ティンブンケ村の虐殺

ティンブンケ村はパプアニュ-ギニアの

大河セピックの流域にある村です。

1943年戦況が悪化した為、大本営はラバウル防衛の理由で

第18師団(司令官安達中将)を

ニュ-ギニア本島各地に侵攻させました。

1944年5月頃、

第41師団歩兵第239連隊第4中隊(隊長・浜政一大尉)は

ティンブンケを占領しました。

ティンブンケ村の村民がオ-ストラリア側の

スパイになっていると思い込んだ浜大尉は、

住民に対する報復として虐殺を計画しました。

7月14日のことです。

 

●虐殺の経緯

 ☆「戦いがすんだから出てくるように」と

  コログ村の住民を使って宣伝した

   注:コログ村は親日的でティンブンケ村と対立していた

 ☆呼びかけを信じてティンブンケ村の人々は

  森から村へ戻って来た

 ☆浜大尉は女、子ども、老人を家の中にいれ

  衣服を脱がせ数珠つなぎにした

 ☆爆撃で出来た穴の近くに座らせ、

  虐殺の最初の見せしめの儀式として、

  2人に浜大尉自身が刀をふるい、頭と右腕を一気に切り離した。

  1人終わるごとに釜で熱した湯の中で刀を洗った

 ☆小林曹長が同様に他の2人を斬った

 ☆浜大尉は数珠つなぎになった多数の男たちへの

  襲撃をコログ村の男たちに命じた

 ☆斧、弓、ナイフで襲撃がなされた

 ☆浜大尉の命令で日本兵は機関銃の一斉射撃をした

 

このようにして男性99人、

女性1人が虐殺されました。

 (名簿も残っているそうです)

更に夕方になって、日本兵は女たちを外に並ばせ、

コログ村の男たちに強姦を命じました。

子ども達の目の前で65人の女たちが強姦され

コロク村に連行されました。

子ども達が釈放されたため、

事実が明らかになってきたのです。

 

●首謀者浜政一大尉の手記 

「パプアニュ-ギニアの大虐殺を命令したのは私だった」

雑誌「丸」1972年3月号

 ・・・・連合軍の投下した爆弾の着弾跡の一つを

 集団虐殺の執行場所に選び、

 住民をその穴の周辺に並ばせた。

 重機関銃1挺、軽機関銃3挺を持った約30人の日本兵が、

 原住民の列から離れて一列横隊に並んだ。

 いよいよ発砲という時、

 草野軍医中尉が私のそばに歩み寄って重い口を開いた。

 「中隊長、いくら仇討とはいえ、

 非戦闘員を銃殺するのだけは中止してください。」

 私の心はこの諫言に一瞬ゆらいだ。・・・・

 私は予定通りに虐殺を決断、・・・・

 ダダダダ・・・・重機がうなった。

 原住民の群れが血しぶきをあげて倒れ、

 穴の中にころがり落ちる。

 草原は一瞬にして地獄図と化し、

 アッと言う間に惨劇は終わった。

 

1994年に2人の村民が日本政府に

「謝罪・個人補償請求」を出しましたが、

日本政府は拒否しました。

但し「ODAの援助を願えば、

ODAで道や橋を作ることにやぶさかではない」との事でした。

 

「ガブリエル・ラクさんの調査」」

ラクさんはティンブンケ村の事件で

日本政府に要望を出した2人の内の1人です。

日本政府の対応に意を決したラクさんは

ティンブンケ村だけではなくその周辺も含めて

調査を開始しました。

その調査経過です。

●セビック河の中流・下流域

    (アンゴラム、ティンブンケ、タンブヌン他)

 日本兵責任者名 ハマ、ヤマサキ、ムラナカ、ヤマダ

 殺害された人数(集団虐殺を含む)  175人

 性的犠牲になった女性        227人

 [証言]

  タンブヌンでは75人(カングアバリ部族とボウイ部族)の

  10代の少女たちが

  朝6時から夜6時までコックとして働かされました。

  また午後には日本兵に呼ばれセックス奉仕をさせられました。

●セビック河の上流域(アンブンティ他)

 日本兵責任者名  タワダ、ハマタニ

 殺害された人数                38人

 性的犠牲になった女性      4人

●ガウイ平原・マブリック地域

(トリセリ山系南部とプリンス・アレクサンダ-山系南部)

 日本兵責任者名    カミサワ、モリタ、イヌカイ、カワカミ

 殺害された人数                      305人

    (内、人肉食犠牲者      219人)

 性的犠牲になった女性          5人

 [証言]

  ☆ガウイ平原での人肉食犠牲者の1人は、

   ココナツの実を乾燥させた

   コプラを集める袋に入れられました。

   袋の外から銃剣でめった突きにされました。

   そして身体の各部分を切り取られ、煮られて日本兵に食べられたのです。・・・・

  ☆マブリック地域での人肉食犠牲者の1人は、

   木の上に吊るされたままで、

   日本兵に部分部分を切り取られて食べられました。

  ☆ガウイ平原の17歳のグライ・ジェンダンビさんは、

   身体をかがめて頭を埋られた後に、

   日本兵によって後ろから強姦され殺されました。

  ☆ガウイ平原ウクタカ村のサクア・シリキサさんは、

   日本兵にレイプされた後、

   木に縛られ足を広げさせられ、

   棒を股間に突き刺された。

   (彼女が死ぬまで)肉を切られ、山分けにされ食べられた。

●ウエワク、ヤンゴ-ル地域

(プリンス・アレクサンダ-山系東南部)

 日本兵責任者名  ムラヤマ、オカノ、ハラダ、ヤマモト

 殺害された人数                   22人

  (内、人肉食犠牲者        13人)

 [証言]

  ウエワクの海岸近くの畑で

  16歳のベロニカさんという少女は

  両親の目の前で連れ去られました。

  日本兵は彼女を殺し、死体を民家に吊るし、

  肉を切り取ってポットで煮て食べました。

  必死になって少女を捜し尋ねた

  両親が見たものは、

  吊るされたままの娘の肢体の残骸と骸骨でした。

  両親によって少女の骨は埋められました。

 

「オーストラリアによる裁判」

戦後オーストラリア政府は

戦争犯罪を裁く軍事裁判所を開きました。

そこでは200件以上の裁判が開かれましたが、

その内日本軍に関するものは、

ラバウル、香港、マヌスで開かれた42件の事件です。

その内のいくつかの事件です。

 

●ナウル島

 1943年7月9日頃、海軍警備隊司令官の命令で、

 現地のハンセン氏病院の患者約20名が小船に乗せられ、

 銃撃を受けて殺害されました。

 生存者は水中で射殺されました。

●カビエン

 1944年3月17日頃、

 海軍管理下の民間抑留者、

 オ-ストラリア人23名とカトリック司祭者9名の32名は

 海に連れ出され、

 1人ずつ縄で絞殺され、

 遺体は重石を付けられ海に投げ捨てられました。

●ニュ-ブリテン

 1944年9月、プナリマで

 第6野戦憲兵隊が原住民18名と混血男性1名を

 サボタ-ジュ、火器の所持、

 連合国協力等の容疑で逮捕しました。

 結局18名が首を斬られて殺害されました。

●オーシャン島(ギルバ-ト群島)

 1945年8月20日頃、日本海軍第67警備隊は、

 200名の原住民を集めて戦争終結を通告した後、

 5班に分けて岸壁で銃殺し、

 遺体は重石を付けて海に投げ捨てました。

  注:8月15日の敗戦後に起こした事件です。

    国として国際法違反です