿児島県トカラ列島悪石島沖の海底で対馬丸が発見されました。

  かわいそうに子どもたちの遺体は現在でも船の中でそのままです。

● 9月、     米軍統合参謀本部は台湾攻撃の「コ-ズウエイ作戦」から、

  沖縄攻略の「アイスバ-グ作戦」に切り替えをした。

● 10月頃、   最精鋭の第9師団(武部隊)が台湾に移転、その後の軍隊の補充はなく、

  現地自給の方針が出て住民の総動員となっていった。

沖縄の日本軍は総兵力10万人と言われたが、3分の1は住民からの補充兵だった

● 10月10日、那覇に大空襲

6時50分、アメリカ第58機動部隊は戦艦5隻、空母9隻、軽空母8隻、巡洋艦14隻、

駆逐艦58隻と、5波で延べ1,356機の艦載機で攻撃を開始しました。

目標は奄美大島、徳之島、沖縄諸島、宮古島、石垣島、大東島の飛行場と港湾施設だった。

那覇はわずか半日で90%を焼き尽くされ、死傷者は1,500人を越えた。

日本軍の被害も深刻で、航空機51機、船舶155隻、弾薬100万発、食糧30万表等の被害で

それ以降の作戦に支障をきたす程だった。

空襲の探知も出来ず、何の抵抗もせず、やられ放題の空襲だったため、

軍に対する不信感が生まれ、泉守紀県知事は業務を放棄し、

本土出身の高級官僚の殆どは出張名目で日本に帰ってしまった。

空襲後、疎開希望者が殺到し、翌年3月までに九州と台湾に8万人が疎開した。

その時、現地第32軍では電報を打っています。

[  第10方面軍宛電報 (原文カナ)]

「極秘電報に見る戦争と平和・大塚虎之助」から引用

昭和19年10月11日 1330発

次長  第32軍発

第10方面軍西部軍宛

球参電第99号

1.那覇市は10日午後第4、第5両次の銃撃及爆撃を伴う大規模の焼夷弾攻撃に依り

   全市火を発し10日夜半迄に県庁其の他一部を残し烏有に帰せり

2.今回の如く敵が多数の飛行機を以て低空より乱舞銃撃を加えつつ

   相当長期に亘り集中的に焼夷弾攻撃を実施する時は

   警防団隣組の活動は殆ど無力化さるるに至るを以て

   都市防空の画期的改善を要するものと思料せらる

◎決戦準備

沖縄守備軍は首里の軍司令部を中核に、

中部の浦添丘陵地帯と南部の島尻海岸に主力部隊を配置し、

北部は防衛圏からはずしてあった。

その為、軍のいない北部に住民を強制的に疎開させることにした。

しかし住民を疎開させると、軍は住民協力と食糧調達が困難になるという矛盾を抱えた。

疎開業務は難航し、沖縄戦が始まるまで3万人位しか疎開できなかった。

 

「1945年」

● 2月、   市町村単位で国土防衛義勇隊の編成が始まった。

● 3月23日、 沖縄にアメリカ軍が上陸するための準備として艦砲射撃や空襲が開始された。

              実質的に沖縄戦の開始日と言われている。

● 3月24日、 南部沖にアメリカ軍大艦隊・大型空母10隻、小型空母6隻、巡洋艦16隻、

他による一斉艦砲射撃が開始される。

それから3ケ月沖縄は昼夜を分かたぬ艦砲射撃にさらされる。

いわゆる「鉄の暴風」と言われる

● 3月24日、師範・中学校・女学校生徒たちが学徒隊として各部隊に配属される

● 3月25日、アメリカ軍上陸用輸送船100隻出現

● 3月26日、慶良間諸島の座間味島に米軍上陸、翌日渡嘉敷島に米軍上陸

 集団自決発生

● 3月26日、米軍海軍軍政布告 第1号、第2号が早くも公布される

◎無秩序の避難

 疎開がうまく行かなかったため、住民の多くが激戦地に残される事になりました。

 そのため砲撃や戦闘が始まると難民の群れは無秩序に北部の国頭の山中に避難を始めました。

 そこでは凄惨な飢餓地獄となり、敗残日本兵との間に多くの忌まわしい事件が発生しました。

 またマラリアによる死者も多発しました。

● 3月末、 日本軍司令部は、住民が北部に移動する事を禁止した。

その為数十万の住民は激戦地に閉じ込められる事になってしまった

● 4月1日、 アメリカ軍が本島中部西海岸に上陸開始

アメリカ軍  約50~55万人

艦船     1300~1500隻

アメリカ軍の作戦はアイスバ-グ作戦といわれ、

沖縄攻略作戦は地上部隊だけでも18万人以上で、

太平洋戦争の最大の作戦で、西太平洋の全戦力を沖縄に集中した。

その時に日本軍が打電した電報です。

◎ 電報 (原文カナ)

