尖閣諸島

中国の資料
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最終更新日:2014/05/30 15:34

1372年に琉球冊封使が琉球に来たと言っても資料はありません。

資料として残っている一番古い航海日誌は1534年のものです。

その日誌から見てみます。

* 1534年 中国・明の冊封使、陳侃(ちんかん)は、5月8日に福州の梅花所から外洋に 出航し、

   東南に進み、鶏籠頭(台湾基隆)の沖で東に方向を変えて10日に釣魚島を過ぎています。

   陳侃は第11回目の冊封使です。

  その時の航海日誌を見てみます

「使琉球録」

10日、南風はなはだ速く、船は飛ぶように進む。

しかし流れに従って下ればそんなにひどくはない。

平嘉山を過ぎ、釣魚島を過ぎ、黄毛島を過ぎ、赤島を過ぎる。・・・・

11日夕、古米山(久米島)を見る。すなわち琉球に属するところなり。

夷人(注:冊封使の船で働く琉球人)は船を急がせる、家に帰れるのを喜ぶ。

注: 下線のところを見ると「11日久米島を見る。

すなわち琉球に属する」となっています。

この航海日誌では久米島の手前までは中国領となっているのです。

* 1561年 胡宗憲(こそうけん)編集「籌海図編」 (序文が1561年)

巻一「沿海山沙図」に沿海の島々が示されています。

そこに「鶏籠山」「彭加山」「釣魚島」「化瓶山」「黄尾山」「橄欖山」「赤嶼」と

西からの順で並んでいます。

注: 島の名前は現在のどれに当たるかは不明です。

* 1562年 冊封使 郭汝霖(かくじょりん)の航海日誌「重編使琉球録」にも出てきます。

その時の航海は1562年5月29日、福州から出発しています。

閏(うるう)五月初一日に釣島を過ぎる。

初三日赤島に至る。赤島は琉球地方を界する山なり。

あと一日の風あれば、即ち姑米山(久米島)を望むべし

注: 「界する山」とあります。

  界とは境界線の界です。

  つまり赤島を過ぎたあたりが中国と琉球の境界だという意味です。

* 1683年6月 中国が清朝になってからの第2回目の冊封使・汪楫(おうしゅう)の日誌です

   使録「使琉球雑録」

24日、明るくなり島を見れば即ち彭佳山なり・・・

辰の刻、彭佳山を過ぎ、酉(トリ)の刻釣魚島を通過する。・・・・

25日島を見る。

まさに先は黄尾、後は赤尾である、いくばくもなく赤島に達する。

いまだ黄尾島を見ていない。

夕暮れ郊に至る。風波大きくなる。

生猪羊各1頭を海に投げ、五斗米の粥を注ぎ、紙船を燃やし、鉦を鳴らし、

鼓を打ち、諸軍皆甲を着けて、刃を抜いて、舷に伏せ、敵を防ぐふりをする。

この祭りをしばらく行なう

注:1  郊は内外の界で境目の意味。

    溝とも言う

  2  過溝祭 溝(郊)を通過するとき豚と羊を生贄にして海難除けをする祭り。

    「界」「溝」「祭り」のことはそれ以降の航海日誌にも出てきます。

* 1756年周煌の「琉球国志略」、

「溝の義は内外の界なり」

* 1808年の斉鯤の「続琉球国志略」にも見られる。

「溝を過グ、海神を祭る」

  3 「琉球国志略」は琉球人にも読まれ、1831年(天保2年)日本版が出ました。

* 1719年 冊封使 除葆光「中山傳信録」

従来の不正確な点を直すため、

琉球の琉球王朝最高の地理学者「蔡温」と協力し8ケ月研究して書いたもの。

日本版も出て広く読まれた。

この中では姑米島つまり現在の久米島を「琉球西南方界上鎮山」としている。

注: 鎮は鎮守の鎮のことで、境界線にある琉球の鎮めの島の意味です。

 琉球の端の島を鎮山と称する事はここが国境と言う意味に取れます。

このように中国の古い文献を自然に解釈する限り、尖閣列島は中国の領土のように見えます。

少なくとも領土だと主張しているわけではなく、

昔から自国であると解釈していたのでこのように書かれているのでしょう。

前記中山傳信録は中国の葆光と琉球の蔡温が協力して書いたものですが、

それでは朝貢国の方琉球としてはどのような資料があるのでしょうか。

 

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