100部隊(関東軍軍馬防疫廠)

[関連部隊 100部隊 関東軍軍馬防疫廠]

   (秘匿名満州第100部隊、後に徳25207部隊と改称)

動物を対象にしていたので

直接関係はないかもしれませんが、

一応731部隊の関連として説明します。

動物、主として軍馬の病気を扱う部隊がありました。

通称100部隊と呼ばれるこの部隊は、

1933年(昭和8年)に新京(現・長春)の寛城子に

臨時病馬廠として設立されました。

その時点では関東軍の獣医部長だった高橋中佐が責任者で、

高橋部隊と称していました。

1936年(1938年?)に天皇の軍令によって

孟家屯に移転して正式に関東軍軍馬防疫廠となりました。

 

●在満兵備充実に対する意見 1936年4月23日、

    関東軍参謀長板垣征四郎から

    陸軍次官梅津美次郎への要望書 陸満密大日記より

 第24、関東軍軍獣防疫廠の新設増強

    関東軍にて臨時編成しある病馬廠を改編して

    傷病馬の収療、防疫、細菌戦対策の

    研究機関たらしむる如く関東軍軍獣防疫廠を新設す

    駐屯地は寛城付近とす


その時点での規模は敷地面積1000m×500mで、

隊員、研究者はすでに800人、

中国人労働者は300人を越えていたと言われます。

日本国内における本部は陸軍獣医学校です。

ちょうど陸軍軍医学校の下部組織として

731部隊が出来たと同じ様に、

獣医学校の下部組織として100部隊が出来た事になります。

初代廠長(部隊長)は高島一雄獣医大佐です。

敗戦間際に改正された部隊番号を見ると

731部隊の第25201部隊から始って

100部隊が25207部隊と続き番号になっています。

 

部隊長 並河才三

     (猛家屯に移転するまで、そして高島が再度部隊長になる)

    高島一雄獣医大佐

  若松有次郎獣医少将

 隊員の数は906名で組織は

庶務部(総務部)

  2つの課があり、総務・内勤・医療・衛生等と、栽培実験場を管理した

 部長 村本金彌少佐

  実戦研究部門で、いくつかの課があった。

  細菌とウイルス実験を通して、鼻疽、炭疽、伝染性貧血

  および植物ウイルスの効能を解明し

  伝染させる方法を確立した。

  馬および動物の血液一般に関する病気の研究

第1部    細菌戦の分野における調査業務、

     細菌やウイルスの研究と製造を行う部隊の主要部門

     将校20名、研究員30名、技術員50名が勤務

 第1課 細菌戦、細菌再生産の方法

         炭疽、鼻疽、牛疫、羊疫

  西田研究員

  山口実験手

  平桜全作

  他約20名

 第2課 病理学

   家畜の病毒(鼻疽、羊痘、牛疫、炭疽)

 第3課 実験動物の管理、繁殖

 第4課 有機化学(毒薬)

 第5課 植物-作物の病気

 第6課 (後で出来た)

 細菌戦準備の諸問題

三友一男

40名から50名の人員

第3部 血清ワクチンの製造

第4部 動物飼育

第5部 教育(別名531部隊))  獣医学,細菌学,植物学,化学

敷地 東西 1.5キロ

   南北 2.5キロ

建物 敷地内に約100

捕虜収容所  約40人

死体焼却炉  3基

支部  

 大連、ハイラル(後に克山に移転)、チャムス、

 拉古、東安、鶏寧、東寧、四平

 

獣医部隊でしたから馬やその他の動物に

関する病気を研究することが表向きでしたが、

実際は731部隊と同じように

細菌戦の研究実践を行ない,人体実験もしていました。

敷地内には大きな墓地があり、

焼却されなかった動物や人間の死体が埋められました。

 

●1949年農民が巨大な墓地を発見して

 当局に「人間の死体が長さ50メートルの

 土地一筋に埋まっている」と報告し、

 別な農民は「現場では人間の死体が層をなしており、

 深さ6尺から1丈の深い所にも

 まだ人間の死体があった」と断言しています。

 

「100部隊の資金」

資金は2つのル-トから入っていました。

1944年4月からの1年間で

東京の陸軍省から60万円、

関東軍から100万円が入っていました。

 

「証言」

● 関東軍獣医部長 高橋隆篤中将の証言 

        (ハバロフスクク裁判の尋問)

....私のなした仕事は、

第100部隊の実践活動を指導して、

細菌兵器、とりわけ鼻疽、炭疽、

牛疫、羊痘、モザイクのごとき

急性伝染病病原体の大量生産に関する

指令を発したことであります。

私は第100部隊が細菌兵器の大量生産に関する

これらの任務をいかに遂行しておるかを監督し、

その目的をもって毎月約1回自ら第100部隊におもむき、

細菌用兵器の製造についての

私の命令の遂行状態を査問しました....

