防疫給水部(細菌戦部隊)

甲1855部隊
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最終更新日:2014/06/28 15:22

甲1855部隊とは北京にあった北支那派遣軍防疫給水部隊の事です。

1937年7月12日ハルビンで大田澄を部長として北支那臨時防疫給水部が編成されたのがスタ-トです。

この部隊はいったん解散となり改めて1938年(昭和13年)2月、北京の天壇に作られました。

北支那派遣軍(後の北支那方面軍)の直轄で部隊長は陸軍軍医大佐西村英二でした。

支部や出張所が12ケ所(13とも言われる)もありました。

*北支那防疫給水部一般の行動  西村英二 1938年  (原文カナ)

北支那防疫給水部は以前北支那方面軍司令部の直轄下に在りて

本部を北京に位置し支部出張所を12ケ所

(本部直轄5、第12軍指揮下4、第1軍指揮下1、駐蒙軍指揮した1)に配置し

北京本部の業務統制指導の下に北支那全般に亙る

広汎なる地域の防疫並びに防疫給水業務を誓任し併せて防疫給水に関する教育

及び調査研究、各種予防剤、治療剤の製造補給及び特殊伝染病患者並びに状況に拠り

一般伝染病患者の収療等に任する外軍作戦の要求に基きその都度

強力なる防疫給水部(班)を編成し作戦に参加せしめ

直接戦闘部隊の防疫給水に任じ兵員戦力の保持増強に遺憾なからしめたり・・・・

「部隊の組織」

  北京にあった本部の組織 (1944年の編成表に依る。その時点での人数は369名)
部隊長    軍医大佐 西村英二

総務部 部長 軍医中佐 吉見亨

庶務課  衛生大尉 渡部忠重

企画課  軍医少佐 後藤正彦

第1課  最初は第1分遣隊と言われ、北京協和学院を接収しその中にあった

課長 軍医少佐 小森源一

業務   事務、経理、衛生材料、細菌、結核、培地、菌株、血清、BCG、原虫

  寄生虫、病理解剖、防疫給水、理化学検査、衛生調査、兵舎

人数 115名(1944年編成表より)

第2課  本部敷地内におかれ、ワクチン製造

課長 軍医少佐 平野晟

業務   事務室、第一ワクチン室、第二ワクチン室、第一血清室、検索室、

  痘病室、培地室

人数 72名 (1944年編成表による)

第3課  最初は第2分遣隊といわれ  静生生物研究所を接収しその中にあった

課長 技師 篠田統 (京都大学講師 昆虫学者)

業務   事務、特別研究室、調査室、生産室

  この課でペストノミの生産と中国人捕虜を使った人体実験が行われていた

隊員 尾崎技師  伊藤影明

人数 36名(1944年編成表より)

 診療課

課長 軍医少佐 橋本泰雄

業務   庶務、経理、薬室、レントゲン、病室(第1から第7病棟)、歯科室、

  病理試験室、兵器


教育隊 隊長 軍医大尉 村田英太郎
資材課 課長 薬剤少佐 上田正臣

業務   衛生材料(注:餅つまり白ネズミの事)、兵器の管理

経理課 課長 主計大尉 山野武夫

支部及び出張所

天津出張所(本部直轄)所長 軍医大尉 立石五郎(1944年時点で人数51名)

塘沽出張所(本部直轄)所長 軍医大尉 黒川正治(同上26名)

済南支部(本部直轄) 所長 軍医大尉 大森玄洞(同上45名)

青島出張所(本部直轄・済南支部)所長 軍医中尉 鈴木武夫(同上18名)

石門支部(本部直轄)所長 軍医少佐 田山吉政(同上32名)

張家口支部     所長 軍医大尉 川鍋里吉(同上47名)

太原支部      所長 軍医少佐 遠藤吉雄(同上100名)

運城出張所     所長 軍医大尉 松尾梅雄(同上56名)

鄭州支部      所長 軍医少佐 上村秀勝(同上93名)

開封出張所(鄭州支部)  所長 軍医大尉 廣瀬一郎(同上56名)

新郷出張所(鄭州支部)  所長 軍医中尉 隆文雄(同上44名)

?城出張所(鄭州支部)    所長 軍医中尉 瀬戸豊(同上38名)

包頭出張所

碓山分遣隊        所長 軍医少尉 田村節彦(同上17名)

 

「部隊の概略図」

SCN_0093   1855部隊

この部隊もペスト用のネズミやノミの生産をしています。

 

*井本業務日誌  1941年2月7日~14日  原文カナ

「北支西村部隊連絡(注:甲1855部隊のこと)
北支現在の装備
14年秋 21万円 細菌兵器の研究に資する如く施設を始め9分通り完成 
ロックヘラ接収計画(注:北京協和医学院)を樹立しあり、「ホ号」××(×は判読不明)
彼は日本軍より利用するという意向を明示せば明け渡すの止むなしと考えあり 
セイカ大学の建物位置共に恰好の位置なり今や米より支那側に渡しあり 
軍との了解は利用する如くつきあり 
弾薬(注:ベストノミ)5Kgは現在の施設を以って製作可能なり ノミの生産に援助し得る如く希望す

