アンダマン・ニコバル諸島の事件

  注:木村宏一郎氏の論文を参考にしています。

インドよりもむしろマレ-半島に近いところに

インド領のアンダマン・ニコバル諸島があります。

北がアンダマン諸島、

南がニコバル諸島と呼ばれています。

その中間位置にカ-ニコバルという島があります。

英国の植民地からの

独立運動がインドに起きていたため、

当初住民は日本軍に好意的だったようです。

日本政府もインド独立を後押ししていました。

 

1942年2月7日

「大海命第15号」によって

攻略作戦が発表されたのを受けて、

寺内嘉一南方軍総司令官と

小澤次三郎第1南遣艦隊司令官が

アンダマン攻略D作戦を決定しました。

更に小澤司令官は第25軍山下司令官と

具体的な作戦を決定しました。

目的は「アンダマン付近の要塞を占領し

速やかに海軍基地及び飛行場を確保する」ということでした。

3月から6月にかけて、

アンダマン諸島、ニコバル諸島を次々と占領し、

1942年6月14日には

カ-ニコバル島を無血占領しました。

しかしその後戦況が悪化し

連合軍特に英国軍の反響が予想された頃、

食糧不足の中で事件は起きました。

 

「アンダマン諸島」

1944年に入ると制空権、制海権を

奪われた日本軍は孤立した状態になっていました。

アンダンマンの海軍ポ-ト・ブレア基地は

次の様な状況でした。

 

●近歩三史(近衛歩兵第三連隊史)から

 2月ころの時点においては海軍にも

 掃海艇1隻を残すのみとなって、

 制空権、制海権共に

 連合軍の手に落ちてしまったのである。

 従って離島への兵器、弾薬を含む

 各種資材や物資及び食料等を運ぶ

 貨物等は次々と撃沈される破目となり、

 このような状況で大型船の輸送は同年9月以降全く途絶した・・・・

 

前年1943年1月、

英国軍の軍人がスパイ活動の為に

潜水艦でアンダマン島に上陸し活動を始めた。

そして日本軍協力者の中に

英国のスパイがいるとのニセ情報(?)を流しました。

そのため日本軍は多くのインド独立連盟のメンバ-や

住民を630人以上逮捕し、

拷問・銃殺で多くの犠牲者を出しました。

人数は50名以上といわれています。

 

その後東条首相は反省(?)からか

アンダマン・ニコバル諸島を

自由インド仮政府とする約束をしています。

 

●東条首相の声明 1943年11月7日 毎日新聞 意訳

 ここに独立の第一歩として目下、

 英国軍において占領中のインド領たる

 アンダマン・ニコバル諸島を近く、

 自由インド仮政府に帰属せしむる用意ある・・・・

 

「カーニコバル島」

ニコバル島は1つの村に

平均60から100位の家があり、

その村が15くらいあったそうです。

日本軍は1942年6月14日に無血占領しました。

1944年になり英国軍の反撃が予想され、

最終的にカ-ニコバル島の防衛に当ったのは

第36独立混成旅団(旅団長・齋(いつき)俊男少将)、

その他の陸軍部隊と海軍部隊でした。

総勢6000~7000名といわれています。

当然食料は不足してきます。

 

●海軍中尉 小沢一彦の話

 日本軍・官民・現地人合わせて

 27,000人にもなるので、

 どうしても年間2,000トンの米が必要なのですが、

 島内では400トンしか出来ません

 (注:人口の内日本軍関係者は6,000~7,000人と言われている)

 

●片岡源三郎回想

 昭和20年はどのように明けたにか

 全然思い出せないが、

 食料の状況は相当深刻になった。

 量が極端に減って明けても暮れても

 朝、昼、晩、乾燥味噌に乾燥野菜の単調な上に

 量感も消えている・・・

 

●印度洋殉難録 城地 良之助 意訳

 ・・・・海軍民生部においては、

 こんな非常時に備えて要注意人物約200余名を

 ジャングル内の避難所へ集める計画であり、

 この際これを実行した。

 200名中には印度人70余名、

 残余は総村長を始めニコバル人の

 総指導者階級(全島15の村に分つ)で、

 名は避難所であったが多

 分に軟禁所の役割をなすものであった。

 ところが7月5日になって

 陸軍の某部隊から現地住民を挙動不審という理由で

 約10名送ってきたのここへ収容した。

 次いで某部隊から米泥棒といって2人を送って来たので

 かれらの家を襲って捜査すると

 信号に用いたランプと石油缶が出てきたので、

 民生部の鷲見大尉はこれを陸軍司令部に報告すると、

 参謀は殺してしまえと言って電話を切ってしまった。

 ・・・・7月になると

 スパイ事件の本格的検挙と

 下調べが着手され事件は芋蔓式に拡大した。

 ・・・海軍側より死刑は数名に留めるよう

 希望を付したが旅団司令部はこれを一蹴し、

 軍律裁判の結果、

 7月28日第1回目40数名を、

 8月6日第2回目、8月12日には第3回目を

 各隊で極秘裏に処刑し、総数70余名の多きに至った。

 