「極秘電報に見る戦争と平和・大塚虎之助」から引用

昭和20年4月1日 午前8時発

沖縄方面根拠地司令官発

天1号作戦部隊宛

第010804番電

1    那覇沖敵輸送船役60隻より水陸両用戦車多数を以て北飛行場方面上陸を開始中、0800

2    北飛行場上陸予想点に対する艦砲射撃は熾烈を極めつつあり、

  尚朝来飛行場を銃爆撃しあり

日本軍、第32軍沖縄守備隊の約10万は持久戦の為、攻撃せず首里に待機していた。

午前8時、艦砲45,000発、ロケット砲33,000発、迫撃砲22,500発が上陸地点に撃ち込まれ、

空からは艦載機が波状攻撃でナパ-ム弾や機銃弾を浴びせた。

その下を上陸用舟艇と水陸両用戦車が巾13キロの長さで海岸に殺到した。

* 偵察していたある兵士は「海が見えない」と報告した。

注:船が一杯で海が見えなくなっていた

* 嘉手納湾沖はいつの間に集結したのか、見渡す限り敵艦船で埋め尽くされ、

  水平線も見えないほどであった。 「渡辺憲央・逃げる兵」より

米軍が予想していた日本軍の水際反撃は陸上からも飛行機によっても全くなかった。

ある米軍将校は島を間違えたかと思ったと後に語った。

*米軍従軍記者 アニ-・パイル

われわれはまるでピクニックのように靴を濡らす事もなく上陸した

*八原高級参謀 戦後の手記

海を圧し、空を覆い、天も地も海も震撼せしめる古今未曾有の大攻勢に対し、

これはいかに、我が軍は一兵、一馬に至るまで、地下に潜み、一発一弾も応射せず、

薄気味悪く寂然として静まり返っている。厳たる軍の作戦方針に従い、

確信に満ちた反撃力を深く蔵し、戦機の熟するのを、全軍十万の将兵は、

息を殺して待っているのだ。

● 4月3日、 アメリカ軍の無血上陸と日本軍の無抵抗

消極的な現地軍に対し大本営、第8飛行師団等は疑念を持ち、

アメリカ軍にもっと積極的な攻撃を仕掛けるよう電報を打っています。

◎第8飛行師団の意見具申電(原文カナ)