 

● 安達誠太郎供述書 (1954年8月16日)

私は1932年8月5日、中国東北奉天に来て、

関東軍臨時病馬収容所所長に任じられた。

関東軍臨時病馬収容所は100部隊の前身だった。

1931年11月に出来た。

初代所長は獣医中佐斧紀道だった。

2代目所長は私で、1933年7月までつとめた。

第3代所長は獣医中佐高橋隆篤で

1933年8月から35年7月までだが、

臨時病馬廠と改称した。

第4代所長は獣医大佐並河才三で

1935年8月から37年7月までだった。

第5代所長は獣医大佐高島一雄で、

一般に高島部隊と呼ばれており、

1937年8月から39年7月までである。

第6代所長は獣医大佐並河才三で、

1939年8月から41年7月までだった。

彼がこの職についた当初は並河部隊と称していたが、

途中で100部隊と改称した。

第7代所長は獣医少将若松有次郎で

1945年8月までつとめた。

1941年に100部隊が秘密部隊となってから、

私は細菌戦の研究と準備のためであることを知っていた。

しかし関東軍の命令とあれば提供しないわけにはいかなかった。

太平洋戦争において勝利するためには、

悪いことでもしなければならないと考えていた

 

●福住光由 獣医

100部隊は基本的に細菌学者、

化学者、獣医学者、農業技師で構成され、

主要任務は謀略および細菌戦に備えることだった。

家畜および人間の大量殺戮のための

細菌並びに猛毒の大量用法に関する研究を行っていた。・・・・

これらの毒薬の効力を検定するため、

家畜及び生きた人間に対する実験を行って来た。

 

●畑木章 研究助手

家畜と人間を用いた実験によって細菌の活動を研究し、

その目的で部隊は馬、牛その他の動物を有し、

また人間を監獄に収容していた

 

●韓蔚  日軍細菌殺人罪行的見聞録から

   (中に出てくる中村は石井四郎の妹の夫、中村吉二軍医中佐)

100部隊の実験室はすべて暗号で呼ばれていた。

1つの培養室に入るには

5つのドアを通って行かねばならなかった。

ある実験室へ行くと、

白い服を着た1の日本人が引き止めて言った。

「今丁度試験中なので、本室の人員でなければ立ち入り禁止だ」。

それから中村はまた私を地下室の実験室の

参観に連れて行った。

地下室には、温度計、湿度計、洗浄器具が設けられていた。

手を洗い、白衣に替え、マスクをつけて、

ゴム靴を履き、消毒をしてからようやく中に入る事を許された。

実験室では、何列も並んだ様々な大きさの電解槽を見たが、

中は薬液に浸された寒天で、

細菌を培養する養分となるものであった。

2列目の台の上には大小様々な培養皿が置かれ、

両脇には大きなオ-ブンがあり、

さらに蛍光灯と高圧滅菌器等の設備があった。

さらに中に進むと、両側はみな暗室になっていた。

中村は私に、これは培養室だと説明した。

生物桿菌は普通の培養器で生長し、

酸素を必要とし、運動しないとも言った。

もしこれを暗く湿気の高い場所に置けば、

数ケ月でも、長ければ数年でも生かしておくことができる。

もし完全に乾燥した場所におけば、2,3日以内で死んでしまう。

この種の菌は、米穀綿花の上に生存しており、

80度にまで過熱すれば死亡するが、

耐寒力は極めて強く、

冷凍してもほとんど無期限に生存している。

さらに50mあまり行って左に曲がり、地下の暗室に入った。

この時空気は急に重苦しくなり、吐き気を覚え、

目を強く刺激する悪臭がして自由に呼吸ができなかった。

見ると廊下の両側におよそ10幾つかのドアがあり、

すべて赤と黒の暗幕で覆われていた。

このとき真ん中のドアが開けられ、

3人の白い服を着た日本人が、

中から手術車を押して出てきて、

上には白い布がかけられ高く積み上げられた

少なくとも3体の死体があった。

さらに前へ進むと、両側の部屋には

大小様々な大きさの乾燥器が並べてあり、

別の1部屋の中はすべて化学薬品であった。

ほかの数ケ所もすべて見張りがいたばかりでなく、

すべて立入禁止の札が掛けられていた。

中村によると、中の人員はすべて指定された仕事の範囲があり、

勝手に歩き回ることは許されず、規律は特に厳格であった。

注:数年働いていた王慶有によれば、

  そばに立ってちょっと見るだけでも駄目で、

  日本兵に見つかったら直ちに撃ち殺された

 

100部隊の細菌生産能力は、

年間で炭疽菌200キログラム、

鼻疽菌100キログラム、

赤痢菌2~30キログラムだと言われています。

 

「100部隊が実践した細菌戦」

●1942年、ハイラルの北約120キロの

 ソ連国境で行なった「三河演習」

 第1部長村本金彌少佐の指導の下に、

 ソ連に流れ込むデンブル河に鼻疽菌を散布し、

 地面を炭疽菌で汚染した。

●1000頭に近い馬を、炭疽菌で感染させ、

 モンゴル人を使ってソ連国境まで運搬,ソ連の領域に放した。

●1945年、ソ連国境の南ハン・ゴ-ルで、

 細菌を雪の上、草の上に放置して、

 動物がペストや羊痘にいかに感染するかの実験をした。

● 人体実験は731部隊と協力し安達野外実験場を使用した

 牛疫に感染した牛の肉を粉末にして飛行機から散布する

 

人体実験の被害者は部隊衛生所の隔離室に収容し、

各種細菌や毒物の実験をし、

験後は殺害し部隊裏の家畜墓地に埋められました。

敗戦時、すべての捕虜を殺害し、

証拠を消すために施設を爆薬で破壊して部隊は新京を出発、

安東経由で8月21日、京城(現・ソウル)で解散しました。

戦後GHQは731部隊でさえ調査しなかったのですから

当然100部隊もよく調査されていません。

敗戦後の8月20日に

馬やネズミに細菌を感染させて逃がしています。

そのため戦後長春一帯はペストを始めとして

色々な病気が流行したそうです。