大東亜共栄圏

未解決の軍票
記事専用プリント対応ページ

最終更新日:2016/02/28 11:00

戦争になると当然の事ですが軍事費がどんどん増えてきます。

日本のように広大な中国や東南アジアを占領し、維持するには大変な金額を必要とします。

食糧や軍需物資を調達するためです。

日本のお金つまり「円」を持っていっても占領地では通用しないし、第一本国の通貨が不足して混乱してしまいます。

その為本国経済と戦地(占領地)の経済を切り離すために発行された特殊な紙幣が軍票です。

正式には軍事手票と言われます。

日本では西南の役の時に西郷隆盛の軍隊が発行した「西郷札」が有名です。

第2次世界大戦では交戦国のほとんどが発行しました。

戦後も沖縄ではアメリカによって「B円」という軍票が使われていました。

軍票は本来戦争が終われば、元の一般通貨と交換するべきものです。

日露戦争の時は戦後回収し交換しています。

日露戦争で日本政府が発行した軍票(注:当時は軍用切符といった)は1億4,841万円でした。

 

中国侵略の1937年10月、日本は中国で軍票を使う事を閣議決定しました。

そして11月、南京攻略戦で柳川兵団(注:第10軍)が杭州湾に上陸した頃から本格的に使用されました。

その後は当時中国内で信用のあった国民政府の「法幣」と競争を始めました。

つまり武力だけではなく貨幣戦争もあったのです。

* 法幣  重慶にあった蒋介石国民党政権が発行した貨幣で、

 中国銀行券、中央銀行券、交通銀行券の総称です。

 当然のことながら中国人からは信用がありました。

 

1941年11月20日、大本営政府連絡会議で決定された「南方占領地行政実施要領」では、

「通貨は勉めて従来の現地通貨を活用流通せしむるを原則とし、

やむを得ざる場合にありては外貨標示軍票を使用す」という方針が掲げられました。

実はそれ以前にひそかに策定されていた「南方外貨表示軍用手票取扱手続」では、

どの地域でどの軍票を使うかが決められ、印刷の準備がされていたのでした。

  *地域と軍票

蘭印(インドネシア)       ギルダ-表示

英領マラヤ、英領ボルネオ     海峡ドル表示

フィリピン            ペソ表示

英領ビルマ            ルピ-表示(少し後から決定)

 

中国や香港では「円軍票」が使われましたが、東南アジアでは現地通貨の表示とされました。

その理由は中国と違って、東南アジアはお金も物資も現地で自活するようにし、

独立国として大東亜共栄圏の一員にしようとしたからです

* 南方経理勤務に関する指示  1941年11月26日

戦地使用通貨の大理想は、戦地既存通貨制度をそのままに軍の手に生け捕りにし、

これにより完全無欠に金も物も現地自活の途を講ずるに在り。・・・・

軍票は作戦初期、軍において支払手段なき時期における応急通貨たる・・・・

そして開戦と同時に日本軍は軍票を携帯して侵攻していったのです。

* 開戦後の「対策要綱」

○ 占領当初は現地通貨と等価の軍票を流通させること

注:インフレを起こすのでむやみに発行せず、現地の通貨と同じ額だけ、という意味です。

○ 軍票処理機構を整備すること

注:軍票の発行と回収の組織をきちんとすることです

○ 占領が進むと同時に現地発券制度を把握して、現地通貨で軍票の回収を行なうこと

これらから判断すると、当初は軍票の発行は一定限度とし、軍政が進んだら軍票は中止して回収し、

現地通貨に戻す方針だった事が分かります。

 

日本軍では日清戦争、日露戦争、中国への侵略戦争と軍票を発行し続けました。

軍票のタイプを「甲号」「乙号」「ろ号」などと分けていました。

 

アジアではどの様な軍票を発行したのか、国別に見てみます。

* マラヤ・スマトラ 「に号」

マラヤは海峡ドル軍票、スマトラはギルダ-軍票を共に円と1:1で決めましたが、

中間のシンガポ-ルでは実際には海峡ドルとギルダ-の交換比率は1:0.6だったため通貨の混乱をきたし、

1943年軍はスマトラを分離しました。

* フィリピン 「ほ号」

1942年2月から現地のペソ貨幣とペソ軍票のみを流通させました

* ビルマ 「へ号」

当初、マラヤの海峡ドル軍票を流通させ、後からルピ-軍票を発行しました

* 仏印(ベトナム)

円表示の軍票を使用し、1945年8月の発行残高は2億6,000万円でした

* ジャワ      当初はギルダ-軍票で、後からルピア軍票に変わりました。

* 北ボルネオ    海峡ドル軍票

* オランダ領インドシナ「は号」  ギルダ-(グルテン)軍票

* ニュ-ブリテン(ラバウル)、ニュ-ギニア 「と号」    オ-ストラリア・ポンド軍票

 

