大東亜共栄圏

香港の人口疎散政策
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最終更新日:2015/08/23 11:11

1941年12月8日、日本の真珠湾攻撃と同じころ、

広東省広州に待機していた日本の支那派遣軍第23軍は、香港攻略を開始しました。

作戦開始命令の軍機電報は「ハナサク・ハナサク」という暗号でした。

参加した部隊は第8師団歩兵第228連隊と第229連隊です。

香港攻略作戦は、1940年7月参謀本部第2課の瀬島龍三大尉が作った「香港作戦概要」が元になっています。

        注 瀬島龍三氏は戦後日本政界・財界の黒幕として活躍しました。

1941年12月25日、香港のイギリス軍が降伏すると、日本の主力部隊はジャワ方面に移動し、

独立歩兵第67大隊、68大隊、69大隊、香港砲兵隊が守備につきました。

12月29日、ペニンシュラホテル内に香港軍政庁を発足させ、

翌1942年1月19日、大本営直轄の香港占領地総監部が組織され、

磯谷廉介中将が総督に就任して占領行政の準備に入りました。

2月20日には香港島セントラル地区の中国上海銀行を接収して正式に香港占領地総監部が出来ました。

「九龍軍政指導計画」によると、

軍政の目的は、「香港の軍事基地化と重慶政権(国民党)覆滅のための政治的謀略」で、

抗日分子の摘発による敵性の払拭が中心で、軍票の発行もその一環として定められました。

 

「人口疎散政策と迫害」

   当時は日本による中国侵略の戦火を逃れて多くの中国人が中国から香港に避難していました。

イギリスの植民地であったため安全だからです。

抗日ゲリラも香港を基地に中国で活躍していました。

そのため日本軍が占領したときは人口が200万人以上に膨れ上がったといわれています。

人口が増え過ぎたため食糧の不足やゲリラの暗躍が懸念されたため、日本軍は人口を強制的に減らす事にしました。

これを疎散政策といいました。

* 港九地区に於ける人口疎散実施要領      1941年12月24日  原文カナ

香港、九龍地区に於ける軍作戦並びに治安維持上取りあえず九龍地区に於ける下層階級、

なかんずく浮浪者を他に強制的に移住せしむるものとす

但し我が軍事基地たらしむる為の技術及び労働力は之を確保するものとす

  疎散させる方法としては次の3つの種類に分けました

身元が分かっていて故郷へ帰る者

1 自費疎散  自費で中国や満州に帰る

失業者・極貧者・犯罪者は

2 慫慂(免費)疎散  強制だが食事、旅費、宿泊は提供する

3 強制疎散  強制的に追い出す

しかしどの方法にしても強制であることには変わりありません。

戦火の中国本土に送り返されたり、無人島に置き去りにされたり、集団で海に突き落とされたり、殺されたりしました。

その結果1943年9月末までに、973,000人が移動させられました。

中国各派の抗日分子に対しては3,000人近い中国人やインド人を密偵に使って摘発をしました。

疑わしきは処罰という方針でしたから多くの市民が犠牲になりました。

摘発の方法としては人口総精査(国勢調査)の結果も利用されました。

結局、香港の人口は1945年には50万~60万人にまで減少しました。

食糧ですが、日本の攻撃を予想していた香港政庁は大量の米を備蓄していましたが、すべて日本軍に押えられました。

なんとか米を分けてくれるように13人の住民代表が請願に行きましたが、逆に総督命令で斬首刑になりました。

そのような中でも日本軍とコネがあれば楽に暮らせたし、また日本軍は裕福な中国人を利用して私腹を肥やしたそうです。

* 「日本軍政期の香港経済」から  元中華民国衛生部長 李樹芬氏の回想

・・・・占領期には賄賂が必要であり、かつ公然と行なわれていた。・・・・

日本人の占領地統治は混乱、無秩序であって、汚職事件は下僚また上司を見習って次々と行なわれ、

果てることがなかった。・・・・

ある海軍軍人および船員はベトナムから米を密輸しヤミ市で売りさばいていた。

朝鮮人を阿片売買、売春の手先とし、

政府専売管理処にはわずかなコミッションを下っ端職員に与えて公金の大部分を横領した。

大陸浪人と軍閥関係者は結託して各商店から保護費を取り、応じなければいやがらせ、妨害を働き、強奪した。

各行政機構がそれぞれ職権を利用して汚職を働いた。

衛生署職員の不正は3ケ月ごとに住民を脅迫してコレラ予防注射をさせ、

その都度料金を取る事であった。・・・・

もっと大掛かりな汚職をやった日本人は変名で香港企業を買収した。

 

