石門俘虜収容所と訓練供出

討伐で強制連行された中国人は

収容所に収容されました。

いくつかあった収容所の内、

石家荘(石門とも言う)戦争俘虜収容所が

一番大きい収容所でした。

石家荘は華北の要衝で

日本軍も多くの部隊を駐屯させていました。

収容所は第110師団司令部と

特務情報機構(六条公館)に直属し、

華北労工協会が管理していました。

場所は石家荘駅の東南にあって

面積は約18.5ヘクタ-ル(約56,000坪)と言われています。

通称は俘虜収容所、労工教習所、労工訓練所と呼んでいました。

 

 注:収容所は北京、保定、済南、徐州、塘沽、大連にもありました。

 

討伐で連行された中国人が軍人であった場合、

ジュネ-ブ条約違反になりますので、

一定期間訓練所で訓練し、

元俘虜、元帰順兵として、

供出機関を通じて日本へ送り出したのです。

収容所の訓練とは

重労働と虐待を機械的に繰り返すことや、

洗脳(日の丸、君が代、皇居遥拝)で

反抗する気力を失わせる事でした。

また、ぎっしり詰込まれていたため

病気や事故などでかなりの死亡者があったようです。

 

●曹栄躍 回想記「我所知道的南兵営」 1984年7月

 収容所で戦争捕虜に最も脅威となったのは

 疾病と疫病であった。

 数百人が1部屋にぎっしりと詰込まれ、

 虱、蚤、南京虫が固まっていた。

 オデキ、疥癬が蔓延し、恐ろしい伝染病が流行し、

 死の恐怖がすべての人を脅かしていた。・・・・

 収容所の病棟は3棟あった。・・・・

 伝染病と老弱重病者は3等病棟に入れられ、

 死ぬのが早められた。

 病棟は板を寝床とし、

 伝染病棟には地面に厚く石灰が敷かれて、

 赤痢、チフス、コレラ、猩紅熱に罹った病人は

 ここに隔離され、医療も薬品もなく、

 食事もとれず、水も飲めず、

 自然のままに任せるしかなく・・・・

 まだ息をしており治療すれば助かるのに

 死体置場に運ばれた者もいた。・・・

 厳寒の冬には・・・・

 病棟で凍死し、耳や鼻、睾丸が

 鼠に噛み切られているのがしばしば見かけられ、

 まことに凄惨な状況であった。・・・・

 死体をまるで刈り取った後の

 コウリャンのように束ねて、

 車に積み込んで運び出した。・・・・

 死体は休門義地の「万人坑」に投げ込んだ。

 1944年、日本軍は洛陽作戦で、

 短期間で石家荘に

 1,300人あまりの国民党の捕虜を送ってきたが、

 距離が遠かったので傷病捕虜は

 食事も摂れず水も飲めないまま、

 有蓋貨車に何日も閉じ込められ、

 石家荘に着いて汽車を降りない内に大量の死者が出た。

 収容所に入れられてから、

 人が増え過ぎたため条件が劣悪で、

 毎日数十人が死亡、

 最も多い時は、1晩に290人以上も死に、

 三輪人力車は運びきれず、

 トラックで外に運び出した。

 

1939年設立から1945年の6年間で

約50,000人が収容され、

20,000人余りが虐待されて死亡し、

約30,000人が労務者として

日本に連行されたと言われています

  (元・労工訓練所副所長 張子元 回想録)