 実際の軍票がどの様なものだったのでしょうか? 海峡ドルの写真です。

SCN_0070

 

1942年3月には、政府出資による南方における中央銀行的な役割をする南方開発金庫が設立されました。

* 各占領地に作られた銀行     満州      満州中央銀行

                    華北      中国連合準備銀行

                    華中      中央儲備銀行

                    東南アジア   南方開発金庫

 

南方開発金庫は発券機能があり、新しい通貨「南発券」を発行しました。

正式には金庫券といいます。

地域別にバラバラに軍票を出すと色々と不都合が生じるため統一した貨幣が必要だったからです。

しかし実質は従来の軍票と変わらないものでした。

 

本来軍票の発行はインフレにならないように、現地の通貨の範囲内で印刷し慎重に発行するべきでした。

しかし日本軍は資源の調達を急ぎ、戦争を進めるため無制限に発行するようになりました。

しかも一般通貨と交換できない不換券でした。

そのためインフレが起きると更に発行するという悪循環に陥ったのです。

その上に「南発券」まで発行したのですから通貨は大膨張してしまいました。

   * 南方開発金庫券発行要領 昭和18年3月 大東亜大臣達 原文カナ

第1条 南方開発金庫券は、次の通貨単位名称の南方開発金庫券(以下金庫券と称す)を、

  夫々の地区ごとに発行すべし

       「ドル」(弗)     馬来及び北「ボルネオ」地区

       「ペソ」        比島地区

       「グルデン」(盾)     東印度地区

         「ルピ-」(留比)     緬甸地区

        「ポンド」(磅)     豪州地区(委任統治地区を含む)

第2条   金庫券の発行に付いては大東亜大臣の定むる金庫券発行計画に拠るべし

第3条   金庫券の種類及び様式は外貨軍票と同一とす

      付則

第10条         金庫券の発行は昭和18年4月1日よりこれを実施すべし

第11条         既発行の外貨軍票に付いては国庫にたいする整理の関係を除き凡て金庫券として取り扱うべし

 

軍票に関する証言です

* 今日出海 「山中浪人-私は比島戦線の浮浪人だった」から 軍票に関して

軍票に対する不信用は日増しに増大しているのに、軍はマニラ新聞の印刷機を始め、

軍管理のあらゆる印刷所を動員して軍票を製造していた。

昭和19年の秋から3~4ケ月間に50億余の紙幣を印刷したので、通貨はハチ切れるばかりの膨張を示した。

そのために物価はこの3年間に約100倍に騰貴した。

* 村田省蔵の回想録より 当時フィリピン特命全権大使

戦時財政上、もとより止むを得ざるに出たるものなりと言えども、

何等の裏付なくして無制限に軍票を発行せば、その価値の低下を見、

物価の騰貴を誘致し、ついには悪性インフレ-ションを導く事は当然なり・・・・

 

一体軍票はどの位発行されたのでしょうか?

         南発券を含めた東南アジアの軍票   194億6,822万円

         中国で発行した支那事変軍票       25億1,646万円

               合計          219億8,468万円

 

現在の貨幣価値から考えると大変な金額の軍票を発行したのです。

さらに中国の占領地に作った銀行では、華北では連銀券

華中では儲備銀行券という軍票でなく通貨を発行していました。

その両方の通貨の合計はなんと6,181億500万円です。

この全部の合計6,400億円以上の残高が日本の責任である事は当然でしょう。

しかし日本はその軍票や通貨をそのままにして戦争に負けました。

敗戦後、連合国総司令部(GHQ)最高司令官マッカ-サ-の覚書に基づいて、

大蔵省は一切の軍票及び占領地通貨は無効とする旨声明を出しました。

つまり放り出したのです

* 日本帝国大蔵省声明  昭和20年9月16日 原文カナ

・・・・日本政府及び陸海軍の発行せる一切の軍票及び占領地通貨は無効且つ無価値とし、

一切の取引において之が授受を禁止す

アジアの人々は戦争で人的な被害を受けた上に、物資とお金を収奪され、

軍票というただの紙切れを残されたのです。

軍票を残された国々はどの様に対処したのでしょうか?

      中国        国民党政府が中国の通貨と交換

      仏印(ベトナム)  流通量が少なかったため放置

      香港        英国が焼却したが、その残りの約12億円は現在でも放置

      マラヤ       焼却されたが、住民の不満が強かったため1人当り20ドルを支給した

                                           その他

      フィリピン     ほとんど焼却

      インドネシア    戦後も流通、焼却、新ギルダ-と交換

このように国によって色々な対処がされましたが、いずれにしても日本政府は責任を取っていません。

色々ある戦後処理の大きな問題の一つとして残っています。

 

タグ: ,

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

ご意見・ご感想はこちらへ ※個人情報の取り扱いについて

お名前 (必須)

メールアドレス ※返信をご希望の方はご記入ください

メッセージ本文