8飛師参電第1755号 4月3日発  第8飛行師団長

第10方面軍宛  参考 参謀次長

1    沖縄本島に対する上陸当初の戦果芳しからず、

    遂に憂うべき戦況に立到らしめたるは師団の責任にして誠に申し訳なし

2    然し乍ら現下の戦勢を観察するに敵の兵力僅かに2個師団内外に過ぎず

    後方補給路亦長遠にも拘らず敵水上艦隊(空母を含む)の損害甚大なるは蓋ふべからず真実にして

    上陸兵団の支援に任ずべき基地航空の根拠未だ安定しあらさるは我の乗ずべき好機なり

    而して此の好機は旬日を出ずして去らんとす、

    即ち上陸せる敵を攻撃し沖縄北中飛行場の使用を拘束するは

    大局に於ける作戦目的を達成すると共に敵に大出血を強要する為絶対の要件なり・・・・

    師団は未だ兵力の半数以上を保有しあり、靖(注:第6航空軍)亦然るべし、

    球(注:第32軍)にして此の機を逸せず進んで積極的攻勢を採とらんか

    陸海空戦力発揮の好機亦生起継続して戦局の打開必ずしも不可能に非らざるべし・・・以下省略

● 4月4日、 アメリカ軍本島中部を占領、沖縄本島を南北に分断。

読谷、嘉手納の飛行場を整備して小型機が発着出来るようになる。

● 4月5日、 上陸地点の渡具知に軍政府が出来、住民対策が始まる。

アメリカ軍は沖縄守備軍司令部のあった首里へ大攻勢を開始する。

この頃からの約50日間がいわゆる沖縄中部戦と言われ、沖縄の主戦場になった。

アメリカにとっても日本にとっても、もう2度としたくないほどの太平洋戦争最大の激戦で、

アメリカ軍は首里を目指して10キロ進むのに50日も要した。

日本軍は1日当り1,000人以上が死亡し、戦力の7割を失った。

◎米軍戦史・米国陸軍省「沖縄・最後の戦闘」より

  朝、攻撃の火ぶたが切って落とされると同時に、

  F中隊の2個小隊が死に物狂いで突進して行った。

  臼砲がとどろき機関銃が火を吹いて攻撃部隊を援護した。

  米軍は向かいの日本軍陣地の砲火を浴びてばたばた倒れた。

  だが遂に31名がライアン丘陵の頂上まで到達する事が出来た。

  そこはまったくカミソリの刃のようにとがり、岩石や穴がいっぱいあり、

  草は焼け木は裂けていた。砲兵の攻撃は静まった。

  すると今度は日本軍が「クモの巣のような穴」やト-チカ、

  洞窟、トンネルからぞくぞく出始めた。

  米軍はこれを覚悟して準備していたので・・・・20分間にわたる白兵戦の末、

  ついに35名の日本兵を殺し、その他多くを丘陵から駆逐した。

  米軍もまた5名が戦死、2名が負傷した。

  何回となく米軍は、丘の上で前進を試みたが、そのたびに兵を失った。

  午後陽が西に傾く頃には、24名の戦闘能力のある兵士が各人とも

  わずか小銃6回分の弾薬しか持っていなかった。

  救急品もなく、衛生兵も皆すでに戦死、無線電話は途絶えてしまった。

このような血で血を洗う接近戦が昼も夜も50日あまり続いたのが中部戦線だった。

米軍は1日100メ-トル、1ケ月で約2キロしか前進できなかった。

特に安里52高地(シュガ-・ロ-フ)では手榴弾と銃剣の突撃戦で

米軍に1,289名の神障害者が出るほどだった。

● 同日、   連合艦隊は沖縄周辺のアメリカ軍艦船に対する

海軍航空部隊の特攻作戦「菊水1号」を翌6日に発動した。

同時に戦艦大和いかの艦隊を海上特攻部隊として沖縄の海岸に乗り上げる計画も立てた。

その電報です。(原文カナ)

◎CF(注:連合艦隊)電令作603号(5日13時59分発令)

  第1遊撃部隊[大和、信濃、第2水雷戦隊(矢矧及駆逐艦6隻)]は

  海上特攻として8日黎明沖縄に突入を目途とし急速出撃を準備すべし

● 4月6日、 日本軍航空隊が総攻撃開始。(特攻機による菊水第1号作戦)

攻撃は陸海軍機699機(内、特攻355機)が参加しました。

前日に鹿屋基地や連合艦隊から次のような電報が発信されています。

◎鹿屋基地から

4月5日 受信1702 訳了1745

緊急  発 鹿屋空基地

着 名護屋 空 霞ヶ浦 空

機密051613番電

発8FGB指揮官

待機中の特攻機は速に第1国分基地に進出せよ 行動予定知らせ

◎連合艦隊から

  20年4月5日 訳了(暗号)1755  発 連合艦隊

  着 遊撃部隊  報 天1号作戦 (注:東シナ海、南西諸島方面の航空作戦)

  機密第051500番電

  連合艦隊電令作代607号

  1、帝国海軍部隊及第6航空軍はX日(6日)以降全力を挙げて

     沖縄周辺艦船を攻撃撃滅せんとす

  2、陸軍飛行第8師団は右に協力攻撃を実施、第32軍は7日より総攻撃を開始し

     敵上陸部隊の掃滅を企図す

  3、海上特攻隊はY-1日黎明時豊後水道出撃、Y日黎明時沖縄西方面に突入、

     敵水上艦艇並に輸送船団を攻撃撃滅すべし

  Y日を8日とす

  通報 第10方面軍 第32軍 第8飛行師団

地上部隊との連携がうまくいかず飛行場奪還に失敗

戦艦「大和」以下の水上特攻隊は6日午後3時20分徳山から出撃しました。

7日正午すぎからアメリカ軍機の総攻撃を受け午後2時過ぎ大和は沈没しました。

● 4月12日、 日本軍は空陸呼応して夜間総攻撃をするが失敗

● 4月14日、 天1号作戦部隊に対し再び総攻撃を命じる電報が出されました。

◎20年4月14日 受信2025

緊急 親展  発 総無線艦所共通符号

着 天1号作戦部隊 第1南遣艦隊

暗号 軍機

機密第141607番電

GF電令作第628号

 1、1KFGB指揮官及6FA司令官は密に共同、左に依り沖縄島に対する

  第3次総攻撃を計画指導すべし、X日を16日と予定す

(イ)X-1日薄暮を期し挺身戦闘機(戦闘機派出標準を6FA12機1KBFGB12機)