疎散政策や住民迫害に関する資料や証言や資料を続けます。

* 香港淪陥史 より

午前9時各家の人々は日本軍の規定によって主人を先頭に家の戸口の前に一列に並ばされ、

軍の検査を受けるために待たされた。・・・・

戸籍を取り出し、家族一人一人の名前を呼ぶ・・・・

その後、兵が家に立入って検査をするが、部屋の中をひっくり返し、

誰かをかくまっていないかを確かめると、金目の物を掴むと出て行った。

病人の老人が家の中で寝ていたりすると、表まで引っ張り出し、

挙句の果てに階段から突き落として殺してしまったり、

出産直後の母子が寝ていると同じように表に放り出した。

遠方に出かけて不在の人がいたりすると、逃げた抗日分子だとして一家を連れ去り拷問のあげく殺したり、

婦女は強姦されたりした。

またこの間に不注意で表を出歩いていたりすると、射殺されたりした。

少なく見積もっても調査中に殺された人は2,000人にのぼるという。

* 同じ香港淪陥史 より

1943年3月、日増しに深刻化する食糧不足の解決のために、町で多くの市民を捕らえ、

船で東沖に連れ出して海に投げ込んだりした。

この間、強制的に駆逐された中国人は毎日1,000人に及んだ。

* 謝永光さんの話 「戦時日軍在香港暴行」の著者

日本は謝っても、金を払っても、精算し切れないひどい事をやった。

香港を占領しなくても海上を封鎖すればイギリス軍は降伏したのに、必要のないことをやって犠牲者を出した。

人口150万を無理に減らそうとして、強制疎開をさせた。道をわずか100か200メ-トル位の間隔で封鎖して、

その間にいた男や女を捕まえると無人島に連行して捨てたりもした。

当然だが、親を失った子どもは飢えて死んだ。まるで地獄だった。

道路の脇のゴミの中に子どもの頭があったとか、人骨が捨てられていたとか・・・・

* 呉溢興さん(香港索償協会主席)

(1999年12月11日、戦争犯罪と戦後補償を考える国際市民フォ-ラムでの発言)

・・・・香港の人口は1941年以前には160万人であったが、1945年秋には60万人足らずになっていた・・・・

* 鏡和さん(現在日本の会社と取引があるため仮名)

日本軍が香港に入ったばかりの頃でしたよ。

日本軍が徴発した乗用車が路上でストップしてしまった。

車から降りた将校は、通りかかった30歳位の中国人に車を後ろから押すように言いつけた。

中国人が断ると大声で怒り出し、道路にひざまずいて謝っているのにピストルで撃ち殺してしまった。・・・・

別に罪を犯したわけではないのに・・・・

もう一つは、米の配給を受けようと待っていた時でした。

日本兵が海岸の桟橋に、中国人を後手に縛って座らせると、銃剣で突き殺して海に捨てたんです。・・・・

戦後、日本と仕事上の取引をするようになった時には心の中が複雑でした。

しかし商売が大事なので、不愉快な過去を押し殺して今までやってきました。

ところが無神経な日本人がいましてね。中国大陸で中国人を殺した体験をぽろっと口にするんです。

商売をうまくやるために本心を押えて我慢しましたよ。・・・・

あの時代の事は決して忘れませんよ。

* 錢福注さん

・・・・親から、日本兵に会ったら丁寧にお辞儀をするように躾けられましたよ。

それから日本兵とすれ違ってしまった時には「どんなに怖くても、

絶対に走るな」と厳しく教えられていました。

撃たれるからです。・・・・

日本軍の印象ですか?・・・・

言葉は悪いが、殺人鬼ですね。・・・・

あれから50年もたつんで大分薄らいでいるけど、

日本軍についての恐れと憎しみは完全に消し去る事は出来ませんよ。

* 陳炳財さん

・・・・叔父と叔母は日本軍に殺されてしまった。

箱を選んでいる時、日本軍は車で走りながら2人を銃撃して殺した。

面白半分に殺したんですよ。

叔父夫婦には14歳と6歳の子どもが2人いたけれど、その従兄弟たちも行方不明になり、

今でも生きているのか死んでいるのか分からない。

多分殺されたんだろうから、叔父の家は全滅したわけですよ。・・・・

1944年に父が死んでしまった。

もう頼る人がいなかったんで、とてもひもじい思いをしたよ。

芋の澱粉なんかはいいほうで、食える物は何でも食ったよ。

町には飢えて倒れた人が、あっちにもこっちにも転がっていた。

まだ生きている人もいたのに、ゴミを集めるトラックが来て、死体と一緒くたにして持っていった。

見たわけではないけど、死にそうな人の尻の肉を食ったという噂もあった。

* C・ダルマダさん イギリス籍で抗日義勇軍に入り捕虜になった

・・・・私は大尉だったけど、捕虜についてのジュネ-ブ条約に違反して、強制労働に狩り出された。

いまさら日本人に言ってもしょうがないけども、当時の日本兵は残酷だった。

たやすく人を殺した。

なぜ、あんな簡単に人を殺したのか理解できない。・・・・

町の人たちが潮干狩りにやってきた。

その時に、貝を取っていたおばあさんを射殺してしまった。

特に理由がなかったから面白半分にやったのだろうと思う。・・・・

カナダの赤十字から収容所の捕虜に毎月食糧を送って来たが、

私たちに配られたのは3年間にたった2箱半だった。

解放されて倉庫を見ると5万箱も残っていた。

もっと早く支給すれば飢えて死んだ人も助かったかもしれない。・・・・

日本人に言いたいことは、他人の命でも、かけがえのないものなのだから大事にして欲しい。

どこの国の人であろうが、人間の生命を大事に考えて欲しい。

 

戦後のBC級裁判の英国法廷では主として香港憲兵隊の裁判が行なわれ、123人が起訴され、25名が処刑されています。

内8名の憲兵隊関係者の罪名は「住民虐待致死」です。

 

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