 

*1943年4月17日 参謀本部で開かれた「ホ号打合」から・・・金原業務日誌による

北支、 粟(注:ノミ)100g、 餅(注:ネズミ)1000。9月末100Kgの粟生産可能。

  但し餅の追送を要す(計2万ケ、月々漸増)。

イ、餅の輸送の場合、船便による時は船待(神戸4日)の関係上相当の飼料を要するのみならず、

  これがため3割の損耗を生ず。
ロ、研究を主体とし格好の試験所を獲得せり。(保機、防諜上も適当なり)

            (注:甲1855部隊が占領した静生生物調査所の事)
ハ、葡萄糖を使用し餅の節約となる。約1/8の数で可能なり。

  その粟の卵保存法を研究し好結果を得たり。
ニ、砂ネズミ(蒙古)

 

*北支那防疫給水部 業務詳報(防衛研究所図書館で伊香俊哉氏が発見・原文カナ)

- 河本少尉以下8名、試験用小動物宰領のため6月22日より東京陸軍医学校に出張。7月18日帰隊す

- 三宮中尉以下6名、試験用小動物宰領のため7月25日より東京陸軍々医学校に出張9月13日帰隊す

 

*真田業務日誌 1943年11月28日

北支、飼育官増やせば 7.5Kg、100人増やせば 22.5Kg(月当り)

 

*北京甲1855部隊の検証から

部隊で必要な小動物は、他の姉妹部隊と同様に東京の陸軍軍医学校まで受け取りに行った。

1944年の記録によると、試験用小動物受領のため、

川本少尉以下8名の隊員が6月22日に東京の軍医学校に出掛け、

7月18日に帰隊している。

さらに三宮中尉以下6名も7月25日から軍医学校に動物の受領に出掛け、帰隊は9月13日であった。

 

「証言」

* 伊藤 影明 第3課でノミの飼育を担当していた  1932年生れ 1994年証言から

1943年6月15日から北京市内の天壇にある

北支那派遣軍甲1855部隊(北支防疫給水部)で衛生兵として教育を受けました。

衛生兵といっても患者を看護する衛生兵と防疫をする衛生兵とがあるのですが、私は防疫の方でした。

水を第一線の兵士に与える仕事が任務でした。

北支では本部を含めて支部出張所が16、市内に分遣隊が2つあり、

6ケ月の教育のあと私は第2分遣隊に配属されました。

その時の篠田分遣隊長の訓示は「・・・・これからやる事は全部暗号でやってもらいたい」と言われ、

ネズミを“モチ”、ノミを“アワ”と教わりましたが、ほかのことは忘れてしまいました。

「ここでやっていることは絶対に他言してはならない。

もし話した場合は、軍法会議で処刑される」とのことでした。
また訓示の中で「沖縄の人間はいくらか残し本土に引き上げて、敵を沖縄に全部上陸させる。

そして敵が全部上陸した時に細菌を使う」と言いました。

私の仕事はノミの増殖でした。

そのためにはノミに血を吸わせなければならないので、ネズミを使いました・・・・

ネズミは常にチフス菌を持っているため、私たちは予防接種をしてから分遣隊に行ったのですが、

1944年1月頃発病して本部に入院したことがあります。

1945年2月ごろに、第三課に陸軍の幌付トラックで“マルタ”が運ばれてきました。

私たちは“マルタ”を収容する部屋を作る準備をしました。

3階の片側を監獄にして、そこでいろいろな実験をやったと思われます。

このようにして人が連れてこられたことが私の見た記憶でも2回ありました。

翌日、私は1つの部屋を盗み見しました。

部屋は8畳か10畳くらいの部屋で、窓ガラスには黒いペンキが塗ってあり外から見えなくしてありました。

窓枠には鉄格子が入っている。またアンペラが敷かれ、

裸電球と小さい卓とその上にマントウが2つおいてあるだけでした。

留置室の木製扉の覗き窓から捕虜を見て、私はこれは人間に対して人間のすることではないと思いました。

 

* 崔亨振(朝鮮人) 1942年から約2年済南支部で通訳として勤務

私が初めて行ったとき、すでにおよそ100人の捕虜が監房に収容されていました。
日本人師が実験中の被検者と話すときは、必ず通訳をつけました。

被検者は、ペスト、コレラ、チフスを感染させられました。

感染していない者は別の部屋に収容されてました。
被検者を収容している部屋には、進行中の実験がよく観察できるよう大きな鏡がありました。

私はマイクを使ってガラス製パネルを通して被験者と話し、

医師の質問「下痢してる?頭痛は? 寒い?」などど通訳しました。

医師はすべての答えについて丹念に記録をとりました。

チフス実験の場合は10人が細菌混入飲料を飲み、その内5人はワクチンを投与されました。

両グル-プは隔離されていました。

医師は彼等を観察し、私の通訳で質問して、答を記録しました。

ワクチンは被投与者5人全員について有効だったことを証明しました。

投与しなかった5人は発病しました。

ペスト菌実験の場合、感染者は悪寒と熱に苦しみ、死ぬまで苦痛でうめきました。

毎日1人がこうして殺されたのです。

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