  を以て北及び中飛行場所在敵機を銃撃撃滅

(ロ)X-1日薄暮以降X日黎明に亘り機宜重爆(6FA)陸攻夜戦雷電(1KFGB)

  を以て北及中飛行場を攻撃、右戦果を拡充す

(ハ)X日黎明彩雲(1KFGB)司偵(6FA)を以て沖縄島北東方所在敵機動部隊の全貌を偵察、

  1KFGBの主力を以て攻撃を敵空母に指向、之を捕捉撃滅す

  右攻撃に吻合する如く6FAの主力及1KFGBの1部を以て機宜進撃路及

  泊地の制空を実施しつつ特攻を沖縄島に推進し

  周辺敵艦隊並に輸送船に攻撃を指向しこれをも撃滅す

 2、5FGB指揮官は機宜本攻撃に策応すべし

● 4月16日、 米軍伊江島に上陸

● 4月29日、 天長節(天皇誕生日)に第32軍の幕僚会議が開かれ、今後どうするかが検討されました。

長軍参謀長   このままではロ-ソクのごとく消滅する、

   今の内に総攻撃をして運命を打開するべきである。            

八原主任参謀  攻撃に失敗すれば本土決戦の為の持久ができなくなると反対

牛島司令官   5月4日を期して再度の総攻撃をする事に決定

● 5月5日、 日本軍は再度の総反撃をするが失敗。         牛

島司令官は午後6時攻撃を中止し、持久戦に切り替える方針を打電しました。

◎球参電第278号(5日2045発)