●戦争 血と涙で綴った証言 朝日新聞テ-マ談話室編 意訳

 刑場の周囲に二重の兵哨線を引いて

 秘密裏に行なわれました。

 立ち木に縛られたスパイは目隠しをされ、

 その前に死体を埋める穴が掘られました。

 まず銃による一斉射撃、

 次に兵の度胸試しの銃剣刺殺、

 帯刀者の首の試し斬りと続きます。

 その時バケツを持った数名が走り寄り、

 死体の腹を切り裂いて内臓を取り出しました。

 軍医の執刀による肝臓の摘出です。

 その冷徹な行動にはただ目を見張るばかりでした。

 取り出した肝臓は密かに、

 熱病に伏す兵らの食事に供せられたといいます。

 病兵の1人は、あのころ肉入りを

 不思議に思いながら食べたそうです。

 ・・・・その後、敗戦となり英軍進駐が伝えられると

 にわかに大きな穴1つに混埋した

 スパイの死体処理が問題となった。

 死体を掘り出して、1人1人の墓を作る。

 手厚く葬ったことが分かれば

 スパイ処刑の罪も軽減に効くだろうと

 意図した師団幕僚の命令で、

 遺体発掘が行なわれた。

 地下足袋にゲ-トルを巻いた足が

 膝まで血と腐肉を吸い込んだ土に埋まる。

 腐臭はマスクを通して五体にしみとおる。

 目を覆わずにはいられない。

 腐乱した死体を1日中かかって掘り起こし、

 1人ずつの墓をこしらえて作業を終わった。

 終了後ドラム缶に消毒液を放り込み

 白濁した湯をいくら浴びてもしみこんだ腐臭は消えず、

 罪悪感を一層つのらせるものとなった。

 

●バンディ氏からの聞き取り証言 拷問の様子

 背中を打つ、紙に火をつけ足先から焼く、

 熱湯をかける、指の爪にピンを刺しロウソクで熱す、

 ナイフで大腿部を切り塩をすりこむ、

 テ-ブルに寝かせて目と目の間に水をたらす、

 というものであった。

 

●デリン・シン議長の様子 証言

 ある日彼は鉄製の椅子に座らされ、

 下から火を燃やされた。

 他には手足をしっかり縛り

 バケツ一杯の水を口に注ぎ込んだ。

 彼らは数時間ひたいに1滴ずつ水を注いだ。

 これは彼らが新たに考案した

 最大の苦痛をもたらす方法であった。

 

現地住民やインド人の死亡者は次の通りです。

 

●齋俊男少将の報告書、ニコバル人46人、インド人39人 合計85人

●裁判の中のリチャ-ドソン証言、91人

 

1946年3月11日から、

総村長や多数の住民の告訴を受けて、

英国軍は戦犯としてB・C級裁判で

日本人軍人を裁きました。

 

「英国のB・C級裁判」

日本軍人の被告は次の通りです。

 陸軍 齋俊男少将以下 13名

 海軍 上田光治大佐以下 3名

その結果、総司令官齋俊男以下6名が死刑となりました。

その中には軍人ではなく台湾人軍属の安田さんが含まれていました。

●死刑判決者

氏名

所属

階級

判決

齋俊男

陸軍

総司令官少将

銃殺刑

喜多富夫

陸軍

准尉

絞首刑

松岡八郎右衛門

陸軍

曹長

絞首刑

木村久夫

陸軍

上等兵

絞首刑

内田正博

軍属

通訳

絞首刑

安田宗治

軍属

通訳  台湾人

絞首刑

  注:この裁判の数字はBC級裁判集計の

    イギリスのシンガポ-ルの集計に含まれています。

 

この地域ではこれら以外に合計34の事件が戦後裁かれ、

後に減刑はあるものの50名近い死刑判決が出ています。