大東亜共栄圏

マレ-シア・サンダカン死の行軍
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最終更新日:2015/01/17 11:45

サンダカンと言うと山崎朋子さんの「サンダカン八番娼館」や「からゆきさん」が有名です。

そのサンダカンに日本軍の捕虜収容所がありました。

1942年8月にはボルネオ島東北部「サンダカン」では

日本軍捕虜としてオ-ストラリア兵1,800人とイギリス兵700人の合計2,500人が集められ、飛行場建設が始まりました。

  9月2日、日本軍は捕虜の指揮官ヴォルシュ大佐に対し次の内容の契約書にサインさせました。

1    我々は日本軍の命令はどんな命令であっても、それを遂行するよう努力する

2    我々は逃亡を試みない

3    もし逃亡した場合、我々は銃殺されてもやむをえない

* 捕虜を強制労働につかせることは国際法上違法ではありませんでした。

   日本は1907年ハ-グで決められた「陸戦の法規慣例に関する条約」に批准していました。

       ・ 第6条 国家は将兵を除く外、俘虜をこの階級及び技能に応じ労務者として使役する事を得

  その労務は過度なるべからず

  また一切作戦行動に関係を有すべからず

1927年の「俘虜の待遇に関する国際条約」は調印したものの軍部の反対で批准をしていませんでしたが、

戦争開始後、連合国の求めに応じて、政府は陸軍省の了解を得て、

これらの条約を準用するとの外務大臣声明を発表しました。

条約には賃金を支払う事と、作戦行動に関係しない事が条件でしたので、

この飛行場建設は商用空港と言う名目にしました。

* 1904年に日本軍が定めた俘虜取扱規則には逃亡した俘虜は

    「必要の場合には之を殺傷すること」と書かれています。

    実際には必要の場合だけではなく、逃亡者は発見次第銃殺されていたようです。

 

この飛行場工事は1943年9月、戦況の悪化で賃金が支払われなくなり食糧や医薬品が底をついてきました。

* 生存者 キ-ス・ボッテリルの証言 (懲罰で重営倉に入った時の様子)

最初の7日間は食糧がまったく与えられなかった。

水も最初の3日間は貰えなかった。

3日目の晩になって水が与えられたが、今度は「水責め」でいやというほど水を飲むのを強制された。

7日目の晩から食事が与えられた。・・・・

毎晩棒や拳固で殴られたり蹴られたりした。・・・・

毎晩1回殴られた。蹴られるために檻の外に連れ出されたが、監視員たちはこれを「体操の時間」と呼んでいた。

40日間身体を洗う事が出来なかった。・・・・

身につけていたものはふんどし1枚きり、身体中蚤やしらみで一杯だった。

便所に行くのは1日1回「体操」の時だけ、檻の中に17人閉じ込められていた。・・・

話をする事は許されなかったため、お互いにささやきあった。

夜寝るときは身体を横たえる場所がなく、窮屈に身体を寄せ合って寝た。・・・・

 

1944年9月にサンダカンの飛行場はほぼ完成しましたが、2,500人の捕虜のうち、既に250人が死亡していました。

更に年末までに400人が死亡しました。

1945年4月には捕虜への米の配給は完全に停止しました。

アメリカ軍の攻撃で飛行場は使えなくなり、さらにアメリカ軍上陸の可能性が高くなったため、

動く事が可能な捕虜をボルネオ島西海岸のラナウに移す事が決定されました。

道のないジャングルと湿地帯で260キロの距離です。

捕虜はいくつかの班に分けられ、数回に分けて移動が行なわれました。

* 1回目の指揮をとる責任者は独立混成第25連隊第2部隊の山本正一大尉です。

捕虜は370人がオ-ストラリア兵、100人がイギリス兵です。

1945年1月29日、第1班として55人のオ-ストラリアの兵と40人の日本兵が出発し、

最後の第9班は2月6日に出発しました。

ラナウに着いた時には70人が死亡していました。

* 2回目は5月29日、隊長高桑卓男大尉の指揮で、536人の捕虜が11班に分かれて出発しました

   オーストラリア兵439人、イギリス兵97人です。

* 3回目は6月9日、岩下少尉の指揮で75人の捕虜と37人の日本兵が出発しました。

   この班は日本兵の一人を除いて全員(日本兵も)がジャングルの中で全滅しました。

 