 軍は4日攻撃続行、5日朝迄に更に一部を以て棚原北側154・9高地に進出せるも

 同戦力の損傷甚だしく現戦力を以ては初期攻勢の目的の達成至難となるを以て

 5日1800攻撃中止、旧陣地帯により敵に最後の出血を強要するに決す、

 各方面の絶大なる御協力へ誠に申訳なく遺憾に堪えず

● 5月10日、 早くもアメリカ軍による石川学園(城前小学校)が解説、住民の戦後がスタ-トした

● 5月11日、 アメリカ軍全戦線に渡って総攻撃を始めました。

● 5月12日、 第32軍では「勝敗の岐路は今日明日中にあり」と判断し各方面に打電しました。

この頃までには日本軍は主力部隊の64,000人が死亡、

後方部隊や負傷兵を集めても約40,000しか残っていなかった。

日本軍軍司令部は「・・・・戦力は消耗しつくした」と判断し実質的に敗北を認めた。

米軍の被害も甚大で2ケ月間で26,000人の死傷者を出し、師団長が更迭された。

● 5月16日、第32軍では、第10方面軍や大本営陸軍部に緊急要請の電報を打ちました。

          内容は  ◎急速に兵器を輸送して欲しい

               ◎日航、満航、中華等全輸送機で精鋭歩兵大隊の落下傘降下

               ◎国軍全般航空兵力で本島周辺の敵艦隊撃破

現実に不可能な要請に対し大本営は応じることが出来ず、

特攻だけを決行することになりました。

5月23日熊本健軍飛行場から「義烈空挺隊」の爆撃機12機の120人が出撃した。

● 5月22日、 首里城の地下壕で軍の作戦会議が開かれた。

兵力も食糧も武器もなく軍の戦力は消耗しつくしたとの判断で、

「最後の総攻撃をし、玉砕して終わる」と言う意見と

「尚、持久戦を続ける」と言う意見が対立したが、

結局持久戦を続ける事になった。

そして最後の作戦です。

◎ 最後の作戦

 軍は残存兵力をもって玻名城~八重瀬岳~与座岳~国吉~真栄里の線以南の

 喜屋武半島地区を占領し、努めて多くの敵兵力を牽制抑留するとともに、

 出血を強要し、もって国軍全般作戦に最後の寄与をする。

 国軍全般作戦とは本土決戦のことです。

 つまり沖縄守備軍は本土決戦への時間稼ぎのために、玉砕も許されず降伏も許されず、

 どんなに住民や軍に犠牲が出ても戦いを止める事が出来なかったのです。

● 5月22日、 戦時教育令公布。国民学校、盲聾唖学校にまで学徒隊編成

● 5月24日、 熊本からの義烈空挺はアメリカ軍基地に強制着陸し、戦闘後に全員玉砕しました

● 5月25日、 この頃から日本軍は首里から摩文仁の洞窟陣地に撤退を始めた。

梅雨の為道路は泥の海となり、

兵隊と避難住民が入り乱れ米軍の砲弾の中で撤退は困難を極めた。

道端には片付けた死体が山積みになっていた。

各地の野戦病院には10,000以上の負傷した兵隊と軍属がいたが、

足手まといになる事から日本軍によって殺害された。

最後に集結できた兵隊は30,000人にすぎなかった。

● 5月29日、 アメリカ軍は首里城跡に侵入し、牛島司令官は摩文仁に移動した。

● 5月末から6月4日、

沖縄守備軍は南部の喜屋武、摩文仁地区に撤退、洞窟で洞窟で持久戦を展開した。

南部のガマ(自然洞窟)には既に多くの住民が避難してた。そこに日本軍が来た為、

軍と住民が混住したり、住民を追い出したりした。

その為多くの住民が戦闘に巻き込まれ、日本軍に虐殺され、

集団自決を強いられたりで多くの犠牲者が出た。

● 6月6日、 沖縄沖のアメリカ軍からの艦砲射撃が激しさを加えた。

米軍海兵隊の攻撃で海軍は壊滅状態になりました。

夕方海軍の太田実司令官は「戦況切迫せり、

小官の報告は本電を以て一先ず終止符を打つべき時機の到達と判断す」と打電し、

同時に有名な沖縄県民の献身的努力に関し有名な電文を打ちました。

◎ 062016番電  (原文カナ、適時句読点を入れ、不明字は□としました)

左の電を次官に御通報方取計を得度

沖縄県民の実情に関しては県知事より報告せらるべきも、

県にはすでに通信力なく、32軍司令部又通信の余力なしと認めらるにつき、

本職県知事の依頼を受けたるに非ざれども、現状を看過するに忍びず、

之に代って緊急御通知申上ぐ沖縄島に敵攻略を開始以来陸海軍方面防衛戦闘に専念したるものと、

県民に関しては殆ど顧みるに暇なかりき、

然れども本職の知れる範囲に於ては県民は青壮年の全部を防衛召集に捧げ、

残る老幼婦女子のみが相次ぐ砲爆撃に家屋と家財の全部を焼却せられ、

わずかに身を以て軍の作戦に差支なき場所の小防空壕に避難、

尚砲爆撃下□□□風雨に曝されつつ乏しき生活に甘んじありたり、

而も若き婦人は率先軍に身を捧げ看護婦烹炊婦はもとより

砲弾運び挺身切込隊すら申し出るものあり、

所詮敵来りなば老人子供は殺さるべく、

婦女子は後方に運び去られて毒牙に供せらるべしとて親

子生き別れ娘を軍の衛門に捨てる親あり看護婦にいたりては軍移動に際し、

衛生兵既に出発し身寄なき重傷者を助けて□□□真面目にして

一時の感情に馳せられたるものとは思われず、

更に軍に於て作戦の大転換あるや自給自足の中に遥かに遠隔地方の住居地区を指定せられ、

輸送力皆無の者黙々として雨中を移動するあり、

之を要するに陸海軍沖縄に進駐以来、

終始一貫勤労奉仕物資節約を強要せられて御奉公の□□を胸に抱きつつ

遂に□□□(数行□□□)ことなくして本戦闘の末期と沖縄島実情□□□□

一木一草焦土と化せん、

糧食6月一杯を支ふるのみなりと言う、

沖縄県民かく戦えり、県民に対し後世特別のご高配を賜らんことを

● 6月8日、 最高戦争指導会議で本土決戦を正式決定

● 6月13日、 海軍沖縄方面根拠地全滅、太田実司令官は豊見城の司令部で自決

5月末の首里からの撤退時に小禄飛行場にいた海軍は

陸軍とは同一歩調を取っていませんでしたが、

6月6日の米海兵隊の攻撃を受けて壊滅状態でした。

● 6月18日、 ひめゆり部隊に解散命令

● 6月18日、 第32軍は組織的に抵抗不能になりました。

夕方牛島司令官は参謀総長と第10軍司令官に最後の決別電報を打ちました。

◎球参電635号(6月18日1820発電)

