大東亜共栄圏

ティンブンケ村の虐殺
記事専用プリント対応ページ

最終更新日:2014/05/10 10:48

ティンブンケ村はパプアニュ-ギニアの大河セピックの流域にある村です。

1943年戦況が悪化した為、大本営はラバウル防衛の理由で

第18師団(司令官安達中将)をニュ-ギニア本島各地に侵攻させました。

1944年5月頃、第41師団歩兵第239連隊第4中隊(隊長・浜政一大尉)はティンブンケを占領しました。

ティンブンケ村の村民がオ-ストラリア側のスパイになっていると思い込んだ浜大尉は、

住民に対する報復として虐殺を計画しました。

7月14日のことです。

* 虐殺の経緯

・ 「戦いがすんだから出てくるように」とコログ村の住民を使って宣伝した

          注: コログ村は親日的でティンブンケ村と対立していた

・ 呼びかけを信じてティンブンケ村の人々は森から村へ戻って来た

・ 浜大尉は女、子ども、老人を家の中にいれ衣服を脱がせ数珠つなぎにした

・ 爆撃で出来た穴の近くに座らせ、虐殺の最初の見せしめの儀式として、

  2人に浜大尉自身が刀をふるい、頭と右腕を一気に切り離した。

  1人終わるごとに釜で熱した湯の中で刀を洗った

・ 小林曹長が同様に他の2人を斬った

・ 浜大尉は数珠つなぎになった多数の男たちへの襲撃をコログ村の男たちに命じた

・ 斧、弓、ナイフで襲撃がなされた

・ 浜大尉の命令で日本兵は機関銃の一斉射撃をした

このようにして男性99人、女性1人が虐殺されました。(名簿も残っているそうです)

更に夕方になって、日本兵は女たちを外に並ばせ、コログ村の男たちに強姦を命じました。

子ども達の目の前で65人の女たちが強姦されコロク村に連行されました。

子ども達が釈放されたため、事実が明らかになってきたのです。

* 首謀者浜政一大尉の手記 「パプアニュ-ギニアの大虐殺を命令したのは私だった」

                                 雑誌「丸」1972年3月号

・・・・連合軍の投下した爆弾の着弾跡の一つを集団虐殺の執行場所に選び、住民をその穴の周辺に並ばせた。

重機関銃1挺、軽機関銃3挺を持った約30人の日本兵が、原住民の列から離れて一列横隊に並んだ。

いよいよ発砲という時、草野軍医中尉が私のそばに歩み寄って重い口を開いた。

「中隊長、いくら仇討とはいえ、非戦闘員を銃殺するのだけは中止してください。」

私の心はこの諫言に一瞬ゆらいだ。・・・・

私は予定通りに虐殺を決断、・・・・ダダダダ・・・・重機がうなった。

原住民の群れが血しぶきをあげて倒れ、穴の中にころがり落ちる。

草原は一瞬にして地獄図と化し、アッと言う間に惨劇は終わった。

 

1994年に2人の村民が日本政府に「謝罪・個人補償請求」を出しましたが、日本政府は拒否しました。

但し「ODAの援助を願えば、ODAで道や橋を作ることにやぶさかではない」との事でした。

 

「ガブリエル・ラクさんの調査」

   ラクさんはティンブンケ村の事件で日本政府に要望を出した2人の内の1人です。

日本政府の対応に意を決したラクさんはティンブンケ村だけではなくその周辺も含めて調査を開始しました。

その調査経過です。

   * セビック河の中流・下流域(アンゴラム、ティンブンケ、タンブヌン他)

       日本兵責任者名    ハマ、ヤマサキ、ムラナカ、ヤマダ

       殺害された人数(集団虐殺を含む)  175人

       性的犠牲になった女性           227人

[証言]

タンブヌンでは75人(カングアバリ部族とボウイ部族)の10代の少女たちが

朝6時から夜6時までコックとして働かされました。

また午後には日本兵に呼ばれセックス奉仕をさせられました。

* セビック河の上流域(アンブンティ他)

       日本兵責任者名     タワダ、ハマタニ

       殺害された人数                         38人

       性的犠牲になった女性         4人

* ガウイ平原・マブリック地域(トリセリ山系南部とプリンス・アレクサンダ-山系南部)

       日本兵責任者名    カミサワ、モリタ、イヌカイ、カワカミ

       殺害された人数                      305人

         (内、人肉食犠牲者      219人)

       性的犠牲になった女性          5人

[証言]

・ ガウイ平原での人肉食犠牲者の1人は、ココナツの実を乾燥させたコプラを集める袋に入れられました。

   袋の外から銃剣でめった突きにされました。

   そして身体の各部分を切り取られ、煮られて日本兵に食べられたのです。・・・・

・ マブリック地域での人肉食犠牲者の1人は、木の上に吊るされたままで、

  日本兵に部分部分を切り取られて食べられました。

・ ガウイ平原の17歳のグライ・ジェンダンビさんは、身体をかがめて頭を埋られた後に、

  日本兵によって後ろから強姦され殺されました。

・ ガウイ平原ウクタカ村のサクア・シリキサさんは、日本兵にレイプされた後、

  木に縛られ足を広げさせられ、棒を股間に突き刺された。

  (彼女が死ぬまで)肉を切られ、山分けにされ食べられた。

* ウエワク、ヤンゴ-ル地域(プリンス・アレクサンダ-山系東南部)

       日本兵責任者名  ムラヤマ、オカノ、ハラダ、ヤマモト

       殺害された人数                   22人

(内、人肉食犠牲者      13人)

[証言]

ウエワクの海岸近くの畑で16歳のベロニカさんという少女は両親の目の前で連れ去られました。

日本兵は彼女を殺し、死体を民家に吊るし、肉を切り取ってポットで煮て食べました。

必死になって少女を捜し尋ねた両親が見たものは、吊るされたままの娘の肢体の残骸と骸骨でした。

両親によって少女の骨は埋められました。

 

「オーストラリアによる裁判」

   戦後オーストラリア政府は戦争犯罪を裁く軍事裁判所を開きました。

そこでは200件以上の裁判が開かれましたが、その内日本軍に関するものは、

ラバウル、香港、マヌスで開かれた42件の事件です。

その内のいくつかの事件です。

* ナウル島

1943年7月9日頃、海軍警備隊司令官の命令で、現地のハンセン氏病院の患者約20名が小船に乗せられ、

銃撃を受けて殺害されました。生存者は水中で射殺されました。

* カビエン

1944年3月17日頃、海軍管理下の民間抑留者、オ-ストラリア人23名とカトリック司祭者9名の32名は

海に連れ出され、

1人ずつ縄で絞殺され、遺体は重石を付けられ海に投げ捨てられました。

* ニュ-ブリテン

1944年9月、プナリマで第6野戦憲兵隊が原住民18名と混血男性1名を

サボタ-ジュ、火器の所持、連合国協力等の容疑で逮捕しました。

結局18名が首を斬られて殺害されました。

* オーシャン島(ギルバ-ト群島)

1945年8月20日頃、日本海軍第67警備隊は、200名の原住民を集めて戦争終結を通告した後、

5班に分けて岸壁で銃殺し、遺体は重石を付けて海に投げ捨てました。

        注:8月15日の敗戦後に起こした事件です。

  国として国際法違反です

 

タグ:

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

ご意見・ご感想はこちらへ ※個人情報の取り扱いについて

お名前 (必須)

メールアドレス ※返信をご希望の方はご記入ください

メッセージ本文