大東亜共栄圏

戦後賠償とゼネコン
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最終更新日:2014/05/10 12:39

 1951年9月にアメリカとイギリスが中心になって日本を含む参加49ケ国(連合国)で

サンフランシスコ講和条約が結ばれ、戦争の整理がされました。

対日講和をめぐってはアメリカとイギリスの意見がなかなか一致しませんでした。

アメリカは日本の戦争責任をあまり追及せず(損害賠償の請求権放棄)日本の早期独立を望んでしました。

東西冷戦を睨んで日本の国力をあまり低下させずにアメリカ側に付かせるためでした。

これに対してイギリスをはじめとする他の国は反対しました。

中国の取扱に関してもアメリカは蒋介石の中華民国を支持し、イギリスは中華人民共和国を支持しました。

その結果講和条約には、両方の中国、ビルマ、インド、ユ-ゴスラビアは参加せず、

ソ連、チェコ、ポ-ランドは調印を拒否しました。

特に一番迷惑を掛けた中国が招聘すらされなかった事は大きな問題でした。

その後アジアの国々は日本との個別折衝で賠償交渉が始まりました。

 

   * 賠償等の対外支払い  28ケ国   単位 億円

国名

調印年

賠償

準賠償

各種請求権

合計

ビルマ

1955

720

612

1,332

スイス

1955

12

12

平和条約第16条

1955

45

45

タイ

1955、62

96

54

150

デンマ-ク

1955、59

7.23

7.23

オランダ

1955

36

36

フィリピン

1956

1,980

1980

スペイン

1957

19.8

19.8

フランス

2957

16.728

16.728

スェ-デン

1957

5.05

5.05

インドネシア

1958

803.088

636.876

1,439.964

ラオス

1958

10

10

カンボジア

1959

15

15

南ベトナム

1959

140.4

140.4

イタリア

1959、72

8.3305

8.3305

英国

1960

5

5

カナダ

1961

0.063

0.063

インド

1963

0.09

0.09

韓国

1965

1,080

1,080

ギリシャ

1966

0.5823

0.5823

オ-ストリア

1966

0.0601

0.0601

マレ-シア

1967

29.4

29.4

シンガポ-ル

1967

29.4

29.4

ミクロネシア

1969

18

18

北ベトナム

1975

85

85

ベトナム

1976

50

50

アルゼンチン

1977

0.8316

0.8316

モンゴル

1977

50

50

    合  計

3,643.488

2,711.676

210.7655

6,565.9295

注:1   支払いは短いもので4年 ミクロネシア、マレ-シア、シンガポ-ル

     長いもので20年 フィリピン

    2 準賠償とは無償資金供与のこと

    3 平和条約第16条とは、日本軍による捕虜虐待に関する補償のこと

    4 この他に政府や個人の在外資産の喪失や中間賠償(工場の機械撤去)があり、

   全部含めると1兆119億7311万円支払っています。

このように賠償金額が決まりました。

次にこのお金がどのように支払われたかですが、ほとんどが労務と資本財の提供つまり現物支給です。

ダムや発電所です。

具体的に見てみます。

   * ビルマ     バル-チャン発電所建設、鉄道計画、ラング-ン港復旧

   * フィリピン   マリキナ河多目的開発計画、カガアン渓谷鉄道、マニラ通信網整備

   * インドネシア  船舶10数隻、カリブランタス河開発計画、道路建設、鉄道網整備、通信網整備

   * 南ベトナム   ダニム発電所建設と送電誠意

   * マレ-シア   外航貨物船 2隻

   * シンガポ-ル  造船所、通信基地

   * ミクロネシア  日本の生産物と役務の提供

ミクロネシアは戦後アメリカが統治者になりました。

1969年、日本とアメリカは現地の住民を無視して

勝手にミクロネシア協定(太平洋諸島信託統治地域に関する

日本国とアメリカ合衆国との間の協定)を結んでしまいました。

日米は共同で見舞金として500万ドルを拠出するというものでした。

それに対してその後アメリカ議会のミクロネシア賠償請求委員会が受け付けた

実際の請求額は25億ドル以上になりました。

賠償は現物支給ですべて日本にお金は戻り、しかも何年にもわたる分割するという事は、

ゼネコンを始めとする大企業にとっては安定した輸出市場が確保されたという事になります。

朝鮮戦争の特需で高度成長のスタ-トを切った日本の大企業が安定成長を続けることが出来たのです

 

