大東亜共栄圏

インドネシア占領と大量動員
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最終更新日:2014/09/23 9:50

インドネシアは非常に広大な面積です。

ジャワ島を中心にスマトラ、ボルネオ、セレベス、チモ-ルその他多くの島々と民族で成り立っています。

そのほとんどがオランダ領で石油、ボ-キサイト、ニッケル、マンガン等の産地でした。

日本はこれらの資源を「重要国防資源」として獲得するための一環としてインドネシアを占領したのです。

 

1941年(昭和16年)11月18日、岩国にある海軍航空隊で、寺内寿一陸軍大臣と山本五十六海軍大臣、

その他両軍の作戦関係司令官や幕僚が参加して、南方作戦に関する陸海軍協定が交わされ、

協定は「占領地軍政実施に関する陸海軍中央協定」(昭和16年11月26日決定)として

同日陸軍大学校にて調印されました。

1941年12月に攻撃を開始した日本軍は次々とインドネシアの各島々を占領していきました。

オランダ軍は1942年3月4日、バタビア(ジャカルタ)から撤退し、

日本軍は協定によって陸軍がジャワとスマトラ、

海軍がボルネオと東インドネシア地域の占領地統治を始めました。

第16軍が3月1日に55,000でジャワ島に上陸を開始し、軍政が3月7日から始まりました。

* 軍政の簡単な分担

      ・ スマトラは陸軍第25軍

      ・ ジャワは陸軍第16軍

      ・ その他の島は海軍の統治

      ・ 軍政の長官は軍司令官か艦隊司令長官がなり、全ての命令を出す権限を持っていました。

        各地の占領地には司令部があり、その中に軍政部(後に軍政監部)が置かれました。

        軍政監には軍・艦隊の参謀長がなりました。

 

1942年12月8日、バタビアはジャカルタと改名されました。

日本軍は侵攻作戦の途中で放送を通じて「日本はオランダの支配からインドネシア民族を解放するために

戦う」と宣伝し、オランダ時代には禁止されていた民族歌(インドネシアラヤ)を流し民族意識を高揚させました。

また民族旗(現在の国旗)も沢山準備しました。

そのためオランダの植民地だったインドネシアの人々は、最初は日本を解放者として歓迎、信じました。

日本に期待したインドネシアの人々はすぐにでも独立できるものと錯覚し、

新政府の閣僚名簿まで作成して発表した新聞もありました。

* チャハヤ・ティム-ル紙  1942年3月13日

       首相    アビクスノ・チョクロスヨソ

       副首相   スカルノ

       外務大臣  スジョノ

しかし日本軍は占領を完了すると次々と布告を出し、逆に全ての政党を解散させ、民族旗や民族歌を禁止し、

日の丸や君が代を強制したため住民からの信頼は失われていきました。

* 布告第1号  1942年3月7日  原文カナ

        第1条 大日本軍は同族同祖たる東印度民衆の福祉増進を図ると共に大東亜共同防衛の原則に準拠し

      現地住民と共に共存共栄を確保せんことを期し

      差し当たり東印度の治安を確立し民衆をして速やかに安住楽業せしめんが為に

      東印度占領地域内に軍政を施行す

        第2条 大日本軍司令官は総督の職権を行使す

        第3条 占領地に於ける在来の行政諸機関、

      其職域権限及び諸法令の規定は軍政施行のため特に障害たらざる限り、

      差し当たり引き続き有効とす

        第4条 官民は大日本軍及び大日本官憲の命令を遵守すべし

黄色線のところをみると、布告第1号ではまだ住民を尊重しているように見えますが、

その後は矢継ぎ早に厳しい布告が出されるようになります。

* 布告第2号  1942年3月8日

        結社・集会の禁止

* 布告第3号及び布告第4号  1942年3月20日

        政治的な言論・言語・言動示唆・宣伝活動の禁止

        祝日等には日本国旗のみを掲揚する

* 布告第16号  1942年5月25日

        言論・出版機関の自由な活動の禁止

 