大命を拝し挙軍醜敵撃滅の一念に徹し勇戦敢闘茲に3ケ月

全軍将鬼神の奮闘努力にも拘らず陸海空を圧する敵の物量制し難く

戦局正に最後の関頭に直面せり

麾下部隊本島進駐以来現地同胞の献身的協力の下に鋭意作戦準備に邁進し来り、

敵を邀ふるに方ては帝国陸海航空部隊と相呼応し

将兵等等しく皇土沖縄防衛の完璧を期せしも、

満(注:司令官の名前)不敏不徳の致すところ、

事志と違い今や沖縄本島を敵手に委せんとし負荷の重任を継続する能はず、

上 陛下に対し奉り下国民に対し真に申訳なし、

茲に残存手兵を率ひ最後の一戦を展開し一死を以て御詫び申上ぐる次第なるも

唯々重任を果し得ざりしを思い長恨千載に尽るなし

最後の決闘に当り既に散華せる麾下数万の英霊と共に

皇室の弥栄と皇国の必勝とを衷心より祈念しつつ全員或は護国の鬼と化して

敵の我が本土来冠を破砕し或は神風となりて天翔けり必勝戦に馳せ参ずるの所存なり、

戦雲碧々たる洋上尚小官統率下の離島各隊あり何卒宜敷御指導賜り度切に御願い申上ぐ、

茲に平素の御懇情、御指導並に絶大なる作戦協力に任ぜられし

各上司並に各兵団に対し深甚なる謝意を遥に微衷を披瀝し以て決別の辞とす

● 6月19日、 日本軍の組織的抵抗が終了

● 6月21日、 米軍ミニッツ太平洋軍総司令官が勝利宣言

◎82日間の戦闘後、沖縄戦は勝利を得た。日本抵抗軍は6月21日戦闘を中止した。

 敵の敗残兵は島の南部の2つのポケット地帯に追い込まれた。

● 6月22日、 アメリカ軍が沖縄攻略宣の集結宣言を出す

牛嶋司令官が23日ではなく1日早い22日に自決との説が機密戦争日誌から伺えます。

* 機密戦争日誌 原文カナ

6月22日「沖縄終戦に伴う報道宣伝に関し省部の以降をひとつにしたる後、

海軍及び内閣に連絡す」

6月29日「沖縄終戦に際し牛嶋、長両将軍の切腹・・・・」

● 6月23日、 第32軍牛嶋司令官と長参謀長が自決する。(公式の終戦日です)

 

4月始めにアメリカ軍が上陸を開始してから、各地に残された日本軍は通信手段もなく、

まともな武器もなくただ逃げ回るだけでした。

6月23日に牛嶋満司令官と長勇参謀長が自殺した事で軍は解体しました。

その時に最後の軍司令部命令書が出されました。

◎  命令書

親愛なる諸子よ、諸子の勇武戦敢闘実に3ケ月、すでにその任務を完遂せり。

諸子の忠誠勇武は燦として後世を照らさん。

今や戦線錯綜し、通信も又途絶えし、余の指揮は不可能となれり。

爾今諸子は各々その陣地に拠り、所在上級者の指揮に従い、祖国のため最後まで敢闘し、

生きて虜囚の辱めを受くることなく、悠久の大儀に生くべし

第32軍司令官 牛嶋満中将

 

住民を救う為にアメリカ軍との交渉やその他の努力を一切せずに、

住民を戦場に放置し、軍は解体してしまいました

6月13日の海軍太田司令官の最後の電文と比べると牛島司令官の命令は住民の命を軽視しているのがわかります。

 

アメリカ軍は降伏勧告の手紙を6月10日に投下していました。

手紙はバックナ-中将から牛嶋中将に宛てた達筆な日本語で書かれています。

◎ 手紙の内容 日本軍や指揮官を讃えた後

・・・・現在貴殿の行なっている抵抗は日本本土防衛作戦上無益にして

且つ又戦後日本再建に最も必要なる青年を無駄に減少せしめるのみである。・・・・

勝敗の決定している戦争に於いて部下将兵を助ける何等かの手段があれば

遂行する事は指揮官の尊敬すべき義務である。・・・・

 

軍の最高責任者が自殺する時に、部下にきちんと戦争の終結を伝え、投降と住民保護を

命令することをしないで、逆に部下には「捕虜になるな、天皇のために徹底して戦え」と

命令して死んでしまったのです。残された兵隊は相当混乱したようです

 

● 7月2日、 米軍、沖縄作戦終了宣言を出す

 

 

 

 

 

 

 

 

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