捕虜の移動では、歩けなくなった者から銃殺されていったようです。

6月9日の時点でサンダカンに残っていた病人は185人となりました。

7月12日、50人まで減ったところで23人を銃殺し残りは自然に死んでいきました。

移動したラナウでは8月1日、高桑大尉が生き残っていた捕虜全員を銃殺しジャングルの中に埋めました。

結局当初2,500人だったオ-ストラリアと英国の捕虜で生き残ったのはわずかに6名で、

死亡率は99%以上になりました

 

この事件の証言です。

* キ-ス・ボッテリル 生き残りの1人

2日か3日おきに1人か2人の捕虜が取り残された。

朝起きたとき病気で動けなくなった者は、豪州軍捕虜の班長にもうついて行けないことを告げた。

すると日本軍の軍曹か士官が残りの捕虜の数を数えてから出発させた。

そして0.5マイルほど行った所で我々は銃声を聞いた。

日本軍士官は我々捕虜の班長に落伍した者は銃殺するより仕方がないと告げた。

行進中に疲れてついて来られず落伍した者もしばしば日本兵に銃殺された。・・・・

ポト附近の大きな山を登っている時に5人の仲間を失った事を覚えている。

彼等は銃殺されたが、その内の2人が日本兵に銃殺されたのは私自身が目撃した。

* 遠藤**の戦後の証言  阿部一雄中尉の命令で捕虜を殺害した

病気になって行進を続けられなくなった捕虜は殺せという指示を阿部中尉から受けました。・・・・

ポトを離れてまもなく、またもう1人の捕虜が行進を続けられなくなりました。・・・・

佐藤2等兵と私がその捕虜を道の横のジャングルに連れ込み銃殺しました。・・・・

私はその次に落伍した5人に付き添いました。

阿部中尉から受けていた命令は彼らを殺せという事でしたが、私にはとても出来なかったため、

食糧や水も与えず彼らを置き去りにして死なせました。・・・・

今から振り返ってみると、これらの捕虜は病気で衰弱しきっていたため、

銃殺して埋葬した方がはるかに人道的であったかとも感じます。

* 台湾人監視員の証言

・・・・第2回目に私は1人の捕虜を殺しました。・・・・この殺害は辻の命令でやりました。

私は辻が捕虜を殺したのは見た事がありませんでした。

福島も臆病そうに捕虜の名前を記録するだけで誰も殺しませんでした。

高桑や渡辺が捕虜を殺したのも見た事はありませんでした。

台湾人監視員はごく数人の病気の者を除いて全員この特別任務に

順番に携わらなければなりませんでした。・・・・

* ウォン・ヒョン  サンダカン収容所台所の料理人  地元中国人   当時19歳

捕虜は十字架を背にして立たされ、「ヒナタ」が彼を押さえつけました。・・・・

日本人士官は右手に金槌を持って踏台の上に立ちました。

彼は捕虜の左腕を持上げて左手の甲に釘を打ち付け、

左腕を肩の高さと同じになるように張りつけました。・・・

捕虜は身体をくねりあげて叫び声を出しましたが、ヒ

ナタが捕虜の身体を持上げるようにして十字架に押さえつけ、

布切れを捕虜の口に押し込みました。

士官は・・・・右手を同じように十字架に張り付けました。・・・・

それから捕虜の足を2本の釘で・・・・木の板に張り付けました。・・・

大きな釘を捕虜の額に打ち付けて頭を張り付けました。

日本人士官はナイフを持って捕虜の左側の腹部から肉を一片切り取り、

その肉をそばにあった木の板の上に置きました。

それから彼は捕虜の右側の腹部からも肉を少し切落とし、それを同じ木の板の上に置きました。

それから彼は自分の右手にゴム手袋をはめ、

捕虜の内臓を取り出してこれも同じ木の板の上に置きました。

再びナイフを持ち、今度は捕虜の両腿、両足、首からも

少しずつ肉を切り取ってそれらも板の上に置きました。

 

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