1943年5月の御前会議でジャワ・スマトラ・セレベス・マライ・ボルネオは帝国領土にする事が決定されました。

結局は独立させる気はなかったのです。

スマトラから石油が供給され、ジャワからは米が日本に供給されるようになりました。

* 米の供給

米を日本に供給するためには、耕作面積の拡大が絶対命令でした。

その為にジャワの森林が15,000ヘクタ-ルも伐採されたといわれています。

それらの工事に多くの労務者が連行されました。

1943年から米の強制供出が徹底され、30%を日本軍政監部に供出し、残りの30%は備蓄、

残った米がジャワの人々の生活に回されました。

しかしこれはあくまでも日本軍が発表した数字で、実際には大部分が軍に取られたという証言もあります。

 

このように日本軍は民衆の活動を厳しく制限した上で、戦争協力の為に最大限に動員する政策をとりました。

* 三亜(三A)運動

占領直後最初の大衆運動で、三亜運動又は三A運動と呼ばれました。

三亜とは  アジアの光日本!

   アジアの保護者日本!

   アジアの指導者日本!

この運動はサムスディンというインドネシア人を表面的に立てていましたが、

推進母体は日本陸軍の宣伝部でした。

       ・ 宣伝部に所属した日本の文化人たち

           大宅壮一、阿部知二、横山隆一、武田麟太郎、松井翠声、北原武夫・・・・

       ・ 大宅壮一氏は、大邸宅を接収して高級慰安所を2ケ所経営していたそうです。

              白馬会-オランダ系女性を置いた

              黒馬会-インドネシア系女性を置いた

 

この運動では、凡ての住民に毎朝、皇居の方向に向かって身体を90度曲げて最敬礼し、

天皇に敬意を表す事が義務付けられました。

* プ-トラ(住民総力結集運動)

三亜運動は露骨に日本中心過ぎたため住民の共感をあまり得られませんでした。

そのため次にインドネシア人の民族主義者を全面に出して大衆運動を組織する事にしました。

1943年3月9日、ジャワ占領1周年記念日にプ-トラは組織されました。

日本軍に協力させられた民族主義者は通称四葉のクロ-バ-と言われました。

メンバ-はスカルノ、デワントロ、ハッタ、マンス-ルの4人で、

プ-トラの会長にはスカルノが、副会長に他の3人が就任しました。

 

日本軍は民族主義者をうまく利用しようとし、民族主義者は将来の独立のために日本を利用しようとし、

うまく行く筈でしたが結局は成功しませんでした。

* ジャワ奉公会

今度は日本人、混血民族、華僑、その他全住民を対象にした組織が出来ました。

日本の大政翼賛会、満州の協和会、中国の新民会を真似して作った組織です。

軍政監が総裁に、スカルノが中央本部長に就任し、

日本からは大政翼賛会、国防婦人会、新民会等の指導者が職員に任命されました。

・ ジャワ奉公会の規約

1        軍政奉仕の率先実施

2        万民親和による軍政奉仕の指導

3        防衛強化

4        戦時生活態度強化

5        人民救護補導

6        他

日本軍はジャワ奉公会を中心に「隣組」「婦人会」「青年道場」「青年団」「警防団」・・・・等を

組織して大量動員を行ないました。

その後、1943年10月には兵補(後述)、さらにより軍事的なペタ(ジャワ防衛義勇軍)が作られました。

このペタは純然たる軍事組織で、終戦までに38,000人以上の人数になったといわれています。

これらの組織の中でペタのような軍事的組織が戦後すぐのインドネシア独立の中心になったため、

日本人の中にはインドネシア独立は日本のおかげだと主張する人がいますが、

単にたまたまそうなっただけであって、

インドネシアの人々が日本に支配されながらも独立のチャンスを狙っていたとするのが妥当だと思います。

* イディン・ワンサ・ウイジャヤの証言  1986年3月12日

・・・・多くの青年がセイネンダン、ヘイホそしてケイボウダンなどに入りましたが、

そのことは私たちが親日だったということを意味しないと確信します。

ですから私たちはうわべだけ親日だったのです。・・・・

ですから、日本に何か功績があるとすれば、彼らを軍隊式に鍛えただけです。

大量動員ではさらに豊富な労働力を労務者(ロ-ムシャ)として強制労働に狩り立てたり、

軍隊の補助として兵補にしました。

 

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