尖閣諸島

尖閣列島の国有化
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最終更新日:2014/05/30 15:43

国有化を断念していた明治政府は日清戦争を機会にいよいよ国有化に着手します。

 

1894年(明治27年)12月27日、

野村内務大臣は陸奥外務大臣に極秘の書簡を送り「閣議で尖閣列島を国有化」することを要請しました。

* 秘別<朱書>第123号

久場島、魚釣島へ沖縄県所轄の標杭を建設する件、

別紙の通り、以前から沖縄県知事より申し出があり、

明治18年貴省と御協議をした結果標杭を建設しないことになっていましたが、

その当時と現在とは事情も異なるにつき、別紙のように閣議に提出しては如何でしょう、

一応御協議に及び下さい

明治27年12月27日

内務大臣子爵 野村 靖(印)

外務大臣子爵 陸奥宗光殿

「別紙閣議」

沖縄県下八重山群島の北西に位する久場島、魚釣島は、従来無人島なれども、

最近該島へ向け漁業等を試みる者があります。

これらの取締りをするために、沖縄県の所轄として標杭建設をしたいとの要請が同県知事よりあります。

同県は島々を所轄と認めて、上申通り標杭を建設したいと思います。右閣議を請う。

 

そして陸奥外務大臣の意見ですが、次のように答えています。

* 1895年(明治28年)1月11日、陸奥宗光外相から野村靖内相に対する答・・・

「本件に関し本省においては、特別異議は無いので、計画通りにしてよろしいと思います」

 

その結果尖閣諸島は日本領土に編入される事になります。

* 1895年(明治28年)1月14日、内閣は魚釣島と久場島を沖縄県所轄として標杭をたてる事につき、

   上記12月27日の「別紙閣議」を「別に差し支えないので請議の通りにてしかるべし」

と日本領土とすることを決定しました。

注: 編入した島は久場島、魚釣島の2島です。

 久米赤島(大正島)は1920年(大正9年)2月17日に石垣村に編入されました。

 

1月21日、内務大臣から沖縄県知事宛に「標杭建設に関する件請議の通り」と指令が出されました。

注: 日本領土に編入する事は決定しましたが、国標の建設は戦後1969年です。

 

日清戦争で勝利した日本は日清講和条約で尖閣諸島の領土編入を確実にします。

* 日清媾和条約 通称 日清講和条約 下関条約 馬関条約

調印 1895年(明治28年)4月17日 下関にて

批准 1895年(明治28年)4月20日

第1条 清国は、朝鮮国の完全無欠なる独立自主の国たることを確認する、

  よって右独立自主を損害すべき朝鮮国より清国に対する貢献典礼などは将来全く廃止すべし

注: 清国と朝鮮の冊封体制を断絶させることです。

 その事が朝鮮を清国から独立させ、日本に組み込む為の布石となります

第2条 清国は左記の土地の主権並びに該地方にある城塁兵器製造所及び官有物を永遠に日本国に割与する

    1 省略

    2 台湾全島及びその附属諸島嶼

 

日清講和条約の第2条の2の「台湾全島およびすべての付属島嶼」割譲で日本の領土になったのです。

特に尖閣諸島とは書いてありませんが、附属島嶼に尖閣は含まれると解釈されています。

注: 附属諸島嶼には尖閣列島は含まれないと言う説もあります。

 もし含まれていたとすると第二次世界大戦終了時のカイロ宣言や講和条約で

 放棄しなければならなくなるからです。

 

1895年(明治28年)6月10日に古賀辰四郎は野村靖内務大臣に「官有地拝借御願」を出しました。

* 「私は・・・・明治12年以降15年にいたるまで琉球や朝鮮に航海し、もっぱら海産物の調査を致しました。

  今日まで住居を沖縄に定めてその事業をし、

  更に業務拡張の目的で沖縄本島の正東の無人島で魚介類の豊かな大東島に社員を送リ、

  また農事を行い日常食糧も確保しながらおおいに海産物を得るために

  明治24年11月20日、沖縄県知事丸岡莞爾氏から同島開墾の許可を得た次第です。

  これより以前明治十八年、沖縄諸島を巡航し八重山島の北方90カイリの久場島に上陸したところ

  俗にバカ島と言う鳥が群集しているのを発見しました。・・・・・

  羽毛輸出営業の目的で久場島全島の拝借願いを出しましたが、

  久場島はまだ我が国の所属である事が判明していないので、

  今日まで見送っていました。・・・・

  しかし今日、島は当然日本の所属と確定しましたのでよろしくおねがいします」

 

沖縄は1896年(明治29年)になると勅令13号で国内法上の

「沖縄県の郡編成に関する件」で正式に編入措置が取られたといわれています。

*  「朕、沖縄県の郡編成に関する件を裁可し、茲にこれを交布せしむ。

御名御璽

注: 朕(ちん)とは天皇自身のことです。私と言うことです。

  御名御璽(ぎょめいぎょじ)、天皇の署名と捺印です

明治29年3月5日

内閣総理大臣侯爵  伊藤博文

内務大臣      芳川顕正

勅令第13号

第1条  那覇・首里区の区域を除く外沖縄県を盡して次の5郡とす

島尻郡   島尻各間切、久米島、慶良間諸島、渡名喜島、粟国島、伊平屋諸島、鳥島及び大東島

中頭郡   中頭各間切

国頭郡   国頭各間切及び伊江島

宮古郡   宮古諸島

八重山郡  八重山諸島

第2条 郡の境界もしくは名称を変更することを要するときは内務大臣が之を定む

  附則

第3條     本令施行の時期は内務大臣之を定む

注: この勅令で正式に

八重山郡に魚釣島、久場島、南小島、北小島は編入されたと言われますが、

しかし不思議な事にこの郡編成には尖閣諸島の島名がありません。

 

1896年(明治29年)9月、日本政府は古賀辰四郎に尖閣列島の魚釣島、久場島、南小島、北小島、

4島を30年間無償貸与する許可を出しました。

無料貸与終了後は1年ごとの有料としました。

1897年(明治30年)、古賀辰四郎は借用許可を得て尖閣列島の開拓に着手しました。

その功績によって古賀は1909年(明治42年)に藍綬褒章を受けています。

1900年(明治33年)、日本政府は釣魚島等を尖閣諸島と改名しました。

命名者は前年に「地質学会誌」に論文を書いた沖縄県師範学校教諭 黒岩恒と言われています。

注:5月1日に古賀は久場島の調査をしましたが、その時に黒岩恒も同行しました。

さて、ここまでが日本が尖閣諸島を領土とした経緯です。

1932年尖閣列島のうち

魚釣島、久場島、南小島、北小島の4島が古賀辰四郎の息子善次氏に国から有償で払い下げられました。

金額は不明です。

そして戦後ですが、1972年古賀善次氏は埼玉県の栗原国起に南小島と北小島の2島を譲渡し、

1978年には善次氏が死去し、その後妻の花子氏が魚釣島も栗原に譲渡しました。

以上が現在問題になっている尖閣列島に関する経緯です。

確かに無人島ではあるが、もしかしたら清国の領土かもしれない・・・と思って遠慮しながら調査をしていた

明治政府が日清戦争に勝利した事で堂々と領土に編入したのです。

この辺りが問題になるところです。

 

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