政官財一体、特に財界は国策専門のコンサルタント会社を通じて

政官に働きかけて長期にわたる賠償計画を策定したのです。

賠償が一段落すると大企業の成長を維持する為にODA(政府開発援助)が計画されました。

それに続いては公共事業と原子力発電事業が目玉になりました。

日本の場合政官財の癒着がなかなか断ち切れないのは歴史的に仕方がないことなのかもしれません。

* 現物支給賠償の工事は日本企業が行なっています。

  結局賠償金は日本の企業と政治家に戻ってきているのです。

  インドネシアと岸信介の賠償をめぐるお金の動きはその典型です。

  企業と政治が直接結びつくと癒着になるので全てのお金の動きは間にコンサルト会社が計画を立てます。

  いわゆる政策コンサルタントですが、

  鈴木宗男疑惑で登場した「日本工営」が戦後賠償で重要に位置にあったことは興味深いところです。

注:日本工営は久保田豊が創立者で、

水俣病で有名なチッソの創立者の野口遵と共に1924年年から朝鮮半島で活躍した政商です。

当時衆議院外務委員会のベトナム賠償協定の質疑では

「日本工営は私設賠償庁の観あり」と名指しされたくらい力があったそうです。

 

賠償をアジアの国に対する謝罪だけではなく、日本の戦後復興に利用した事は国の公文書からも伺えます。

   * 「日本の賠償」  外務省賠償部監修  1963年

・・・・通常輸出困難なプラント類や、

従来輸出されていなかった資本財を賠償で供与して「なじみ」を作り、

将来の進出の基盤を築くことが、わが国にとって望ましいことである。

・・・・不況産業に対する特別の国内措置を要せずして、

当該産業に対する救済策が実施されたこととなり、・・・・

賠償が続いている間に、出来るだけこれを利用することが必要である。

   * 「昭和財政史-終戦から講和まで」 大蔵省財政史室編  1984年

・・・・賠償協定の締結時期が遅くなった結果、高度成長期に入った日本は、

大局的に見てさほど苦労せずに賠償を支払う事ができたのである。

加えて、時期の遅れは復興した日本が東南アジアに経済的に進出する際の絶好の足がかりとして、

賠償支払いや無償経済協力を利用するという効果をもたらした

そして現物支給ですから当然のことながら、現地政権の権力者の私腹を肥やすことはあっても、

慰安婦、ロ-ムシャ、軍票・・・・犠牲になった個人への補償は一切されていません

 

2000年6月に日本政府の第15回外交文書公開が行なわれました。

そこに戦後賠償と財界・政界の癒着の証拠が示されています。

* 1958年に来日したインドネシアのスパンドリオ外相と岸信介の会談内容です。

4月15日 岸信介 「・・・・船舶は木下商店がインドネシアの海運省と話し合っていると聞いている。

出来るだけ要望に応じたい・・・・

一国の首相が特定の商社の名前を出すのは異例の事です。

この結果木下商店は9隻の受注を受け、中古の船をあてることで7~8億の利益を上げたとされています。

恐らくその一部は政治資金として岸信介に戻ったものと思われます。

注:木下商店は岸信介が戦前の商工省時代からの結びつきで、

岸が戦後巣鴨拘置所に入っていた時には、留守家族の面倒を見ていました。

1965年に三井物産に吸収されました。

 

戦後賠償は、負けた国が勝った国の戦争費用を負担するというやり方が慣例として行なわれてきました。

では日本が戦争に勝って賠償を取る立場の時はどうだったのでしょうか?

明治時代、日清戦争に勝利して清国から取った賠償金は、2億3千万両になります。

内訳は2億両が賠償、3千万両は日本が一旦取った遼東半島の返還金です。

この金額はなんと当時の日本の国家予算の5年分だったといわれています。

さらに、領土としては、台湾、沖縄、澎湖諸島を獲得しています。

払う時にはゼネコン絡みの現物支給で、取る時には泥棒のようにむしりとっている事が分かります。

    注:戦後賠償は肝心の中国に対しては、中国が請求をしなかったため払っていません

 

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