中国人強制連行

強制連行の時代背景
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最終更新日:2014/06/01 13:41

中国人強制連行はいきなり始まった訳ではありません。

1937年頃日本の中国侵略が本格化すると、軍需産業や関連諸産業は急激に忙しくなり労働力が不足してきました。

特に炭鉱・鉱山・土建・港湾の労働者に不足が目立ってきました。

身体の丈夫な男子から兵隊に招集されたのですから当然とも言えます。

* 1937年7月、商工省の諮問に答えて、石炭鉱業連合会は5ケ年の石炭生産計画を立て、

    約11万人の労働者の補充を国に要請した。

    しかし増員は困難だった。

* 1938年8月、筑豊石炭鉱業会は石炭鉱業連合会、全国産業団体連合会、鉱山懇話会に陳情書を送った。

陳情書 ・・・・朝鮮人労働者の団体的移住は昭和9年閣議の決定により禁止せられたる所なるが、

  時局に鑑み労働力補充の一対策として、この閣議決定の方針を緩和し、

  これを内地に誘致し得るよう取り計れたきこと・・・・

土木業協会も日本発送電の工事業者と協議して、「労務委員会」をもうけ、

厚生省に対して朝鮮人労働者の内地移入の陳情を繰り返していました。

 しかし政府はなかなかこの要請を受け付けませんでした

* 1937年12月22日 内務省の通達

      公的社会機関をして能う限り鉱夫の充足をする

      労働条件の改善を促し鉱夫の生活の安定を図ること

 政府が乗り気でなかった理由は

1        大量移入は各種の社会問題の発生の因をなす恐れあり

2        朝鮮の産業開発に労働力を要する為、日本まで連れてこられない

しかしながら、労働力の不足は深刻になるばかりでした。

1939年7月28日、遂に厚生省、内務省、朝鮮総督府の話し合いが成立し朝鮮人労働者の移入政策が決定されました。

さらに朝鮮人だけではなく、中国人労働者移入の嘆願書も出され始めました。

* 1939年 北海道土木鉱業連合会から中国人労働者移入に関する嘆願書

・・・・枯渇せる労働者資源を支那人の有する最も簡易なる奉仕をもって代位するはきわめて当然ならずや、

彼らの如き低廉なる労働賃金をもって甘んずる労働者を我が本土に連行し・・・・

     (注:中国人を馬鹿にした失礼な文言です)

* 1941年8月、石炭鉱業連合会と金属鉱山会は企画院、商工省、厚生省に

  「鉱山労務根本対策意見書」を出した。

意見書 ・・・・支那苦力(肉体労働者)の移入についても積極的に促進する事・・・・

 

かたや満州において、1937年からの「満州国産業開発5ケ年計画」ではやはり労働力不足になっていました。

1938年1月に「満州労工協会」が設立され、騙すような募集や供出で中国人労働者を集めていました。

満州ではそれでも労働者が足りなかったため、1941年からは「華北労工協会」を通じて強制連行が始まりました。

連行された労働者は「特殊工人」と呼ばれました。

このように国内での労働力不足と満州の特殊工人連行の成功が、中国人強制連行開始のきっかけなりました。

そして連行は政府主導ではなく、産業界からの要望や突き上げに政府が応じるという形になりました。

 

 

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