沖縄戦

日本からの差別
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最終更新日:2015/09/22 9:35

現在に至るまで沖縄が日本本土の犠牲になっているのは、

独自の文化を持って平和に暮らしていた琉球王国が強制的に日本に組み込まれたせいがあるかもしれません。

沖縄側は一刻も早く日本に同化しようとし、

日本は(特に権力層は)いつ寝返りを打つかわからないと疑いの目で沖縄を見ていました。

日本に組み込まれていった経緯を簡単に整理してみます。

琉球王国時代の沖縄は冊封関係のなかで中国の属国として栄えていました。

 

当時は諸外国からも独立国として認められていたようです。

「琉米修好条約」

  琉球を独立国として認めていたアメリカは1854年7月11日に琉米修好条約を結びました。

  正式には「亜米利加合衆国琉球王国政府との定約」といいます。

  この条約は漢文と英語の2通作られました。

  漢文は読みづらいので要点のみです。

     第一  今後アメリカと琉球は自由貿易とする

     第二  アメリカの船舶に各港で薪や水その他の必要品を提供すること

     第三  アメリカ船からの漂流民を救助する

     第四  アメリカに領事裁判権を認めること

     第五  アメリカ人墓地を設置し保護すること

     第六  琉球国の水先案内に関する規定(金銭的な)

     第七  アメリカ船舶への薪や水の提供に関する費用の件

 

アメリカ合衆国全権大臣、提督 マシュ-・ペリ-

琉球国         総理大臣    尚宏勲

     布政太夫    馬良才

             紀元1854年7月11日

  この条約が国際法上有効であるかの判断は難しく、日本政府でも決まっていないようです。

  ただ、1879年の琉球処分で琉球王国は滅亡したので条約は失効したとも言われます。

 

「薩摩の侵略」

   このように独立国として扱われていましたが、1609年に薩摩藩の侵略で属国のようになりました。

当時の琉球は中国と冊封関係にあり、独立国でしたが中国の属国として主従関係にあったため、

薩摩は奄美地区を直轄地とし、

実質支配しながらも中国には一見独立国のように見えるように王国を存続させました。

その為琉球は実質は薩摩の支配下でも、形式は中国の支配下にあったのです。

偶然にも薩摩の攻撃は、沖縄戦での米軍上陸地点と同じ場所だといわれています。

 

「琉球処分」

   1872年(明治5年)、琉球王国から維新慶賀使として、正使伊江王子朝直(尚健)以下2名が上京し、

新橋の鉄道開通式に列席し、その後天皇を拝しました。

その頃はまだ井上馨等が「かの酋長(琉球国王の事)を呼んで不臣の罪を責め・・・・」と言っていた位で、

琉球はまだ異民族とみなされていました。

明治政府は清国との関係もあって取りあえず琉球藩とし、

国王の尚泰は藩主となり華族に列せられました。

この待遇で正使の尚健は「藩主」の言葉を見て独立国として認められたものと理解してしまったようです。

このことが琉球では大問題となり、正使一行は売国奴の汚名を着せられたといわれます。

1874年(明治7年)沖縄の漂流民が殺されたことから、明治政府は台湾を攻略し、

武力を背景に沖縄は日本領であることを清国に認めさせました。

1879年(明治12年)3月27日、明治政府の内務大丞松田道之が処分官として、

藩王代理今帰仁王子に処分の達書を公布し、完全に沖縄県になったのです。

いわゆる「琉球処分」といわれる処置です。

その頃沖縄では頑固党(清国派)と開化党(日本派)が対立し、

また清国も日本の処分に反対していましたが、

日清戦争で日本が勝利した為沖縄は自然に日本領土になりました。

 

そのように反日感情がかなりあったため、

警察、知事を始めとした役人等多くの役職を日本から送り込んで徹底した皇民化政策を強行しました。

* 「沖縄教師の祈りとどけ」 兼松謙松

沖縄県庁は部課長以上はすべて本土人で占められていた。教育の人事も他県人に握られていた。

その結果、沖縄人は一日でも早く日本人になりきろうとして同化する努力をしました。

* 明治33年7月5日 琉球新報  意訳

わが県民が同化すると言う事は、有形無形、善悪を問わず一から十まで内地各府県に化する事、

類似する事である。極端に言えばクシャミする事も他府県人の通りにする事である。

しかしながら、日本からの沖縄蔑視、差別は消えなかった。

* 大阪人類館事件

明治36年(1903年)4月、大阪で開かれた第5回勧業博覧会の学術人類館に、

朝鮮人、アイヌ人と一緒に沖縄女性2名を陳列しました。

(遊郭の娼妓を琉球貴婦人と偽っての展示です)

の時沖縄から「アイヌ人、生蕃と同一視するな」と抗議が集中し、陳列は中止になりました。

その時の琉球新報の社説です。

◎・・・・他府県の異様な風俗を陳列せず、

 特に台湾の生蕃、北のアイヌ等と共に本県人を顧みたるは、

 我々を生蕃アイヌ視したるものなり。

 われに対する侮辱あにこれより大なるものあらんや・・・・

 他府県人は本県人を指して、日本国中特種の民族とするものあれど、

 我輩はその素質において一つも区別あると認めざるなり。

 注:差別された沖縄が更にアイヌや台湾を差別している事、

   及び必死になって日本に同化しようとしている様子が伺えます。

* 大正13年(1924年)の国税比較 都新聞 新城朝功記事「沖縄100年」より

       国税納付額  沖縄県 4,849,994円

              宮崎県 2,264,791円

         注:貧しい沖縄県が宮崎県の2倍も税金を絞り取られている事が分かります。

* 昭和6年(1631年)の耕地面積

       耕地面積   沖縄県  0.6町歩

              宮崎県  1.16町歩

         注:年代は違いますが、耕地面積が半分なのに税金が倍取られていた事になります。

           まさに薩摩時代から続く苦しみは「苦が世(にがゆ)」と言われるものでしょう。

 

方言に対しても差別政策が取られました。

沖縄人を「中国につくか日本につくか」はっきりしない民族として不信感を持っていた日本政府は、

沖縄方言(ウチナ-グチ)を規制しました。

明治末には方言札が登場しています。

* 方言札 方言を使った場合罰として、罰として首から方言札をぶら下げて見せしめにした

昭和15年(1940年)にはこの標準語励行運動は、

県を挙げての運動となり、県布令にまでなり、「沖縄方言論争」が活発になりました。

* 柳宗越  なぜ他府県において行なわれない標準語奨励の運動を、沖縄県のみ行なうのであるか

* 淵上沖縄県知事  この県の事情を他県と同一に見ては困るのです。

  この県は日清戦争の時でも支那につこうとした人がいたくらいです。

沖縄では徹底して標準語教育をしていたのに、九州へ疎開してみたら、九州では皆方言を使っていた。

改めて差別感を感じたという沖縄教師の話があります。(那覇市史より)

1937年には沖縄教育委員会から「読み替えるべき姓」が発表され、

名前を大和風にしたり読み方に変更しました。

   * 例  東門   アガリジョウ → ヒガシカド

        具志頭  グシチャン → グシカミ

 戦後においても沖縄を日本本土とは別だとした例があります。

   * 摩文仁の丘 静岡の塔

       遥かに祖国の安泰と繁栄を願いつつ沖縄をはじめ南方諸地域においてその任に倒れ・・・・

 

 

 

 

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