三光作戦

始めに
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最終更新日:2014/04/19 11:19

このレポートは1998年9月に書いたものです

通常、国同士の戦争は政府と政府の戦いですから、一方の政府が降伏すれば終わります。

中国への日本の侵略では当然日本軍と国民政府軍の戦いでした。

南京を占領された国民政府は首都を重慶に移転しましたので、

日本としては後は重慶攻撃に成功すれば一段落で、

むしろ占領した土地の安定に力を注ぐ必要がありました。

しかし中国では、国民党と言う中央政府はあったものの

まだ地方には沢山の軍閥があり小さな政府のようなものが各地にあったのです。

共産党のゲリラ組織もありました。

国民政府軍を追い出して安心して占領していた地域から多発的にゲリラによる攻勢が始まりました。

その内次第に中国共産党が力をつけてくると

各地のゲリラ組織や国民政府軍の敗残兵を集め組織化し軍隊として再編成してきました。

新四軍、第一路軍、第二路軍、第三路軍、・・・・第八路軍などです。

* 日本では八路軍が有名で、正式には国民革命軍第八路軍といい、三個師(師団)で編成されました

総司令     朱徳

第115師長   林彪

第120師長 賀龍

第129師長 劉伯承

中央政府(国民政府)に管理されない自主的な人民軍が日本軍と戦うようになったのです。

このような戦争では、たとえ政府が降伏しても

国民全部が自主的に戦うのですから、勝ち負けという概念がなくなります。

行く先々でそこに住んでいる住民を次々と敵に変えていく占領の仕方をしたのですから、勝利はありません。

攻撃をすればゲリラはいなくなり、日本兵がいなくなるとゲリラの村になる。

しかもゲリラ兵と村人の区別が一切つかないのです。

戦っても戦っても暖簾に腕押し、むしろゲリラの襲撃で日本軍が負けることが多くなり泥沼の戦争に入りました。

日本兵の手記にはゲリラに対する恐怖心でビクビクし、

襲撃されて逃げる場面が多く見られます。

せっかく占領してもゲリラのために点と線しか確保できない状態になってきたのです。

しかし日本軍中央の見方は甘く、共産軍を軽視し、

あくまで敵は国民政府と考えていたのです。

* 北支那方面軍作戦課高級参謀 吉原矩大佐(のち中将)の述懐       戦史叢書・北支の治安戦 1

治安粛清の対象としての中国共産党に対する認識は不十分であった。

当時は中共軍を必ずしも重視せず、

わが占領地域に残存潜在する蒋系(注:国民政府系)敗残部隊とほぼ同様の残敵、

または抗日匪賊程度に見て・・・・たいした事はなかろうと軽視していた。

1940年8月共産軍の「百団作戦」と呼ばれる一斉攻撃を受け

大きな損害とショックを受けた日本軍は作戦を変更しました。

それ以降三光作戦と呼ばれる歴史上稀に見る残酷な作戦が始まったのです。

 

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